第10話 第十講 魚料理


 早朝、僕はいつものコースを新聞配達していると、怪しげな男が配達先の庭に忍び込もうとしているのを見つけた。そのまま、通り過ぎて仕事を早く終わらせないと、新聞販売所の所長に必然的に叱りつけられる。

 配達漏れが一件でもあれば、長い説教を聞かされるのは経験済みだ。犬に吠えたてられようと、近所で幽霊屋敷同然に気味悪がられている家であろうと、さっさと配達を済ませるのが、僕に課せられた使命だ。所長は、僕の生半可な正義感など歯牙にもかけない。

 僕は頭の中をよぎる不安や、先の展開よりも、目の前の男を何とかしたくなった。

 そこで、男が庭の塀を越えようとするのを見咎めて「おいこらっ、お前」と怒鳴りつけた。男が一瞬、ひるんだ隙に腰にしがみつき引きずりおろした。あろうことか、非力な僕を押しのけると、僕の顔面を殴りつけて逃げ去った。

 僕はスマホで110番通報すると、状況を説明し警官が来るのを待った。パトカーは五分後に到着し、警官二人の現場検証に立ち会った。男の人相風体や服装を話し、家の塀の下に僅かに残る足跡を見つけた。

 この一件が影響し、新聞配達が予定より三十五分遅れた。

 鏡で確認したところ、僕の目の周りには青あざができていてずきずきと痛んだ。

 料理教室には、いつもより六分だけ遅れて出席した。

 鈴奈は、僕の顔にできた青あざを見て「どうしたの? 大丈夫かしら」と、不安げに何度も見ていた。

 鈴奈は僕の武勇伝を聞くと「本当にそうなの? 誠也君って、勇敢な男の子だったのね」と、急に吹き出すように笑い出した。美少女チームの神田桔梗や、宮間茜まで一緒になって笑い始めた。

 僕は少し悲しい気分にあり、鈴奈の本質が分からない気がした。

 楽しそうに、笑い終わると鈴奈は「本当に可哀そう。笑っちゃってごめんね」と呟き、思いついたように控室にいた先生をつかまえて相談してくれた。

 先生は真剣な眼差しで、僕を見ると「どうだ? 痛いか? 無理をしないで、病院で診察してもらうことだ」と、宥めた。

 僕が講義を受けることを希望すると、先生は

「わしも経験があるが、青あざは放置しておくと消えるのに半月近くかかる。応急処置に薬を塗っておく。講義が終わり次第、整形外科医に見てもらうと良い」と、案じてくれた。

       ※

「落語の『目黒のさんま』は、知っているかね?」と、講義の冒頭で先生は尋ねた。

 生徒の年齢が若いせいなのか、女性が多いからなのか、誰も答えられなかった。

「魚好きの殿様の話だけどね」と、先生は告げると、落語の噺を物語ってくれた。

 目黒まで家来と出かけた殿様が、お腹を空かせていると、良い匂いが漂ってくる。そこで、匂いの元を家来に尋ねたところ、庶民が口にする「サンマ」という魚であるのを知らされる。殿様は、空腹のあまり庶民の家から、炭火で焼いたサンマを持って来させて食べる。美食家の殿様にとっても、驚くほど美味でそれ以来、大好物になる。

 殿様は毎日のように――サンマを食べたい――という思いが募り、家来にサンマを買い求めるように命じる。殿様に仕える料理人は、サンマの脂や骨をすべて抜き、お椀に入れて差し出す。日本橋魚河岸から取り寄せた新鮮なサンマに、手の込んだ調理をして出したところ、殿様は「不味い」と非難する。

 殿様が家来に「どこで、買い求めたサンマだ」と、問うと家来は「はい、日本橋魚河岸でございます」と答える。殿様はそれを聞いて「やっぱり、サンマは目黒に限るな」と告げる。

 この話は、海とも魚河岸とも無関係の「目黒」のサンマが一番だと勘違いする殿様の言動が笑いを誘う。

 先生は「料理をする者の立場から考えると、『目黒のさんま』の噺は手の込んだ料理よりも、ただ焼いただけの料理の方が優れているケースがあるということでもある。要するに、素材の味をどんな調理方法で引き出すかということだよ」と、自分の考えを伝えた。

 先生は刺身の切り方を説明する前に、主婦の柿崎さんに尋ねた。

「刺身の柵の切り方だが、君はどんな切り方をするのが良いか知っているかな?」

「そうですね。刺身は、刃元からス~ッと一遍に切る方が、美味しくて綺麗になるのは知っています」

「さすが、主婦だけのことはある。経験がものを言う。柿崎さんが言ったように、刺身の柵は、刃先ではなく、刃元をあてて、手前に引くように切るのがコツだ」

 先生の説明では、マグロに限らず、カツオ、ブリ、サーモンなどの柔らかくて厚みのある刺身の柵の切り方には、平作りとそぎ作りがある。

「手はいつものように、猫の手の形にする。押さえる手の指を伸ばしてはいけない」と告げて、切り方を指示した。

 平作り=包丁の根元から切り込んで、刃先まで手前一杯に引きながら切る。切った身を包丁ごと、右側に送り少し寝かせるように重ねて置く。刺身の柵には目(筋肉の筋)に対して直角に切る。柵の厚みが均等でない時は、分厚い方を向こうにして切る。

