第七章道着装う一


それから一カ月もすると、悪戦苦闘した当時が懐かしく思えるようになっていた。

「あん時は袴を着けるのに、四苦八苦して大変だったよ」高橋が振り返ると、長谷川が同調する。

「そうでしょ、私だって。初めの頃は同じでしたよ。まあ、今じゃ何てことないですけどね。ただ、苦労したのは学生時代と今では、体形が違っていることですけどね」

「それにブランクが長かったし、余りにも体重が重くなり、腹が出ていることで激変しましたからね。昔着けていた袴が、まるで違ったものに感じましたよ。でも、今ではそれも慣れ、何とも思いませんがね」と言いつつ、市川を見て「市川さんの今の体形は、昔とそう変わりはないような気がしますが?」脇腹を摩りながら尋ねると、市川が「いやいや歳も歳ですし、体形が変わりましたよ。でも、昔と比べたら長谷川さんのように、ぷっくりと腹は出ていませんからね。そこが大いに違うところです」

すると長谷川が「そうですか、それは羨ましかぎりだ」と言い、高橋を覗い「ところで高橋さんも市川さんのように、ほっそりしていて羨ましい限りです」とうそぶくと、高橋が返す。「いやいや、弓道人と言うものはやせっぽより、少々腹が出ていた方が袴もぴったりと着き、見栄えも良いと思いますよ」と持ち上げた。

「有難うございます。どうせ私は肥満です。従って袴はピタリと身体に馴染んでいますよ」と、長谷川が皮肉混じりに返した。

すると高橋が、「俺なんか、買って間もない頃などは、戸田さんに袴の着脱で大変世話になったけれど、今だ時折迷うこともあるが、この頃は他人の手を借りず着られるようになりましたよ」と言い、例え話を続ける。

「まあ、これも。社会人なりたての頃の、ネクタイの結び方と同じで、随分と苦労したことを思い出しますよ」懐かしんでいると、長谷川が茶化す「ほう、高橋さんも新入社員時代があったんですね」と意味深にのたまい、さらに「そうですか。高橋さんが新入社員ね…。最近の態度を見ていると、当時も初々しさなんかこれっぽっちもなかったでしょうね」と虚仮下ろした。

すると、市川が「私も想像できませんね。高橋さんの日頃の行動を見ていると、図々しさが全面に出ていて、とてもとても」と、これまた茶化した。

すると高橋が、鼻を突きあげ「何を、おっしゃいますか。この真面目な私を、今もそうですが。今迄の礼儀正しい言動をみれば、容易に理解できると思いますよ」

さらに「その裏付けというか、日頃の弓道に向かう立ち振る舞いを見ていただければ、実に良く出ているし裏付けとなりませんか?」

続けて、「言葉の使い方にしても、行射での動きにしても、自分で言うのも何ですが、ほれぼれしますよ」と、能天気な言葉が口を突いて出た。

長谷川が呆れ顔で、「またこれだ。本人本当にそう思っているのかな。もしそうだとしたら、馬鹿につける薬はないと思うぜ」呆れ顔で漏らした。

そんな他愛のない会話を止めたのが、市川である。「まあ、袴の着用や昔の振る舞いでの自慢話はそれくらいにして、口を動かすより身体を動かしませんか。口が滑らかだけでは、弓道の上達はないですから」さらに勢いずく。

「全神経を弓と矢に注ぎ、一射一射行わないと次の段位は望めませんし、ましてや高橋さんは、今度初段の審査を受けるんですよね。一射を大切にしない稽古を続けていたら、受かるものも受からなくなりますからね。それに審査は実技と記述問題の二部構成なんでしょう」

さらに説教をするように、「まだ審査迄若干日にちがあるから、この際心を入れ替えて取り組んだら如何ですか?」真顔で諭された。さらに鼻を膨らませ、「有段者である私からの適切なアドバイスだと思って、真剣に向き合ってください」とのたまった。

すると、冗談ばかり言っている高橋が、面目なさそうに「市川さんの言う通りだ。実技にしても中途半端だし、記述問題は初段では、A群が二択、B群が四択だ。どちらにしても、鉛筆を転がして答えられることじゃねえ」

さらに真剣な顔で、「行射の方は何とか型を作っても、記述問題はそうはいかない。的を外すような記述じゃ駄目だからな。こりゃ審査日まで真剣に取り組まにゃならんで…」

真面目くさった顔で告げ、さらに「問題は記述の方だ。A群、B群の二択、四択のいずれ一つが問題として出るからな。しかし、如何すれば良いんだ。何か楽して覚えられる方法はないもんか…」こぼすと、長谷川がアドバイスする。

「高橋さん、弓道教本を持っていますか?その中に、どんな問題が出ても対処出来る答えがありますよ」すると、高橋が「ええ、なんですか?その弓道教本って…」と頓珍漢のごとく応えた。



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