〇第四十二話 そして再び


 それから、一年が経った。


「雛ちゃん、もう学校行かなきゃの時間だよ!」

 キッチンからの呼び声に、雛子はパンをもぐもぐしつつ、半泣きで宿題をやっている五年生の聡くんの頭越しに時計を見て、悲鳴を上げた。

「やばっ、遅刻しちゃう!」

「ほら弁当。あ、進路希望調査票、印鑑押したからね。持っていきな」

「うわ、ありがとオッコさん!助かります!」


 小柄で朗らかな中年女性がきっちんから出てきて、ピンクのお弁当の包みと一緒に白い紙を渡してくれる。

 オッコさん、というのは、雛子が今いるファミリーホームの先生だ。


「はいはい、いってらっしゃい!」

「えええー、雛姉ちゃん、待ってくれよう、この割り算わかんねえよう」

「ごめん聡くん!もうすぐ綾子ちゃんが朝ごはん来るから、綾子ちゃんに聞いて!」


 聡くんの坊主頭をぐりぐりと撫で、雛子は玄関に向かった。

 玄関で靴を履いていると、オッコさんがやってきて珍しく声を小さくした。


「ねえ雛ちゃん、進路希望調査票見たけど、あんた卒業したら、一人暮らし希望って本気?」

 備考欄には、一人暮らしを希望するので物件を探しており、学校が斡旋してくれる物件があれば紹介してほしい、と書いていた。

「うん、だってこのファミリーホームを必要としてる子はたくさんいるでしょう?」

「あんただって、その必要としている子の一人じゃない。看護学校に通いながら生活費のためにアルバイトするって、けっこう大変だと思うよ。まあ、このホームからだと雛ちゃんが希望している学校には遠いから、無理にとは言わないけどね。雛ちゃんがここに残った方が、他の子どもたちも喜ぶしさ」


 雛子は微笑む。このファミリーホームとオッコさんのおかげで、雛子は日常生活を立て直すことができた。

 ファミリーホームやオッコさんを必要としている子どもが、この世の中にはきっともっといる。


 一年前の自分のように、闇をはらったはいいけれど、途方に暮れている子どもが。


「大丈夫だよ。あたしはもう、オッコさんやこのホームのみんなにエネルギーをもらって充電満タンだから。何があってもへこたれない」

「雛ちゃん……」

「そうそう、今、第一希望の看護学校の近くの物件も見てるんだ。今度オッコさんも一緒に物件見てほしいんだけど」

「やれやれ」

 オッコさんは大きく息を吐いて雛子の肩を叩いた。

「雛ちゃんは一度決めたらまっしぐらだもんね。ていうか、物件の前に学校に受からなきゃだよ。しっかり勉強しといで!」

「はあい」

 いってきます、と雛子は古い鉄格子の門を閉じた。


 初夏の朝、生命力を湧き立たせる日差しに目を細めて、雛子は白い紙を眺める。

 高校三年生を対象にした進路希望調査票だ。

 そこには「看護師志望 看護専門学校入学希望」と書かれていた。


 雛子は、看護師を目指すことに決めていた。

 亡き母が看護師だったからだ。


 叔母の家と里子・里親関係が解消すると共に、看護師だった母が残してくれていた預貯金があることが発覚して、雛子は法定相続人として正式にそれらを相続した。

 預貯金はかなりの額があり、雛子は弁護士と相談して、そのお金の一部を使って看護学校へ行くことに決めたのだった。

 今は看護学校を受験するために猛勉強をしている。

 そして同時に、一人暮らしのできるアパートを探していた。


 オッコさんの言う通り、そもそも第一希望の看護学校に合格しなくてはアパート見ても仕方がないというか取らぬ狸の皮算用だが、アパートを見るのはとても楽しく、このところ時間を見つけては物件を見に行っていた。

 

 いちばんの条件は『学校から近いこと』。看護学校は課題や実習が多いので、アパートは学校から近い方がいいらしい。

 それと、もう一つの重要な条件んは、『ペット可のアパート』だ。


 次はどの物件を見ようかなとスマホを取り出そうとしたとき、雛子ははたと立ち止まった。


「えっ、やだ、かわいい!」


 雛子の行く手に、ちょこん、と黒い子猫が座っていた。

 思わず走り寄るが、子猫は逃げない。それどころか、雛子の膝に頭や身体をこすりつけてきた。

「うっそー。めっちゃカワイイんですけど」

 雛子は夢中で子猫を手の中で撫でた。

「どうしよう、かわいすぎる。このままホームに連れ帰って、あたしが帰ってくるまでオッコさんにお願いしようかな……」


 雛子が思案していたときだった。


「あ!」


 手の中でじゃれていたと思ったら、子猫は進路希望調査票に食いついて、そのまま走り出した。


「あっ、待ってクロちゃん!」


 思わず言った言葉に、雛子はハッとする。


(黒い子猫……)


 一年前のことを思い出す。

 追いかけて走った、黄昏色の住宅街。


(この展開って……)


 心臓がどくん、どくんと大きく鳴るのは走っているせいだけではない。


 どんどん走っていくクロを追いかける。と違うのは、朝だということと、雛子の髪がポニーテールになったということ。

 住宅街の中をクロと追いかけっこしているのはあの時と変わらない。


「その紙を返して!クロ!」


 叫ぶと、クロは雛子を待つように速度をゆるめる。追いつくと、また走り出す。あの時と同じように。

「はあ、はあっ、はあ……」

 

 肺が痛くなるほど走っている。けれど立ち止まらない。

――あの時と同じ。

 そういう大きな予感が雛子を突き動かしている。


 四辻よつつじを、クロが曲がった。雛子もそれに続いた。

 そして、クロが飛び込んだのは。


「やっぱり……!」


 あの時と同じ、赤い小さな鳥居。


 覗けば、鎮守の森に守られた参道が見える。クロの小さな後ろ姿がその鎮守の森に走って消えた。

 あのときと違って、もう暗闇は怖くない。

 雛子は迷わず鳥居をくぐった。

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