 そぎ作り=平作りよりも薄く、断面を広く切る。カツオのたたきや、ブリやハマチを切るのに向いている。柵自体を斜めに傾けて置き、左端から包丁を寝かせて薄くそぐように切る。切り身は左側に重ねるように置く。平作りと同様に、柵の厚みが均等でない時は、分厚い方を向こうにして切る。

 僕は先生が以前の講義で、話した人を活かす「活人剣」の話を思い出しながら、両方の切り方にチャレンジした。生徒全員が刺身を切り終わると、先生が口を開いた。

「魚をうまく焼くには、下ごしらえから盛り付けまで徹底しなければならない」と、先生は生徒の反応を見ると「目黒のさんまの落語のように、殿様の好物になるほど美味しくできるかどうかは、焼き方次第だな」と、楽しそうに笑った。

「魚の焼き方だが……、鯵の干物の焼き方を教える。残念ながらサンマは、旬ではないからね」と、福島さんが用意した鯵の干物を示した。

 鯵の干物を焼く手順は

一.鯵の干物を解凍する。三十分前には、冷蔵庫から出して置く。

二.グリルをしっかりと温めて置く。

三.干物の身の面に酒を塗る。

四.身の面を上にして、強火で五分間焼く。

五.焼き目がついたら、裏返して三分間皮の面を焼く。

六.皮に焦げ目がついてパリッとしたら出来上がり。脂が落ちるパチパチと音がしたタイミングが完成の合図だ。

 鯵の焼ける香ばしい匂いが、教室内に広がった。僕は匂いのせいで、空腹を感じていた。

「今日の昼食は、マグロの刺身と鯵の開きだが、早めの食事を済ませた後で、魚の煮方と蒸し方を教える」と予告した。

 昼食はいつもより早めの十一時三十分から十二時三十分までとなった。

 僕は自分の手が、魚臭くなっているのに気づいた。

 先生は「魚臭さは、石鹸で洗うだけではとれない場合がある。その時は、重曹を使うと良いよ」と、予め用意していた液体の入ったボトルを手にして「手洗い場に置いておくよ」と知らせた。

 ボトルには、重曹の粉末が入っていた。先生の指示通りに、粉末に水を足して手に揉み込むように洗うと、魚臭さはなくなる。美少女チームの鈴奈や桔梗、茜たちの手指が魚臭くっているのは、容貌からは想像もつかなかった。

 エプロン姿の美少女チームは、揃って見栄えがするが、鈴奈は特に可憐に見えた。中でも鈴奈と仲が良い、神田桔梗がこちらに顔を向けて、二人で談笑しているのを見ると、ファンタジーの世界にいるようで見惚れてしまう。彼女らは、エプロンを外すと食卓についた。

 先生がサイドメニューとして、豆腐の吸い物と茶碗蒸しを作ってくれていたので、違和感なく、刺身も干物も味を堪能できた。

 十二時三十分から予定通り、講義が再開された。当初、九時から十二時までの講義時間が、調理実習が始まってから十三時までに延びていたものの、最後の一時間は昼食に充てられていたし、早く食べて片づけが終わったタイミングで、帰宅が許されていた。

 魚を煮る方法の講義は、カラスカレイの煮付けだ。

「昼食が終わったので、君たちは料理しなくて良いが、わしの手順をよく見るように」と、先生は指示した。

一.カラスカレイの切り身は、キッチンペーパーで水分を拭きとっておく。

二.カラスカレイの切り身の皮に十字の切れ目を入れる。

三.ショウガを薄くスライスしておく。

四.鍋に水と醤油、みりん、酒、砂糖を入れて沸騰させる。

五.中火にして、カラスカレイとショウガの薄切りを入れて、アルミホイールの落とし蓋をする。

六.味が浸透するまで、十五分間煮込む。

七.器に盛りつけて出来上がり。

魚の蒸し方は、タラの酒蒸しで先生は実演した。

一.タラはキッチンペーパーで水気を拭き取る。

二.タラの両面に塩胡椒を振る。

三.ショウガとネギを薄切りにする。

四.サラダ油を入れて、熱したフライパンにタラを載せて、中火で焼く。

五.薄切りにしたショウガとネギを入れ、酒、醤油、塩胡椒を加える。

六.タラに充分、火が通ったら器に盛り付け、ポン酢をかけて出来上がり。

 トイレの鏡で見ると、目の周りの青あざはまだ残っていた。講義が終わり、今朝の事件について、思い出していると、僕のスマホに警察から連絡が入った。朝の事件の犯人が逮捕されて、余罪を追及したところ、空き巣狙い、強盗、暴行などの常習犯で、前科のある男と判明した。

 今日は、整形外科で診察してもらうので、鈴奈より早く教室を出た。

 僕の様子を見て、母親は「そんな他人のために、勇気を見せても、自分が怪我をしては意味がないでしょ」と、心配しながらも、蛮勇を戒めた。

 父親はいつも通り「そうだ。誠也、お母さんの言うとおりだぞ」と、同調した。

 姉は「少しは、あんたのことを見直したわ。そうでないと、男の子だとは認められない」と、珍しくも褒めてくれた。

 自宅の鏡で、自分の顔を見て怪我の程度を再確認していると、警察署から電話が入り呼び出された。僕は、今朝の様子を一通り説明した。警察署には副署長から情報を入手した記者が一人、早くも来ており「事件の全容が判明するまで記事にはしませんが……、おそらく、あなたは警察署から表彰されるはずです。その頃には、新聞記事にも取り上げる予定です」と、明かしてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る