〇第四十話 シンデレラの魔法が解ける時間



「半分妖怪、ってことですか?」

「母が妖だった。白妖狐びゃくようこと呼ばれる、五百年は生きたであろう大妖だ。俺が怪我をしてもすぐに治り、齢を取らないのは、そのためだ」


 そうして静は、クロに向いた。


猫鬼びょうきは、妖火を守っていた母に付き従っていた妖だ」

《……だから静よ、我に罰を与えよ》

 クロは包帯だらけの身体を苦しそうに動かし、静の方へ向く。

《我は、主様ぬしさまとの約束をたがえた。主様に静を頼むと言われたのに、裏切った》


 静はクロに近付き、膝を付く。そんな静にすがるように、クロは訴えた。


《滅されてもいい。それだけのことを、我はおぬしに――》

「さっき、かつて武蔵野別荘があった土地に行った」


 突然何を言われたかわからず、クロはハチミツ色の目で静を見上げる。


やしろの原型がそこにあるんだ。そして、母上が亡くなる直前まで、長く過ごした地下牢もある。あそこなら、妖であるおまえも人に姿を見られず過ごせると思う」

《何の話だ?》


「結界の中に閉じこもるのは、もうやめた」


 静は、どこか吹っ切れたような表情で、はっきりと言った。


「闇ではなく、の光の元へ引っ越しをする。朝も昼も夜もある、現世の世界に」

 ハチミツ色の目に戸惑いの色が浮かぶ。

《それは……それはとてもいい話だと思うが、そうではなく我に罰を――》

「武蔵野別荘の敷地をきれいにして、妖火を守る社と共に、俺やおまえが現世うつしよに住む場所を建てる」

《何……我が、現世で暮らすと……?》

「忙しくなる。おまえにもたくさん働いてもらわねばならない。俺が結界から出たら、妖火を頼りに集まってくる妖が増えるだろうからな」

《静、おぬし》

「俺も間違っていた。母の死に囚われ、母が望んだことをじ曲げて解釈し、闇に閉ざされて無為に時を過ごしてしまった」

 深い青い双眸が優しく細められる。

「迷い、間違えることは誰にでもある。そこからどうやり直していけるのか、俺はこれから先の未来で試してみたい。罰が欲しいと言うなら、コキ使うぞ。これからも共に妖火を守っていくのだからな。よろしく頼むぞ――クロ」


 名を呼ばれた猫鬼――クロは、目をまん丸にして、不思議な、しかし笛の音のような美しい鳴き声を上げた。


 クロのそのときの表情をあえて言葉にするなら、やはり泣いているのだろうと雛子は思った。けれどその表情は、ただ泣いているのとは違う、うれしさや切なさ、哀しみや寂しさが混ざった複雑なものだ。

