第17話 第十七講 鍋料理
僕の家は神戸市灘区内の住宅地にあり、東に都賀川、西に国道、南に神戸港、北に六甲山系の摩耶山がある。鈴奈は、「風水思想では四神相応の好立地なので、誠也君やあなたの家族には、幸運が訪れるわよ」と、羨ましがる。
僕は、自宅の二階から見える摩耶山の景観が好きで、子供の頃から山を見ては豊かな自然を想像してワクワクした。摩耶山の名前は、空海が天上寺にお釈迦様の母親の摩耶夫人の像を安置したことに由来している。
摩耶山の遠景は、季節によって様々な表情を見せてくれた。僕はいつも、摩耶山に笠雲がかかると翌日の天気が雨になることを予感した。
大阪に住む親類の阪神タイガースファンは「阪神沿線に住んでいるということだけで羨ましくてしょうがない」と、会うたびに持ち上げてくれた。
阪神大石駅から三ノ宮駅に向かう時、地上から地下のトンネルを通るので子供の頃は、三ノ宮駅に着いた頃は、日常から非日常の異空間に抜け出したような快感に夢中だった。
僕は、鈴奈と交際し始めてから、今までよりも一層、自分の住む町が大好きになっていた。
※
「歴史学者によると、日本で土器が発明された縄文時代から、家族で鍋を囲んで煮炊きしていたことになる。硬い食材を軟らかくして、消化吸収を助けるとともに、鍋の中に溶けだした栄養素を食べる習慣が、古くから形成されていた」と、先生は感慨深げに話した。
現在、鍋料理と呼ばれるものは、寄せ鍋、ちゃんこ鍋、すき焼き、湯豆腐、おでん、しゃぶしゃぶなど、多様なものがある。
先生は「中でも、すき焼きや、しゃぶしゃぶは欧米の旅行客にも人気がある」と、話すと「今日はちゃんこ鍋にしよう」と提案した。
「荻久保さん、君が職場の宴会で鍋奉行をするなら、食材をどんな順番で入れるかな?」
僕は、先生の視線が自分に向けられていたので、また指名されるのを予感していた。高校生の僕にお奉行は務まらないと思ったのか?
「私は、煮炊きする時に火が通りにくい野菜から、鍋の中に入れています」
「具体的に言うと、何から?」
「そうですね。ダイコン、ニンジン、ゴボウなどの根菜と、ハクサイや長ネギの白くて硬い部分を先に入れています」
荻久保さんの明解な答えに、先生は驚いたような表情をして
「君を私の教室の鍋奉行に任ずる」と、ジョークを飛ばした。
鍋料理は先生の提案で、皆で同じものを作って食べる方向が決まった。どんな鍋料理にするか、先生が希望を募ると、多数決でちゃんこ鍋に決まった。
「ビールがあれば最高ですね」と、荻久保さんが声を大きくすると、柿崎さんがそれに賛同した。
「生徒の中には、クルマで通う人も……、未成年者もいる。残念だが、アルコールは禁止だよ」と、先生は告げた。
先生の話では、ちゃんこ鍋は明治時代に、第十九代横綱常陸山の所属する出羽海部屋で考案されたのが始まりだ。常陸山の絶大な人気で、入門者が増え通常の配膳では間に合わなくなり、一つの鍋を大勢で囲む「ちゃんこ鍋」が作られ、相撲界の定番料理になっている。ちゃんこ鍋の名称は、力士の食事を作る当番を「ちゃんこ番」と呼んだのに由来している。
「常陸山の大相撲の戦績は、百五十勝十五敗二十二分けだ。圧倒的に強かった。当時のライバル梅ケ谷と並び称されて、梅常陸時代と呼ばれる明治時代後期の大相撲黄金時代の立役者だった。『ちゃんこ鍋』という料理は、常陸山の人気で誕生したと言い切ってもいいだろう」と、先生は力説した。
ちゃんこ鍋の作り方は……。
一.ハクサイを一口サイズに切る。
二.木綿豆腐を一口サイズに切る。
三.タラを一口サイズに切る。
四.ゴボウをささがきにする。
五.ダイコンを薄切りにする。
六.シイタケを半分に切る。
七.コマツナを3cm幅に切る。
八.ショウガをすりおろす。
九.ニラをざく切りにする。
十.油揚げの油分を抜き、三角に切る。
十一.エビの殻を剥き、切込みを入れて背ワタを取り除き、塩水でサッと洗った後、水気を除く。
十二.さらに、エビを包丁で細かく叩き、包丁の側面で押さえつけ粘り気を引き出す。
十三.加工したエビに、溶き卵、片栗粉、塩、白ネギ、ショウガを加え、よく混ぜ合わせる。
十四.土鍋に水、酒、みりん、ニンニク、すりおろし生姜、砂糖、塩、胡麻油を合わせて入れて煮立て、加工したエビを団子状にして落としていく。
十五.ゴボウ、ダイコン、ハクサイ……と、硬い具材から順に土鍋に入れて煮る。
僕には、今回教室で食べたちゃんこ鍋が、これまで家や日本料理店で食べたどの鍋料理よりも、素晴らしく味わい豊かなものに思えた。
