第7話 第七講 卵料理の基本
先生は教室に来ると、すぐに生徒全員に呼び掛けた。
「前回と同様に、食材や調理器具に触れる前に手を洗ってもらいたい」
先生に指示されて、教室の二か所にある手洗い場の前に列ができた。今回は、先生と福島さんが二人で生徒が手を洗う様子を観察している。全員が洗い終わると、先生は
「今、手を洗う様子を見ていた。水洗いで済ませた人、混合水栓を捻りお湯で洗った人、丁寧に石鹸をつけて洗う人など様々だ。食材への匂い移りを気にするのは理解できる。しかし、食中毒予防には、石鹸での手洗いが必須だね」
「お湯で洗うと、殺菌効果があると聞いたことがあります。間違いでしょうか?」と、長谷川さんが尋ねた。
「君は、手を洗う時のお湯の温度が何度か分かるかな?」
「50℃前後でしょうか?」
「38~42℃だ。それに対して、細菌は35℃で最も増殖するものが多い。むしろ、お湯で手を洗うのが逆効果のケースもある。料理前の手洗いは、必ず石鹸をつけて、しっかりと泡立てる。洗った後で水洗いし、よく濯ぐようにし、清潔な乾いたタオルで拭くことだ」
先生は、衛生面・安全面について指導する時は、いつもより険しい表情になる。僕は、鬼の形相にむしろ、先生の深い愛情のようなものを感じていた。生徒全員が手を洗い終わり、席に着いた。
「一番簡単な卵料理は何だと思う?」と、先生は唐突に僕に質問した。
「目玉焼きですか?」またしても、僕が指名されて答えた。先生の講義では、狂言回しの役割を担わされているかのようだ。
「他に、誰か分かる人はいないかな? 荻久保さんはどうだ?」
「うーん、ちょっと思いつかないですね」
「先生、多分……、オムレツじゃないですか。オムレツは、一手間かかる分、卵料理らしい料理だと思います」と、鈴奈は答えた。
「うーん、それも一つの捉え方だけどね」
「違うのですか?」
「正解は、卵かけご飯だ」
「えーつ?? どうしてですか?」
「卵かけご飯にかかる手間を考えて見てくれ」
「手間ですか?」鈴奈は、戸惑い目を白黒させている。
「タマゴを割る。割ったタマゴをお椀の中で溶きほぐし、醤油を注ぐ。それを真ん中に窪みを作ったご飯にかける。これだけの手間がかかる」
「それなら、味付け海苔に醤油をつけたり、納豆にたれをかけて、混ぜたりするのも料理ですか?」僕は、素朴な疑問をそのまま言葉にした。
「わしは、手間が四つ以上かかるものを料理と呼んでいる。卵かけご飯は一.タマゴを割る。二.割ったタマゴを溶きほぐす。三.醤油を注ぐ。四.ご飯の真ん中に窪みをつける。五.ご飯の窪みに、醤油をかけたタマゴを入れる。どうだ? 料理の条件を満たしているだろ?」
「確かに……、気づきませんでした。簡単な作業でも、料理は料理ですね」と、僕は先生の屁理屈に呆れながらも、感心して見せた。
「卵料理を侮ってはいかん。タマゴの割り方、溶き方にも工夫は必要だ。基本を教えておこう」先生はそう諭すと、タマゴとボウルを用意して「よく、見ておくように……」と指図した。
先生はタマゴを手に取ると、平らな面にタマゴの中央の膨らんだ部分を軽く打ち付けた。「こうすると、タマゴにひびが入る」と、説明しながら、殻の割れ目に両手親指の先を引っ掛けて、ゆっくりと左右に開いた。お椀の中に、タマゴの中身が落ちた。
僕は今日まで、タマゴを角張った所に打ち付けて割っていた。母の直伝だが‥‥・、たまにタマゴの殻がお椀の中に混入するケースがあった。
先生は、タマゴをもう一つ手に持つと再度、同じ作業を繰り返した。二つのお椀に同じようにタマゴの中身が入っている。生徒たちは、二つのお椀の中のタマゴを先生がどう扱うのか、興味深げに見守っていた。
「そこで、質問したい。君らは……、どんな風にタマゴを溶いている? そうだなあ、荻久保さん、君は単身赴任中だったな。卵かけご飯は、つくるだろ? どうだ?」
「私は、お椀の中のタマゴを、お箸を使ってよくかき混ぜています」と、荻久保さんは自信なさそうに答えた。
「それも一つの方法だ。実はタマゴの溶き方は何種類もある。後で、卵かけご飯に合った溶き方のうち、代表的なものを二つだけ実演しよう。その前に、荻久保さん、今、君が言ったようによくかけ混ぜると、仕上がりはどうなっている?」
「口当たりが、滑らかになっている気がします」
「ご明察、よく気が付いたな。君は鋭い感性の持ち主だ。要するに、タマゴの溶き方は、どんな料理を作るかによって食感を左右する。その良いお手本になるのが、卵かけご飯だ」
