第4話 第四講 衛生管理

 僕は、誕生パーティーで渡せなかったプレゼントを土曜日に購入し、講義の前に鈴奈に手渡した。僕が選んだのは、スイーツの詰め合わせだ。メッセージカードには「お誕生日おめでとう」とだけ記した。

 鈴奈は、プレゼントを手渡した僕自身が驚いたほど、喜んでくれた。

 衛生管理の講義が始まると、先生は「君たちにとっては、一番退屈な内容になるだろうが、料理する者にとっては最重要事項だ」と、前置きし、基本的な衛生管理の考え方を知るために、予めテキストの「5S」のページを黙読するように、指図した。

 5Sとは、衛生管理で「整理」「整頓」「清掃」「清潔」「躾」という五つの実施事項がある。

 テキストには、食品衛生の5Sとして「整理=不要なものを捨て、必要なものをきちんと保管すること、整頓=保管場所を決めて、使いやすくしておくこと、清掃=汚れ、ゴミ、異物を取り除き、きれいな状態を維持すること、清潔=清潔な身だしなみと、施設や設備機器、調理器具の洗浄、除菌をすること、躾=整理、整頓、清掃、清潔のルールを守ること」と記述されている。

「テキストに目を通してくれたかな? 今日は、厚生労働省が『家庭でできる食中毒予防の6つのポイント』という基準を出しているので、それを参考に講義を進めたい。5Sよりも具体的な内容なので、それを教えておきたい」と、いつもよりも厳粛なムードで伝えた。

 6つのポイントとして、先生が板書した。

ポイント1.食品の購入

ポイント2.家庭での保存

ポイント3.下準備

ポイント4.調理

ポイント5.食事

ポイント6、残った食品

 先生は、板書し終わると「それでは、ポイント1の食品の購入から、話してみよう」と、告げた。

「君たちは、食品の購入に際してどんな点に注意しているかな? 誰か答えられる人?」と挙手を求めた。

 長谷川さんが、手を上げて「できるだけ新鮮な物を購入するために、表示のある食品は消費期限を確認しています。表示のない生鮮食品は、傷んでいないかを念入りに見ています」と、応答した。

「他には……、他には、ないかな?」

 今度は、野島さんが「肉汁や魚の水分が漏れ出ないように、ビニール袋を分けて包むようにしています」

「他は、どうだろう?」

 誰も、手を上げないのを見て、キョロキョロ周囲を見回していた荻久保さんが応じた。

「冷凍品や冷蔵品を購入した時には、寄り道しないで真っすぐ家に帰ります。夏場は、特に大事な心がけでしょう」

 荻久保さんが答え終わると

「皆、素晴らしい回答だ。テキストを読んで、予習をしていたのかな」と、先生がニヤッとした。ジョークがすべったのか、誰も笑わなかった。

 先生は「堂々と自分の意見を言うのも、テキストで予習したことを言うのも大事なことだ。要するに、どれだけ身に着いたかだよ」と、諭した。

 消費期限と、賞味期限の違いについては、テキストを見るように指示されて、僕が音読した。

「消費期限は、安全に食べることができる期間を基準にしている。賞味期限は、美味しく食べることができる期間を基準にしている。いずれも、袋や容器を開封しないで保存した場合の期間が年月日で表示されている。従って、開封後はできる限り速やかに食べる方が、安全かつ美味しく用いることができる」

