三
一時行射を止め、巻藁前で上の空でいた高橋が、現実に戻りうそぶく。
「しかし、俺もとうとうマイ弓、マイ矢。それにマイ弽、マイ道着を揃えるんだ。これで本当の川弓連の一員になった気がするよ。実際に弓や矢は遅くとも二週間後にはなるが、揃えると決まれば一段ギヤが上がりそうだぜ。俄然やる気が出て来たぞ」
長谷川と市川に向かいほくそえむ。
すると長谷川が、冷水を浴びせるように忠告する。
「高橋さん、用具を一式揃えたからと言って、上達するとは限りませんよ。揃えることは良いとして、気持ち的には最初の一歩と言うことですから、勘違いしないことですよ」と戒めた。
すると、高橋が頷く。「おお、その通りだ。有段者の長谷川先輩のおっしゃる通り。気持ちを引き締めないといかんな」言いつつ、脇腹を両手で軽く叩いた。
そんな時、頷きながら市川がのたまう。「その通りです。長谷川さんの言う通り。高橋さんの場合は、これから本格的にいばらの道を歩くわけですから、ルール本をじっくり読んで覚えてください。ただ漫然と弓を引いて、矢を放てば良いと言うわけではありませんからね」
もっともらしく言いながら、市川が弓道本を差し出す。
「これは弓道教本と言って、全日本弓道連盟が編集した、言わば弓道のバイブルです」と、真面目顔でのたまった。
「あいや、こんな本、何処で手に入れたんですか?」市川に尋ねると、「あっ、これは。小山弓道具店で売っているので、高橋さんもい求めるといいですよ」と困惑ともにアドバイスすると、高橋が尋ねる。
「長谷川さん、この弓道本とか言うの持ってないとまずいんですかね」疑問を呈すると、
「勿論ですよ、教本ですからね。弓道の心得とか射法八節など、弓道を行なう上で知らなければならないことが細かく載っています。それらの内容を熟読し、よく理解し身体に染み込ませなければならないんです。そのための道標的役割の本ですよ。むしろ、教本なくして、弓道の道は歩めませんし、稽古する資格もないんです」と得意げに話す長谷川に、高橋が不満げにのたまう。
「しかし、なんだ。そんな心得とか大それた難しいことを、弓道教本から学んで身に付けにゃならないなんて至難の業だ。俺に出来るかな、覚えられるか。それに実践出来るか自信がないよ」さらに愚痴る「いったい、如何すれば良いか悩むよな…」
「それこそ、夢に教本が出てきて、襲われるんじゃないか。そんなことになれば、おちおち寝られず気が狂うぜ」高橋が大袈裟にぼやくと、直ぐに市川がフォローする。
「大丈夫ですよ。そんな真剣に、気が狂うほど精読しなくても。高橋さんなら持ち前の精神力で乗り越えられますから」と励まされ、あっけらかんと「そうですよね、とことん気を詰めることはないですよね。今さら学生の頃のように出来ないですから。要は、要領よく身に付ければ良いということですよね、市川さん」
「はい、その通りです。学問を通じて精通したからと言って、必ず矢が的に中る保証はありません。何時も白下先生がおっしゃっているじゃないですか。『的に当てようと思うな。きちっと射法八節通りにやれば、矢が的に中ってくれるから』とね」
「たしかに、そのように何時も説教されているが、自然に矢の方から的に中ってくれれば苦労はしないんじゃないか」高橋が愚痴ると、長谷川が曰く「当然ですよ、矢の方から的に中ってくれるような、矢尻にマグネットでも付いていればいいが、そうはいかないですよ。そこはやはり鍛錬と言う稽古あるのみで、地道な修練を重ねないと上達なんかしませんよ」
「まあ、私みたいな有段者から見れば、高橋さんなんかまだひよっこの段階ですから、若者に負けないくらいの気力を持ち充分な練習を積んでください。そうすれば、いずれ初段はクリヤー出来るんじゃないですか。そこは頑張るのみですよ」と鼻をつんと上げてほざいた。
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