一通り、話し終わると、先生はまた調理台に向き合い、タマゴの入った二つのお椀に目をやった。「先ずは、荻久保さんの溶き方のケースでやってみよう」と、片方のお椀を示した。大スクリーンには、先生の手元が映されている。
先生は、箸で器用に卵白のプルンとした部分を何度も持ち上げた後、お椀の端に素早く寄せて、全体を素早く混ぜた。
「今の手順で、混ざりにくい濃厚卵白でも均等に交ぜ合わせるのが可能だ。これは、むしろ卵焼きを焼くときに合っているやり方だ。荻久保さん、どうかな?」
「今、気づきましたが、私はもっと雑に混ぜていました」荻久保さんは、表現の違いに気づいた様子で恐縮した。
「次に、わしがやるのが卵かけご飯を美味しくする溶き方だ」と、もう片方のお椀に視線を移した。
福島さんは、何かに気づいたように、先生に駆け寄り、さらにもう一つお椀を横に置いた。
先生は、タマゴの中身の入ったお椀の黄身の上におたまを軽く押し付けると、ツルンと滑り、おたまの上に黄身が乗った。次に、黄身を空のお椀に移した。調理台の上には、先程混ぜ終わったお椀、黄身だけが入っているお椀、白身だけが入っているお椀の三つのお椀があった。
先生は、炊き立てのご飯の入った茶碗を二つ用意させた。一つの茶碗は、ご飯の真ん中を窪ませ、均等に混ぜ合わせたタマゴをかけ、もう一つの茶碗は先に白身を入れてご飯と混ぜた後で、真ん中を窪ませて黄身を乗せた。最後に、それぞれのご飯に醤油をかけた。
「そうだな、春野さん、永瀬君、柿崎さん、野島さん、長谷川さん、荻久保さん‥‥‥、前に出て来て、二つの茶碗の中のご飯を食べ比べて、感想を言って見てくれ」と、何時も先生に指名されることが多い六人が、呼ばれて試食した。
鈴奈は「黄身と白身を分けたご飯の方が、コクと甘味が口の中一杯に広がる気がします」と答えると、先生の表情を見て「最初に黄身と白身を均等に混ぜた方は、あっさりとし過ぎています」と、付け足した。
「永瀬君、君は卵かけご飯が、立派な料理だとわしが言うのを聞いて、馬鹿にしていなかったか?」
「…………」先生の問いかけにすぐに応答できなかった。先生の質問は、僕の当初のイメージ通り、図星を指していた。今は、ただ先生の慧眼に恐れ入っている。
「続いて……、準備はできたかな? 福島さん?」
「先生。ばっちりです」
「そうか……、では次にチームごとに、厚焼き玉子、オムレツ、スクランブルエッグをそれぞれ作ってもらう。良いかな?」
四つのチームのうち、僕のチームは厚焼き玉子、鈴奈たちの美少女チームはオムレツ、長谷川さんたちのチームと、もう一つのチームはスクランブルエッグを作ることになった。
先生と福島さんは、四チームの様子を見るために、狭い通路を何度も行き来した。僕らはテキストに掲載されているレシピ通り、作るように指示された。
僕は、先生に言われた通り、テキストで厚焼き玉子を作る方法を確認した。僕らのチームには、タマゴ、砂糖、塩、めんつゆ、サラダ油が用意されている。
先ず、タマゴの白身を箸で何度も切りながら、泡立てないようによく溶きほぐす。次いで、砂糖、塩、めんつゆを入れて、ザルを使って三回濾す。
卵焼き器にサラダ油を入れて強火で熱する。卵液は、三回に分けて流し込む。表面がいくらか固まってきたら、卵焼き器の奥から三分の一を手前に巻き、一呼吸置く。密着した卵液が固まり次第、さらに、手前に半分に折る。
卵焼きを奥に移動させ、二回目も先程と同じ量の卵液を流し込む。この時は、卵焼きを持ち上げて、下部にも流し込む。同様に奥から手前に巻き、三回目も同じ要領で卵液を流し込み、焼き加減を見ながら、同じ手順で巻けば出来上がる。
鈴奈のチームでは、僕らのチームと同時進行で美少女たちがオムレツづくりをしていた。オムレツはテキストのレシピで確認したところ、厚焼き玉子に比べて多くの食材が使われるのに気づいた。オムレツの材料は、タマゴ、牛乳、塩、黒胡椒、バター、ケチャップ、赤ワインだ。
野島さんが、これを見て先生にクレームをつけた。「チームごとに食材が違うのは、不公平です。受講料のうち、材料費は同じ金額を支払っています」と、強く主張していた。
先生はうろたえる様子もなく「各チームの料理を前のテーブルに並べるから、バイキング方式で皿に持ち帰って、席で食べてもらう。今後も、チームを分けて違う料理をつくる機会がある。その時は、同じ方式をとるよ」と明かした。