 小刻みに震えた身体で、クロは何度も首を縦に振って、クォーン、と美しい鳴き声を上げた。黄金色の尻尾が、千切れんばかりに揺れていた。


 そんなクロの頭をそっと撫でて、静は雛子を振り返る。

「君は……やはり、元の世界へ戻るのか?」

「え……」


 雛子を見るその双眸に吸いこまれそうになる。

 その深い色の双眸からは、感情は読めない。

 けれど見つめていると、胸が苦しくなった。何かを訴えかけるようなその眼差しに、思わず雛子は目を逸らした。


「あ、あたし、静さんのおかででたいした怪我じゃないですし、もう少し休んだらもちろん、戻ります。元の世界へ」

「……そうか」


 静は小さく息を吐いて立ち上がった。


「俺はちょっと行く場所があってここを離れる。ここに式神を残すから、必要なものがあったら言ってくれ」

 そう言って静は何事か唱え、あの式神使いがやったように、指で印をきった。

 するとそこにもやが生じ、ヒトの形になる。

 形を成して現れたのは、昔話に出てきそうなお寺の小坊主と、愛らしいおかっぱ頭に赤い牡丹ぼたん柄の着物の少女。


「え?! 一つ目小僧と座敷童!」

 現れた式神たちは、うれしそうに雛子の手を取った。


『我は《最後の妖火》の守り人に、式神にしてもらった』

『あちきたち、雛子のお世話する。あの嫌なはこから出られたの、雛子のおかげだもん』


 そんな二匹に、静は穏やかに言った。

「俺は引っ越しの手配で社を出入りしているから、雛子のことを頼む」

『はい、主様ぬしさま』『あい、主様』

 二匹は静の後ろ姿に可愛らしくおじぎをした。


「よかったね、ちゃんと居場所ができたんだね」

 二匹のことが気にかかっていた雛子は温かい気持ちになった。


 みんな、それぞれ納まるべき場所に納まっていく。


(あたしも、ちゃんとしなくちゃ)


 叔母や従姉妹たちの鬼を祓ってから、考えていることがあった。

 それを、実行しなくてはならない。







 

「本当にもう行くのか」

 眉をひそめる静に、雛子は膝につくくらい頭を下げた。


「お世話になりました」

 リュックがずり落ちて後頭部にどすんと当たる。わずかに火傷をした肩がひりついた。


「いたた……」

「もう少し休んだ方がいい」

「いいんですいいんです。思い立ったら吉日、っていうでしょ」


 雛子と静は、結界内の参道を歩いていた。

 石灯籠は相変わらず灯りが点っていなくて薄暗いが、雛子はもう、暗闇でも大丈夫だった。薄闇の先のぽっかり開いた出口に、鳥居が見える。

 最初に雛子がくぐった、あの赤い小さな鳥居だ。


「ていうか、あたしこそいいんですか?」

「なにがだ」

「行きたい場所に、出させてくれるって」


 呪力を取り戻した静は、この結界の中から望む場所にどこへでも行けると言う。

 だから「とある場所」へ出るように、雛子は静に頼んだのだ。


「もちろん。そんなことは容易たやすい。呪力が戻った今、どこへでも道を開くことはできるからな」

「呪術師って便利ですね」


 呆れたように雛子が言うと、静は得意げに笑った。


「まあな。スマホやSuicaがなくてもじゅうぶん生きていける」

「でも普通の世界で暮らすなら、あったほうが便利ですよ、スマホもSuicaも」

 静は、どうやら結界から出て外界――つまり雛子たちが普通の生活する空間に住むことにしたようで、さっきまでその準備で結界を出たり入ったりしていた。何か、手続きのようなものがたくさんあるとぼやいていた。

「この世知辛い世の中に生きるなら、呪術と同じくらい必須アイテムですよ、スマホとSuicaは」

 雛子が念を押すと、静は白い手袋の手を顎にあて、

「そうだな。考えておく」

 と生真面目に言った。

(ほんと、真面目で律儀な大正気質だな、静は)

