〇第四十話 シンデレラの魔法が解ける時間
「半分妖怪、ってことですか?」
「母が妖だった。
そうして静は、クロに向いた。
「
《……だから静よ、我に罰を与えよ》
クロは包帯だらけの身体を苦しそうに動かし、静の方へ向く。
《我は、
静はクロに近付き、膝を付く。そんな静にすがるように、クロは訴えた。
《滅されてもいい。それだけのことを、我はおぬしに――》
「さっき、かつて武蔵野別荘があった土地に行った」
突然何を言われたかわからず、クロはハチミツ色の目で静を見上げる。
「
《何の話だ?》
「結界の中に閉じこもるのは、もうやめた」
静は、どこか吹っ切れたような表情で、はっきりと言った。
「闇ではなく、
ハチミツ色の目に戸惑いの色が浮かぶ。
《それは……それはとてもいい話だと思うが、そうではなく我に罰を――》
「武蔵野別荘の敷地をきれいにして、妖火を守る社と共に、俺やおまえが
《何……我が、現世で暮らすと……?》
「忙しくなる。おまえにもたくさん働いてもらわねばならない。俺が結界から出たら、妖火を頼りに集まってくる妖が増えるだろうからな」
《静、おぬし》
「俺も間違っていた。母の死に囚われ、母が望んだことを
深い青い双眸が優しく細められる。
「迷い、間違えることは誰にでもある。そこからどうやり直していけるのか、俺はこれから先の未来で試してみたい。罰が欲しいと言うなら、コキ使うぞ。これからも共に妖火を守っていくのだからな。よろしく頼むぞ――クロ」
名を呼ばれた猫鬼――クロは、目をまん丸にして、不思議な、しかし笛の音のような美しい鳴き声を上げた。
クロのそのときの表情をあえて言葉にするなら、やはり泣いているのだろうと雛子は思った。けれどその表情は、ただ泣いているのとは違う、うれしさや切なさ、哀しみや寂しさが混ざった複雑なものだ。
小刻みに震えた身体で、クロは何度も首を縦に振って、クォーン、と美しい鳴き声を上げた。黄金色の尻尾が、千切れんばかりに揺れていた。
そんなクロの頭をそっと撫でて、静は雛子を振り返る。
「君は……やはり、元の世界へ戻るのか?」
「え……」
雛子を見るその双眸に吸いこまれそうになる。
その深い色の双眸からは、感情は読めない。
けれど見つめていると、胸が苦しくなった。何かを訴えかけるようなその眼差しに、思わず雛子は目を逸らした。
「あ、あたし、静さんのおかででたいした怪我じゃないですし、もう少し休んだらもちろん、戻ります。元の世界へ」
「……そうか」
静は小さく息を吐いて立ち上がった。
「俺はちょっと行く場所があってここを離れる。ここに式神を残すから、必要なものがあったら言ってくれ」
そう言って静は何事か唱え、あの式神使いがやったように、指で印をきった。
するとそこに
形を成して現れたのは、昔話に出てきそうなお寺の小坊主と、愛らしいおかっぱ頭に赤い
「え?! 一つ目小僧と座敷童!」
現れた式神たちは、うれしそうに雛子の手を取った。
『我は《最後の妖火》の守り人に、式神にしてもらった』
『あちきたち、雛子のお世話する。あの嫌な
そんな二匹に、静は穏やかに言った。
「俺は引っ越しの手配で社を出入りしているから、雛子のことを頼む」
『はい、
二匹は静の後ろ姿に可愛らしくおじぎをした。
「よかったね、ちゃんと居場所ができたんだね」
二匹のことが気にかかっていた雛子は温かい気持ちになった。
みんな、それぞれ納まるべき場所に納まっていく。
(あたしも、ちゃんとしなくちゃ)
叔母や従姉妹たちの鬼を祓ってから、考えていることがあった。
それを、実行しなくてはならない。
◇
「本当にもう行くのか」
眉をひそめる静に、雛子は膝につくくらい頭を下げた。
「お世話になりました」
リュックがずり落ちて後頭部にどすんと当たる。わずかに火傷をした肩がひりついた。
「いたた……」
「もう少し休んだ方がいい」
「いいんですいいんです。思い立ったら吉日、っていうでしょ」
雛子と静は、結界内の参道を歩いていた。
石灯籠は相変わらず灯りが点っていなくて薄暗いが、雛子はもう、暗闇でも大丈夫だった。薄闇の先のぽっかり開いた出口に、鳥居が見える。
最初に雛子がくぐった、あの赤い小さな鳥居だ。
「ていうか、あたしこそいいんですか?」
「なにがだ」
「行きたい場所に、出させてくれるって」
呪力を取り戻した静は、この結界の中から望む場所にどこへでも行けると言う。
だから「とある場所」へ出るように、雛子は静に頼んだのだ。
「もちろん。そんなことは
「呪術師って便利ですね」
呆れたように雛子が言うと、静は得意げに笑った。
「まあな。スマホやSuicaがなくてもじゅうぶん生きていける」
「でも普通の世界で暮らすなら、あったほうが便利ですよ、スマホもSuicaも」