「そういうことは、先に言ってください」と、野島さんに責められて、先生は「すまなかったな」と、今度は恐縮して見せた。
オムレツの作り方は、ボウルにタマゴを入れ牛乳と塩と黒胡椒を加えて、よく混ぜ合わせる。牛乳を僅かに加えることで、ふんわりとした食感になる。混ぜ合わせた後、フライパンに火をかけバターを溶かす。中火でバターを焦がさないように注意するのがポイントだ。バターがすべて溶けたら、卵液を流し込む。卵液を入れたら、すぐに箸で手早く全体をかき混ぜる。
全体が半熟状になったら火を弱火にし、フライ返しで手前から3分の1タマゴを折り返す。フライパンの端に寄せて、もう片方も包み込むように折り返す。フライパンの端で形を整えてから、ひっくり返して表面を強火で焼き固めたら、皿の上に乗せる。
美少女チームでは、鈴奈が見事な手さばきで料理しているのが分かった。――それにしても、美人料理人のエプロン姿はいつ見ても、目の保養になる――と、僕は思った。
僕のチームは、厚焼き玉子の料理をすでに終えていた。鈴奈たちも、これで料理が完成か――と、思っていたら、フライパンに赤ワインを入れて強火で煮詰めている。そこに、ケチャップを加えて、ソースの完成だ。
僕は鈴奈の作ったオムレツが、他の何よりも絶品に見えて、うっとりと眺めていた。
他の二チームが作るスクランブルエッグの材料は、タマゴ、牛乳、塩、オリーブオイル、バターを使う。
スクランブルエッグでは、ボウルにタマゴと牛乳、塩を入れると、泡だて器を使ってよく溶きほぐす。卵黄と卵白をしっかり混ぜ合わせると、口当たりも良く、色合いも綺麗に仕上がる。フライパンにオリーブオイルを流し込み、全体が温まってからバターを入れて溶かす。
かき混ぜたタマゴをフライパンに流し込み、弱めの中火にする。タマゴの底がうっすらと固まってから、ヘラを使って底から掬い上げるように、返しながら混ぜる。タマゴが半熟でまとまりができたら完成だ。
先生は、全チームの料理が完成したのを見届けると、福島さんと二人で前に集めて、バイキング方式に取り分けた。卵料理だけでは、物足りないだろうと、先生はみそ汁と、コンソメスープを用意してくれていた。料理に合わせて、どちらかを選べる。
先生は講義の締めくくりに「これからの講義は、調理実習がメーンになる」と、告げてから「料理人は、医師でも僧侶でもなく、監督業だ。それは、台所に立ち、家族のため、自分のために、料理をつくる時にも当てはまる。だから、素材は傷ついたものを避ける。さらに、優秀な食材をどう生かすか考えて用いる。サッカーでも、野球でも、映画でも監督は、いかに状況を整えて、各人の力を発揮させるかが勝負の分かれ目だ」と、諭した。
講義が終了し、僕と鈴奈はさんちかタウンの喫茶店に立ち寄った。二人ともチョコレートパフェを注文した。
「小学校の時、テストで百点取ったときのご褒美がチョコレートパフェだったの。子供の頃は、チョコレートパフェのバナナが何故あんなに、生温かいのか不思議に思っていたわ」と、懐かしそうに話した。
「バナナは熱帯性植物なので、常温保存が基本だよね。冷蔵庫に入れると、低温によるダメージで真っ黒になる。だから、パフェに乗せるとバナナだけが生温かい」
「今なら、そういう理屈もわかるけどね。幼いころは謎のように思っていた」と、鈴奈は明るい声で笑った。
僕は鈴奈の好意を不思議に思い、愚直にも「僕は君のことが大好きだけど……、鈴奈ちゃんは、僕のことをどう思っているの?」と、問いかけた。
鈴奈は「まあ、嬉しい」と、声に出すと「私も、誠也君のことが大好きよ」と答えた。
「僕のどこが好きなの? 理解に苦しむけど」と、首を傾げていると、鈴奈は
「理由は三つあるの……。誠也君って、私を見たときに目の奥がキラキラする。それと、私の周囲にいる男子みたいに、自慢話ばかりしないで、私の話を熱心に聞いてくれるでしょ。あと、一つ、幼いころに死に別れた弟に似ているの」と、打ち明けてくれた。
僕と鈴奈は三歳違いで、彼女の方が年上だ。鈴奈に聞くと、弟もちょうど三歳差だった。姉の言うことをよく聞く、素直な弟だったようだ。
「弟は私にとって、天使のような存在だった」と、鈴奈は述懐した。天使のような美麗な鈴奈に、雰囲気のよく似た弟がいたのは、不思議な気がしなかった。
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