「なかなかの……、名調子だな。惚れ惚れと、聞き入ったよ」

 ポイント2の家庭での保存方法は、冷凍・冷蔵での保存と常温での保存について、注意すべき点が述べられている。

 先生は、冷凍・冷蔵での保存について、注意すべき点を三つ挙げた。

 一つ目は、冷蔵や冷凍を必要とする食品は、持ち帰って、すぐに冷蔵庫や冷凍庫に入れること。

 二つ目は、冷蔵庫・冷凍庫の詰め過ぎを注意すること。目安は、七割程度となっている。

 三つ目は、冷蔵庫の保存温度は10℃以下、冷凍庫の温度は-15℃以下に維持すること。これは、細菌の多くが10℃で増殖が緩やかになり、-15℃で増殖が停止する。

 先生は「冷凍・冷蔵品で適正温度にしても、細菌が死ぬわけじゃない。購入したものは、早めに食べるのが大事だよ」と、指摘した。

 常温品については、食品を直接、床に置かないこと。さらに、水濡れに注意するように呼び掛けた。

「これも、厚生労働省が指導しているが……」と前置きし、先生は

「肉や魚などは、ビニール袋や容器に入れて、他の食品に肉汁などがかからないようにすること」を伝えた。

 当たり前の注意事項だが、肉、魚、タマゴを取り扱う前と後で、手指を綺麗に洗うのも怠れない。

「家庭でできる食中毒予防の6つのポイント」のポイント3は、下準備に関する内容だ。

 台所の周囲を見渡し、清潔なタオルや石鹸を用意し、調理台の上を広く使う。さらに、ゴミを散らばさないのも重要な心がけだ。

 僕は今日の講義は、いつもより単調な座学中心なので、欠伸を噛み殺した。鈴奈たちの美少女チームは、食い入るように先生を見つめ、熱心にノートを取り頭に入れようとしている。

 まるで僕の内心を見透かすように、先生は

「何事も基本ほど大事なものはないが、退屈な繰り返しに興味が持てず、手抜きをする者も存在する。そうすると、どうなると思う?」と、問いかけた。

 僕は眠気のせいで、すぐには自分に呼び掛けられていると気づかなかった。

 鈴奈は、小声で「誠也君、誠也君」と、僕の名前を連呼した。

「あっ、はい」と、僕は声を出した。

 生徒たちは、声を立てて笑った。

 鈴奈だけは、悲しそうな目つきをしていた。

「つまり、その……」僕が言いかけると、鈴奈は

「先生、私が永瀬君の代わりに答えても良いですか?」と、尋ねてくれた。

「ああ、良いよ」

「衛生管理を怠ると、健康被害につながります。例えば食中毒を起こす、細菌、ウィルス、寄生虫は数多くありますし、死亡事故につながるケースもあります。先生が重視するのも、そういう点だと思います」

「君の答えは、模範解答だよ。永瀬君とは、同じ電車で帰るだろ? 永瀬君にもよく教えておいてくれ」と、先生は話し終わると、顔を上げて何かを思い出すような表情をした。

 テキストに目をやると、確かに基本事項が書き連ねている。

 食中毒予防には、手をよく洗うのも習慣化が必要だ。生の肉、魚、タマゴを取り扱った後や途中で動物に触ったり、トイレに行ったり、おむつを交換したり、鼻をかんだりした後の手洗いも大切である。――当然のように思える――が、食品衛生には凡事徹底が必須なので、再認識が必要だという。

 先生は「生肉や魚を切った後に、包丁やまな板で、果物や野菜や調理済みの食品を洗わずに切ることもNGだ。洗ってから、熱湯をかけたて使うこと。包丁やまな板は、肉用、魚用、野菜用と別々にそろえて、使い分けた方が安全である」と、テキストを見ながら、ここも重要だと強調し、赤ペンで下線を引くように伝えた。

「例えば、冷凍食品を解凍するのは、どうしている? 永瀬君、どう思う?」

「えっ、また、僕ですか?」

「良い答えを期待しているよ」

「そうですね。調理台の上に置いたまま、時間をかけて解凍します」

「今の答えは、最悪だ。でもな、君みたいに思う人もいるので注意すべきだね。冷凍食品を調理台に放置して、室温で解凍すると食中毒菌が増える場合がある。さあ、どうだ? 何か、他に思い浮かばないか?」