静は、どうやら結界から出て外界――つまり雛子たちが普通の生活する空間に住むことにしたようで、さっきまでその準備で結界を出たり入ったりしていた。何か、手続きのようなものがたくさんあるとぼやいていた。
「この世知辛い世の中に生きるなら、呪術と同じくらい必須アイテムですよ、スマホとSuicaは」
雛子が念を押すと、静は白い手袋の手を顎にあて、
「そうだな。考えておく」
と生真面目に言った。
(ほんと、真面目で律儀な大正気質だな、静は)
くすりと笑い、近付いてきた鳥居をみて現実に引き戻される。
別れのときだ。
鳥居の下に立っても、しばらく敷居をまたげないまま、雛子は立ちつくした。静も宙を睨んで黙ったままだ。
「あの」「あのな」
二人同時に声を発して、顔を見合わせる。
「あっ、静さんからどうぞ」
「いや、君から」
「いや、そんな」
「婦女子に
また生真面目にそう言われて、雛子は呆れたように笑う。
「やっぱり大正気質ですね。でも、静さんのそういうところ、あたし嫌いじゃないです。無骨で無愛想で不器用で、でもすごく優しい」
雛子は静を真っすぐ見上げた。視界がゆらぐ。声が震えないように頑張ってこれだけは伝えたい。
「静さんのおかげで、あたし、闇を祓うことができました」
「雛子……」
「あたしが本来、歩くべき道に戻ってこれたって気がします。静さんがいたから、自分の人生立てなおす覚悟ができました」
「雛子」
静は、ためらいがちに言った。
「クロはあの様子ではもう少し動けない。君も一緒に療養した方が、クロは喜ぶが」
雛子はぽかん、として、顔を赤らめている静を見て、それが静にとって精いっぱいの引き留める言葉なのだとわかって――胸がきゅう、と苦しくなった。
そして、それを知られないように、ふわりと笑った。
「ありがとうございます。でもあたし……行かなきゃ」
シンデレラの魔法が解けてしまったように、もうリアルな生活に戻る時間だ。
これ以上、静と一緒にいるわけにはいかない。
これ以上一緒にいたら――離れられなくなりそうで。
人生を立て直すきっかけをくれた人に――初めて好きになった人に、カッコ悪いところを見せたくない。
(人生立て直せたら、静さんに今とは違った顔を見せられると思う)
そんな遠い未来のいつかを頭の隅に置いて、雛子は想いを伝える言葉の代わりに言った。
「いつか、また会えるでしょうか」
静はじっと雛子を見下ろす。
「雛子。俺は――」
何かを言いかけて、白い手袋をした手で口元を押さえた。
「いや……今は言うべきではないな」
何を、と問いたかったが、雛子は静を見上げて頷いた。頷くのが精いっぱいだった。
青みがかった双瞳が、切なそうに揺れている。
(そんな顔しないでよ、バカ)
雛子は唇を噛んだ。何か言葉を発したら、きっとこみ上げているものが
「――じゃあお元気で!」
さようなら、という言葉まで静に届いただろうか。
握られそうになった手をすり抜けて、雛子は鳥居をくぐった。
静が後ろから叫ぶ声と、鳥居をくぐった瞬間が同時で、ぶおん、と空気が揺らぐ音が静の言葉をかき消した。
「これで、よかった。これで……」
視界がゆらめく。そんな自分に言い聞かせる。
もう、シンデレラに戻る時間だよ。
「あたしがあたしの現実を、ちゃんとする時間だよ」
振り返れば鳥居はもう消えていた。そこには駐車場の花壇があるだけだ。
雛子は涙をぬぐって、目の前にそびえる鉄筋コンクリートの建物を見上げる。
そんな雛子の傍を、数人のスーツ姿の人々や子どもを連れた女性などが通り過ぎていった。
今は午前中のようだ。久しぶりに感じる初夏の日差しが眩しくて、雛子は急いで建物の玄関に入った。
そして大きく深呼吸すると、自動ドアを抜けて目的の場所に向かった。
◇
静の手をすり抜けて、雛子は鳥居をくぐっていってしまった。
「雛子……」
宙をつかんだ手の虚しさに、大事なものがこの手をすり抜けていったことに気付く。
雛子がここに残って喜ぶのは、クロだけじゃない。
式神にした一つ目小僧も、座敷童も。
そしていちばん喜ぶのは、たぶん。
「――俺か」
静は頭を抱える。どうしてもっと早く気付かなかった?
いや、気付いていたのだ、ちゃんと。
なんとしてでも雛子を死なせてはならないと思ったのはなぜか?
男として、愛した女性は生涯かけて守り抜くと思ってきた。しかし、かつて婚約者に対してそうあるべきだったのに、そうなれなかった。
それを、雛子に対してはいとも簡単に、考えなくても実行できたのは、なぜか?
すべて、もうとっくに、気付いていたのに。
大事なものを、大切な人を、いつもこの手から離してしまう。
友も母も、そうやって失っていったというのに。
また同じ失敗を繰り返して。
「……いや、誰にでも失敗はある。かならずやり直してみせる」
静は決然と
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