講義が終わると、先生と野島さんが親しそうに話しているのをよく見かけた。野島さんは、家族旅行に出かける話をしているのが耳に届いた。先生は、ふざけながら野島さんの頬をつんと突き、楽しそうに笑っている。講義での野島さんの批判的な態度とは天地の差がある。親子ほどの年齢差のある男女が、親密に話している。
僕の視線を感じたのか、二人は真顔に戻り「じゃあ後でね」「ああ、待っているよ」と、応答した。どういう関係だろう? 僕は疑問に思ったことを鈴奈に尋ねてみた。
鈴奈は「先生と野島さんは、あなたが邪推しているような関係とは違うと思う」と、自説を述べた。「要するに、あれは二人とも異性を意識して見る目じゃない」とのことだ。
※
帰りは、寄り道せず自宅に向かい、午後六時に再開する予定だ。姉の提案で、家族でする晩御飯に鈴奈を招待した。食事は、六甲山サイレンスリゾートのレストランで、夜景を見ながら豪華な食卓を囲んだ。父親がクルマを走らせ、ホテルに着くと予約席に案内された。
「鈴奈ちゃん、素敵なプレゼントを有難う」と、席についてすぐに、母親は僕が貰ったボールペンのお礼を言葉にした。
「弟がいつもお世話になっています」と、姉もいつになく茶目っ気のある表情で話した。
父親は「うん、うん」と、その都度頷き鈴奈の方を見て、笑顔を見せた。
窓際の席に座っていたので、眼下に百万ドルの夜景と呼ばれる景色が広がっていた。
鈴奈は、目をウルウルさせると「素敵ね」と声に出して、窓の外の景色に目をやった。
「昭和という時代は、激動の時代だった」と、父親は口を開くと「金融恐慌、第二次世界大戦、高度経済成長、バブル景気まで、日本や世界は、大きな流れに巻き込まれ、飲み込まれていた」と、述懐した。
「何も……、そんな難しい話をここでしなくても、ねえ、そうでしょ? 鈴奈ちゃん」母親は、鈴奈を気遣い、父の顔を睨むと窘めた。
「いいえ、お父さんのお話は、本当に勉強になります」
鈴奈が僕の父親を「お父さん」と呼んだことに反応し、鼓動が早くなるのを感じた。
「神戸市では、昭和十三年の阪神大水害で、七百人前後の死者と行方不明者が出ている。水害は、昭和三十六年と四十三年にも発生し、その時も多くの被災家屋と死者が出た。昭和二十年の神戸大空襲では、八ヶ月間に百二十八回の空襲を受け、一帯が焼け野原になった。それから、平成七年に阪神・淡路大震災が発生し、六千四百人を超える死者を出している」
「大変だったのですね」
「私より、私の両親……、誠也の祖父母が水害、空襲、震災に遭遇し、大変な苦労の中で、耐え忍び、次の私たちの世代につなげてくれた。もう、二人とも他界しているが、困難に負けずに生き延びてくれた。この綺麗な夜景を見ると、月並みな言い方になるけどね……、親の世代の神戸市民の汗と努力の結晶を見る思いがするよ」
鈴奈は、涙ぐんでいた。
僕は、鈴奈の感受性の強さに、父親の理屈っぽい話が響いたと思った。
僕の目には、窓外の夜景は幻想的なものに映っていた。
先付け、前菜、サラダを食べた後で、分厚いステーキ肉がテーブルに運ばれてきた。
「文豪・谷崎潤一郎は、今の神戸市東灘区に住んでいた。そこに住んでいた時に『細雪』を執筆している。細雪に出てくる四姉妹は、当時大阪に住んでいた実在の人物だよ。小説の中の次女・幸子は、谷崎潤一郎と結婚している」僕も、父に負けまいと思い、得意の文学ネタを話した。
「倚松庵は、今も同じ場所にあるのかしら?」
「えっ?」僕は、すぐに意味が理解できなかった。
「ほら、今、誠也君が話していた谷崎潤一郎邸のことよ」
「ああ、今も同じ場所にあるらしい」
「今度、行ってみない?」
「良いね。二人で行こう」
谷崎潤一郎は――食欲であろうと色欲であろうと、自分の欲するままに貪る――を信条とした小説家だ。僕には、谷崎という人の考え方に対しては、疑問に思う面もある。しかし『細雪』という小説は、谷崎潤一郎の文学作品の中でも高く評価されている。尊敬できる小説家の一人だ。
堅苦しい話が続いたが、姉が目先を変えて「鈴奈ちゃんは、どこのファン? 野球はあまり見ないかな?」と、質問した。
「あっ、私、子供の頃からの阪神タイガースのファンです」
「やっぱり、そうか。そうだと思った。阪神ファンの女の子は、皆、鈴奈ちゃんみたいに可愛い目をしているのよ」
「そんな、馬鹿な」僕が言うと、皆、声を大きくして笑った。他の客がこちらに視線を向けているのが分かった。
「タイガースでは、誰が一番好き?」
「トラッキーかな」鈴奈が答えると、また皆、さっきより声を大きくして笑った。
姉の機転で、重たいムードが明るく変化した。僕は日頃、口うるさい姉だが、時には役に立つと、感心した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます