第9話 第九講 薬膳思想と栄養学


 先週習った知識を生かし、朝早起きした僕は、弁当作りに励んでいる。だが、家族の評価は分かれている。

「男の子にしては上出来よ」と、母親は端的に褒め、父親もいつも通り追随した。

 僕は自慢げに頷いて、姉の様子を見た。姉は、食卓テーブルに座り「ふんっ」と、僕を軽んじた。

「あんたは、やることが出鱈目過ぎる。高校生の本業は、勉強のはず。後は、友達付き合いや、クラブ活動に励み社会生活に必要なスキルを身に着けるのが大事。引きこもって、本ばかり読むのも、女の子みたいに料理するのも、高校生のすることじゃない。優先順位を考えなさい」と、姉はかなり手厳しい。

 大学四年生の姉は、就活で第一希望の会社に内定が決まり大威張りだ。そんな姉でも

「あんたみたいな弟が、鈴奈ちゃんみたいな美人とつきあっている。そのことだけは、評価する。そんな奇跡は、二度と起きないから、鈴奈ちゃんに嫌われないように努力しなさい」と、鈴奈との交際だけは認めている。

「あんな子が妹だったら、可愛いだろうな」とまで言うのである。

 料理教室は、帰宅時だけではなく、朝も鈴奈と同じ電車に乗り話しながら通っている。鈴奈に姉が言ったことを告げると「買い被りよ」と、素っ気ない。

 講義が始まると、先生は人間にとって、栄養のバランスがいかに大事なことかを熱心に説き始めた。

「食事をするのは、生きていくのに欠かせないエネルギーを蓄えるだけでなく、自分の肉体を毎回、改造していることになる。単に身体に入れたものを、後で排出する繰り返しではない。このことは、忘れがちだが重要だ」先生は、いつになく神妙な面持ちで、思いを言葉にした。

 先生によると、薬膳とは――医食同源の捉え方を軸にして、個人の体質や病状に合わせた食事の摂り方を考える習慣――を意味する。

「漢方の捉え方で、薬として効能のあるものを料理に使う。たとえば、胃の不調には、キャベツ、カボチャ、大根おろし。花粉症には大葉、冷え性対策には、ショウガを使うと効き目がある。頭の働きを良くするには、枝豆などの大豆製品が良いね」

 先生が示すテキストのページには、気持ちが塞ぎ込みがちの時は、セロリを食べると効果があると記述されている。セロリに含まれるアピインという精油成分が精神安定作用をもたらすとの説明だ。

 風邪予防に、ニンジン、ダイコン、白ネギの効果が書かれているのにも驚いた。ニンジンは、βカロチン、ビタミンA、ビタミンCが豊富で免疫力向上に役立つ。ダイコンに含まれるイソチオシアネートは、のどの炎症を抑え咳止めの効果がある。白ネギの成分のアリシンは、風邪のウィルスの繁殖を抑える。

「ただし……、食事だけで病気は治せない。体調不良の場合は、医師の診察を受けるのを忘れないように」と、先生は諭した。先生がテキストを閉じて、質問を求めると

「私は、単身赴任で神戸に住んでいるので、ある意味食生活が不規則になりがちです。風邪もひかず、胃腸の調子も良いのですが、食事に最適なタイミングのようなものはあるのでしょうか?」と、荻久保さんが手を上げた。

「朝・昼・夜の食事の間隔はあまり開けずに、できる限り十二時間以内に三食を済ませることだ。夜遅く摂る夜食は、体内に脂肪を蓄積しやすくなる。それと、食べる順序も大事なポイントだ。食事は毎回、野菜から食べ始めると、血糖値の急速な上昇を抑制し、インスリンの分泌量も少なくて済む。そのことで、血糖が脂肪に変化しにくくなる」

「ありがとうございます。先生のおっしゃるタイミングだと、健康に良いし、ダイエットにも効果があるということですね」

 先生は「ただしね……」と、少し首を傾げた。

「ダイエットで食事制限するのは反対だ。炭水化物や肉も体に必要な栄養素だよ」と、先生は主張した。「ダイエットにも、ポイントになる部分はある」と、教室にいる一番太った長谷川さんを見ながら尋ねた。

 僕の目測でも、生徒の中では長谷川さんが最も太って見える。

 長谷川さんは視線を感じて意識したのか、小さく手を上げて質問した。

「先生がさっき話していた痩せるポイントですが、具体的に教えてもらえませんか?」

「先ずは、目標を決める。次に合理的な方法で、ダイエットを実行する。その二つがポイントだ」

「へっ?」長谷川さんは、呆気に取られたように声を出した。

 生徒たちからは、笑い声が漏れ聞こえた。

「先生、揶揄わないで下さい」

「勿論、二つのポイントにも、考え方があるよ。ダイエットの目標をどう立てるかだが、闇雲に立ててはいけないな。例えば、長谷川さんには、痩せる目標はあるかな?」

「ええ、少しでも体重を減らしたいです」

「その気持ちは理解できる。だが、短期間で無理に痩せるのは、健康被害につながる無謀な行為だ。中長期計画を立てることだね」

「先生、料理の話から横道にそれています。ダイエットとの関りで、説明してもらえないでしょうか?」野島さんは、不機嫌そうに指摘した。

 野島さんは痩せ型なので、本来はダイエットの話題自体に興味がなさそうだ。

「そうだな。それも一理ある。ダイエット料理については、食べる量を減らすのではなく、太らないおかずを上手に取り入れるのが上手なやり方だ」

「具体的に言うと、どんなおかずでしょう?」長谷川さんは、野島さんを気遣うように見ながら、問いかけた。

「良い質問だ。痩せるためには摂取カロリーの目標を決めて、バランスよく食事するのが大事だね。例えば、低カロリー食品としては、豆腐、納豆、蒟蒻、ダイコン、モヤシ、ゴボウ、ワカメなどがある。こういう食材を増やして、脂肪や糖質の多いものを控えめにする。つまり、バランスをとることだよ」

「ありがとうございます。頑張って痩せます」と、長谷川さんは明るい声で告げた。

「理想の体型は、身長、年齢、性別で違う。ちなみに、魅力的に見える女性は、適度にウエストがくびれて見えるという調査結果がある。がりがりに痩せても魅力的には見えない。それと、長谷川さん‥‥‥、急激に痩せると、身体に負担がかかるので、時間をかけて取り組むことだよ」

 先生は嫌味のない仕草で、ポンポンと自分のお腹を叩くと、講義を先へ進めた。

僕は、口うるさい野島さんが急かさないかと、気になっていたのでほっとした。

 健康に良い食べ合わせは、豆腐とワカメ、焼き魚に大根おろし、納豆とネギ、豚カツとキャベツ、豚肉とニンニク、ホウレンソウと胡麻、キュウリと酢、サンマと豆腐、ビールと枝豆、レバーとニラの十項目を先生は板書した。

 豆腐とワカメ=豆腐の大豆にはサポニンやビタミンB1、E、鉄分、カルシウム、ミネラルが含まれているが、ヨウ素を排出する欠点を補うため、ワカメと一緒に食べると良い。

 焼き魚と大根おろし=焼き魚の焦げた部分の発がん性を大根おろしに含まれるビタミンCで中和できる。

 納豆とネギ=納豆に刻みネギを入れると、ネギに含まれる酸化アリルにより、納豆のビタミンB1の吸収を高める。

 豚カツとキャベツ=キャベツに含まれる食物繊維は、糖や脂肪の吸収をブロックするのでダイエット効果がある。

 豚肉とニンニク=豚肉はビタミンB1が豊富に含まれるが、尿中に排出されることがある。ニンニクに含まれるアリル化合物は、ビタミンB1との相性が良く、体内に吸収するのに役立つ。

 ホウレンソウと胡麻=ホウレンソウは、鉄分、カロテン、ビタミンB1、B2、Cと栄養豊富だが、体内に結石をつくるシュウ酸を含む。胡麻と食べ合わせて、シュウ酸を抑制する。

 キュウリと酢=キュウリはビタミンA、C、カリウム等のミネラル類を含んでいる。反面、アスコルビナーゼという酵素がビタミンCを破壊する。酢によってアスコルビナーゼの働きを無くし、効率よく栄養を吸収する。

 肉料理とパイナップル=パイナップルには、ブロメリンと呼ばれるタンパク質を分解する酵素が含まれているので、肉料理の消化吸収を助ける。

 ビールと枝豆=枝豆には、ビタミンB1、B2、Cの他、メチオニンが含まれている。このメチオニンが、アルコールを分解し肝臓へのダメージを防いでくれる。

 レバーとニラ=ニラに含まれるアリシンが、レバーに含まれるビタミンB群の吸収を高める。

「薬膳の効果を伝えたので、今度は逆効果を教えておこう」と、先生は、食べ合わせのNGを話し始めた。

 先生がホワイトボードに板書したのは、焼き魚と漬物、ワカメとネギ、鰻と梅干、赤貝といくら、エビとレモン、ニンジンとダイコン、ホウレンソウとゆで卵、天ぷらとスイカ、キュウリと豚肉、ナスと蕎麦の十項目だ。

 焼き魚と漬物=魚と野菜に含まれる物質が、胃酸によって発がん物質に変化する。

 ワカメとネギ=ネギに含まれるリンが、ワカメに含まれるカルシウムの吸収を妨げる。

 鰻と梅干=脂質の多い鰻と、酸味の強い梅干の両方が内臓を刺激し消化不良を起こす。

 赤貝といくら=赤貝に含まれるアノイリナーゼが、いくらに含まれるビタミンB1を分解する。

 エビとレモン=エビに含まれる銅が、レモンに含まれるビタミンCを酸化させ、毒素に変化することもある。

 ニンジンとダイコン=ニンジンに含まれるアスコルビナーゼが、ダイコンに含まれるビタミンCを酵素で分解する。

 ホウレンソウとゆで卵=ゆで卵に含まれる硫黄分が、ホウレンソウに含まれる鉄分と結合して体内への吸収を妨げる。

 天ぷらとスイカ=油分の多い天ぷらと水分の多いスイカは、胃の中で消化不良を起こしやすくする。

 キュウリと豚肉=キュウリも豚肉も体を冷やすので、同時に食べると消化を妨げる。

 ナスと蕎麦=ナスも蕎麦も体を冷やすので、同時に食べると消化を妨げる。

 調理実習では、胃腸の不調に効果がある「卵雑炊」を生徒全員がつくる。食材はタマゴ、ご飯、水菜、青ネギ、海苔、ショウガおろし、鶏ガラスープの素、醤油、水だ。

 先ず、タマゴを溶きほぐす。水菜の根元を切り落としてから、3cm幅に刻む。鍋にご飯、水菜、水200ml、鶏ガラスープの素、醤油を入れ、沸騰したら、ショウガおろしを入れて、ひと混ぜし、溶き卵を回しながら入れる。タマゴがふんわりと固まったら、器に盛り、青ネギ、海苔を散らす。これで完成だ。

 生徒全員が卵雑炊を食べ終わるのを見届けると、先生は

「栄養学は人の健康……、つまり命の尊さを学ぶ学問だよ。機会があればぜひ学んで欲しい」と、講義を締め括った。

 講義が終わると、いつものように鈴奈と待ち合わせた。今日は、約束通り昼から二人で異人館の周辺を散策する。神戸市内の北野町山本通の周辺にある洋館で、明治前期まで外国人居留地だった地域だ。

 JR三ノ宮駅の北側の坂道を上って十五分歩くと、お洒落な洋館が立ち並ぶ北野異人館街だ。僕と鈴奈は二時間かけて八つの異人館を回った。

 風見鶏の館と呼ばれる旧・トーマス邸の辺りは、大勢のカップルが手をつないで歩いていた。僕と鈴奈は、まだ手をつないだことがなく、二人の間にはいつも拳二つ分の隙間ができていた。

 相変わらず、蒸し暑い日が続いていた。異人館周辺を歩き疲れた二人は、喫茶店に入りかき氷を食べた。僕は宇治金時を頼み、鈴奈はいちごのシロップを頼んだ。

「異人館は、女友達と何度も来たことがある。でも、今日は特別ね」と、鈴奈ははにかむようにクスッと笑った。

 夕飯は、駅前の蕎麦屋に入った。僕も鈴奈もざるそばセットを頼んだ。

 蕎麦は蒸篭に載せられて、天ぷらとセットで出された。

「これだと蒸篭蕎麦ね」と、鈴奈は指差した。

「どう違うの?」

「ざるそば、蒸篭蕎麦、もりそば、わんこそばの違いは、シンプルに器として、ざるを使うか、蒸篭か、皿か、お椀かの違いなのよ」

「よく知っているね」

 僕も最近は、料理本を何冊も読破しているが、鈴奈の知識には追い付けそうもない。

 天ぷらはナス、カボチャ、茗荷、獅子唐、大葉の五種類だ。

「私は、子供の頃からナスの天ぷらが大好きなの」

 僕は、午前中の講義を思い出し話題を変えた。

「先生の講義を聞いていると、料理の技術ではなくて精神訓話を教えられている気がする」と僕が指摘すると、鈴奈は上目遣いに見て

「私も同じことを思っていたの? 何故だと思う?」

「君が先生と同じことを思っていた理由は……、料理の水準が一定レベルに達しているからだろうな」

「そうじゃなくて、先生の話す内容が、精神訓話に聞こえる方の……、そっちの理由よ」

「多分、生徒の前で格好つけようとしているか、勿体ぶっているのか、そんなところかな」

「ふーん、そういう捉え方もあったのか。ある意味、誠也君らしいね」

「というと……?」

「先生の話が、精神訓話に聞こえるのはね。先生がハートで、語りかけているからなのよ」

「そうかなあ」

「そうだよ。先生は、私たちの腕が上達することも、健康に暮らすことも考えて準備してくれている。それが、ハートで語りかけることなの。意外に思うかも知れないけど……、誠也君が、そういう面では先生に一番よく似ている」

「僕は先生ほど、話がうまくないし、料理の腕前もまだ全然、大したことはない」

「でもねえ、先生の講義に、愛情を感じたことがあるでしょ?」

「それは、あるかもしれない。よく、揶揄われるけどね」

 鈴奈は、蕎麦屋の窓の外の景色を見て、僕の顔に視線を戻すと、しげしげと見つめ直して笑った。

 僕は、鈴奈の自分に対する評価があまりにも高いので、少し不安になってきた。

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