「うーん、難しいですね。例えば、解凍は冷凍室から移し、冷蔵庫の中でするか、電子レンジで行うのがベストでしょうか……」

「今度は、正解だ。君の答えを補足すると、他にも水を使って解凍する場合は、気密性のある容器に入れ、流水を使うと良い。さらに、料理に使う分だけ解凍し、すぐ調理するのも大事だ。解凍した食品を使わなくなって、冷凍や解凍を繰り返すのは危険だ。冷凍や解凍を繰り返すと食中毒菌が増殖する原因になる」

 僕にも、食品衛生では、手抜きが危険だというのが分かる。

 先生は、下準備だけではなく、料理が終わった後の注意点も力説した。

「包丁、食器、まな板、布巾、たわし、スポンジなどは、使った後すぐに、洗剤と流水で良く洗う。布巾の汚れがひどい時は、清潔なものと交換する。漂白剤に、一晩つけ込むと消毒効果があるのも覚えておくと良い。包丁、食器、まな板は、洗った後、熱湯をかけると消毒効果がある。たわしやスポンジは、煮沸すれば確実だ」

 生徒は、ノートを取りテキストと見比べている。ここまでの講義で、先生は――料理では、頭で考える以上にイメージするのが役立つ。座学でもいかに臨場感を持って、実感できているかで上達度が違う――という内容について、言葉を変えて繰り返していた。

 ポイント4は、調理での衛生管理だ。各ポイントで、同じような注意事項が出てくるが、調理で重要とされるのは「調理する食品は十分に加熱することで、食中毒菌がいたとしても殺菌できる。目安は、中心部の温度が75℃で1分間以上加熱を要する」と、先生は指摘した。

 説明がいくらか、料理内容に触れるものになり。僕の期待感は高まった。

「料理の手を一旦、止める場合の注意点で、誰か意見を言ってくれないか?」

「料理を途中でやめて、そのまま室温で放置すると、細菌が食品に付いたり、増えたりします。なので、途中でやめるような時は、冷蔵庫に入れるよう心掛けることです。さらに、再び調理をするときは、十分な加熱が必要となります」と、荻久保さんは、話し終えると「テキストの記述内容どおりですが……」と、付け加えた。

「予習しておくのも大事だよ。実践でも、活かしてほしい。電子レンジを使う場合は、何に注意すべきだろう? 荻久保さん、続けて答えてくれ」

「電子レンジを使う場合は、電子レンジ用の容器、ふたを使い、調理時間に気を付け、熱の伝わりにくい物は、時々かき混ぜることも必要です」と、荻久保さんは今度もテキスト通りに諳んじて、答えた。

「ポイント5の食事の際の注意事項を話す前に、質問しておきたい。この中で、食中毒になった経験のある人はいるかな?」と、先生は尋ねた。

 荻久保さんが手を上げた。

「その時の様子を話してもらえないか?」

「私は今、単身赴任中で一人暮らしです。家内には注意されていましたが、昨年夏に宵越しのお茶を飲んで、腹痛を起こしました。そのときは、下痢と嘔吐により脱水症状になり、発熱してもいたため、かなり衰弱しました。病院の外来で受け付けて、内科で診察を受けたときは、医師に『よく一人でここまで、辿り着けたね』と驚かれました」

「お茶は、普段はタンニンという抗菌作用のある成分を含んでいる。だが、お湯を注いだ後の茶葉を放置すると、中のタンパク質の成分が腐敗し細菌が増殖する。それを飲んだために、荻久保さんは食中毒を発症した」

 先生は生徒に、テキストの該当ページを読ませた。

「食卓に付く前に、手を洗いましょう」と、最初の生徒が読んだ。

「それは、食品衛生のすべての基本だ」

「清潔な手で、清潔な器具を使い、清潔な食器に盛りつけましょう」次の生徒は、淡々とした調子だ。

「食品を扱うものは、清潔であるのが最重要だ。それでは……、次の人」

「温かく食べる料理は常に温かく、冷やして食べる料理は常に冷たくしておきましょう。目安は、温かい料理は65℃以上、冷やして食べる料理は10℃以下です」

「温度管理にも、注意すべきということだ」

「調理前の食品や調理後の食品は、室温に長く放置してはいけません」

「ここは、何度か注意事項として出て来たね」

「例えば、O157は室温でも十五~二十分で二倍に増えます」

「恐ろしいが、それが現実だ」

 先生は、これらの点を「人の命に関わる大事な注意事項だ。あだやおろそかにはできないよ」と、強調した。

 ポイント6の残った食品についても、テキストの該当ページを生徒が順番に音読した。

「残った食品を扱う前にも手を洗いましょう」

「手を洗うのは、料理では必須事項だ」

「残った食品はきれいな器具、皿を使って保存しましょう」

「これも、基本だね」

「残った食品は早く冷えるように浅い容器に小分けして保存しましょう」

「ひと工夫が必要ということだな」

「時間が経ち過ぎたら、思い切って捨てましょう」

「勿体ないが、心掛けておくべき点だね」

「残った食品を温め直す時も十分に加熱しましょう。目安は75℃以上です」

「適正温度がある」

「味噌汁やスープなどは沸騰するまで加熱しましょう」

「これも、大事な点だね」

「ちょっとでも怪しいと思ったら、食べずに捨てましょう。口に入れるのは、やめましょう」

「思い切りが必要だよ」

 先生は、一人一人の音読後に感想を述べた。

「厚生労働省の指導では、食中毒予防の三原則は、食中毒菌を『付けない、増やさない、殺菌する』だ。最重要事項といっても良いので、充分に覚えておいて欲しい」と先生は、生徒全員に向かって言い聞かせた。

       ※

 帰りの電車の中で、鈴奈は僕のプレゼントをバッグから取り出すと、大事そうに見つめて包装紙の表面を指先で、愛おしそうに撫でていた。

「誠也君に、こんな物を貰って、本当に嬉しかった。今度、何かお返ししないとね」

「たいした物じゃないし、それにパーティーでご馳走してくれたし……」

 僕が照れのせいで、頬が火照るのを感じていると、向こうから高校の同級生が数人で、近づいて来るのが分かった。高校で恐れられている不良グループだ。

 嫌な予感が的中した。

「おい、あいつ張り子じゃないか? 女とイチャイチャしているぞ」

 近づいて来ると、僕と鈴奈を舐めるように眺めた。

 同級生の中でリーダー格の男が、僕の側頭部を人差し指で突き「張り子、お前、女とこれから、何をやるつもりだ?」と、凄んだ。

 僕は言葉が見つからず、口の中でゴニョゴニョ呟いていると

「あーっ、何だって、聞きとれねえ」と、問い返した。

 絶体絶命のピンチだ。これで、鈴奈の僕に対する信頼は崩壊し、夢のような時間も過去のものになると確信した。

 だが……、次の瞬間、僕はわが目を疑った。

「電車の中で、大声出して騒ぐのはルール違反でしょ」鈴奈は立ち上がると、毅然と言い放った。

「何だ? このアマは……、張り子と何をやっている?」

「張り子じゃありません。ちゃんと、名前で呼んであげなさい。許しませんよ」

 電車の他の乗客が、何事かと、遠巻きに見ているのが分かった。

「分かっているの? 周りの人にも迷惑でしょ」尚も鈴奈は、強い口調で言い立てた。

 鈴奈の勢いに気圧されたのか、不良たちは「ちぇっ」と、舌打ちしてその場を立ち去った。

 結局、僕は不良グループの前では手も足も出なかった。

 鈴奈は席に戻ると、俯いていたが、大石駅に着き僕が電車を降りようとすると

「大変だったわね」と、小声で呟くように労ってくれた。

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