 くすりと笑い、近付いてきた鳥居をみて現実に引き戻される。


 別れのときだ。


 鳥居の下に立っても、しばらく敷居をまたげないまま、雛子は立ちつくした。静も宙を睨んで黙ったままだ。


「あの」「あのな」


 二人同時に声を発して、顔を見合わせる。


「あっ、静さんからどうぞ」

「いや、君から」

「いや、そんな」

「婦女子にゆずるのが男たるものの礼儀だ」


 また生真面目にそう言われて、雛子は呆れたように笑う。


「やっぱり大正気質ですね。でも、静さんのそういうところ、あたし嫌いじゃないです。無骨で無愛想で不器用で、でもすごく優しい」

 雛子は静を真っすぐ見上げた。視界がゆらぐ。声が震えないように頑張ってこれだけは伝えたい。

「静さんのおかげで、あたし、闇を祓うことができました」

「雛子……」

「あたしが本来、歩くべき道に戻ってこれたって気がします。静さんがいたから、自分の人生立てなおす覚悟ができました」


「雛子」

 静は、ためらいがちに言った。

「クロはあの様子ではもう少し動けない。君も一緒に療養した方が、クロは喜ぶが」


 雛子はぽかん、として、顔を赤らめている静を見て、それが静にとって精いっぱいの引き留める言葉なのだとわかって――胸がきゅう、と苦しくなった。


 そして、それを知られないように、ふわりと笑った。


「ありがとうございます。でもあたし……行かなきゃ」


 シンデレラの魔法が解けてしまったように、もうリアルな生活に戻る時間だ。

 これ以上、静と一緒にいるわけにはいかない。

 これ以上一緒にいたら――離れられなくなりそうで。

 人生を立て直すきっかけをくれた人に――初めて好きになった人に、カッコ悪いところを見せたくない。


(人生立て直せたら、静さんに今とは違った顔を見せられると思う)


 そんな遠い未来のいつかを頭の隅に置いて、雛子は想いを伝える言葉の代わりに言った。


「いつか、また会えるでしょうか」


 静はじっと雛子を見下ろす。

「雛子。俺は――」

 何かを言いかけて、白い手袋をした手で口元を押さえた。


「いや……今は言うべきではないな」

 何を、と問いたかったが、雛子は静を見上げて頷いた。頷くのが精いっぱいだった。

 青みがかった双瞳が、切なそうに揺れている。


(そんな顔しないでよ、バカ)

 雛子は唇を噛んだ。何か言葉を発したら、きっとこみ上げているものがあふれてしまう。


「――じゃあお元気で!」


 さようなら、という言葉まで静に届いただろうか。

 握られそうになった手をすり抜けて、雛子は鳥居をくぐった。


 静が後ろから叫ぶ声と、鳥居をくぐった瞬間が同時で、ぶおん、と空気が揺らぐ音が静の言葉をかき消した。


「これで、よかった。これで……」

 視界がゆらめく。そんな自分に言い聞かせる。


 もう、シンデレラに戻る時間だよ。


「あたしがあたしの現実を、ちゃんとする時間だよ」


 振り返れば鳥居はもう消えていた。そこには駐車場の花壇があるだけだ。


 雛子は涙をぬぐって、目の前にそびえる鉄筋コンクリートの建物を見上げる。

 そんな雛子の傍を、数人のスーツ姿の人々や子どもを連れた女性などが通り過ぎていった。

 今は午前中のようだ。久しぶりに感じる初夏の日差しが眩しくて、雛子は急いで建物の玄関に入った。


 そして大きく深呼吸すると、自動ドアを抜けて目的の場所に向かった。





 静の手をすり抜けて、雛子は鳥居をくぐっていってしまった。


「雛子……」


 宙をつかんだ手の虚しさに、大事なものがこの手をすり抜けていったことに気付く。

 雛子がここに残って喜ぶのは、クロだけじゃない。

 式神にした一つ目小僧も、座敷童も。

 そしていちばん喜ぶのは、たぶん。


「――俺か」


 静は頭を抱える。どうしてもっと早く気付かなかった?

 いや、気付いていたのだ、ちゃんと。


 なんとしてでも雛子を死なせてはならないと思ったのはなぜか?

 幽世かくりよへ渡りそうだった雛子を、連れ戻したのはなぜか?


 男として、愛した女性は生涯かけて守り抜くと思ってきた。しかし、かつて婚約者に対してそうあるべきだったのに、そうなれなかった。


 それを、雛子に対してはいとも簡単に、考えなくても実行できたのは、なぜか?


 すべて、もうとっくに、気付いていたのに。

 大事なものを、大切な人を、いつもこの手から離してしまう。

 友も母も、そうやって失っていったというのに。

 また同じ失敗を繰り返して。


「……いや、誰にでも失敗はある。かならずやり直してみせる」


 静は決然ときびすを返した。同じ過ちを繰り返さないためには、目の前に山積していることを片付けなくてはならない。

 

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