月の章 ~優しく照らすは、時満ちた月

〇第三十九話 闇からの生還



「静さん!」


 雛子は赤と青のほのおの間から、静を呼んだ。

 まとわりつく熱気を振り払おうとして、自分の手に何かが握られていることに気付く。

「にゃあ」

 小さな黒い子猫は、雛子の手の中で心細そうに鳴いた。

「そっか、お母さんが、あたしに渡してくれたのはあなただったのね」

 ぎゅっと子猫を抱きしめたとき、


「雛子!」


 焔の向こうからの声に、雛子はハッと顔を上げる。


「静さん!」

「そっちへ行くな!そっちは幽世かくりよだ! こっちへ来い、雛子!」


 静が雛子へ手を伸ばし、半身ごと燃え盛る焔の中へ手を入れた。

 赤と青の焔に焼かれ、静は苦悶の表情を浮かべる。


「静さんっ、妖火は闇灯籠に戻ったから!もうあたしのことはいいから!手を引いて!」

 このままでは、静までもが妖火に燃やされてしまう。


「いいから来い!」


 静は顔を歪ませながらも叫んだ。


「君のことは、ぜったいに死なせない!」


「静さん……」


 静が伸ばしてくれる手を取りたい。

 けれど、すぐに動けなかった。

 母の顔が浮かぶ。振り返りたい。せっかく再会できた母の手を再びしっかりと握りたい。

(でも、お母さんは振り返ったらダメだって言った)

 そう、振り返ったら――たぶんもう戻れない。

 どこからか、風が吹いた。


「雛子!!」


 静の叫びにハッと顔を上げる。


「迷うな!生きろ!生きていればなんとかなるから!」


 その言葉に、雛子はぐっと手を握りしめた。

(そうだ、生きなくちゃ)

 再び風が吹く。雛子は子猫をカーディガンのポケットにそっと入れた。

「しっかりしがみついているんだよ」

 そして、雛子も青と赤の焔の中に手を入れた。


 身を焼く熱さに思わず身体が大声を上げる。

 その中でも、静の手をしっかりと握った感触があった。そして、握り返してくる確かな手ごたえもあった。


 刹那、世界が反転する。

 焔の燃える音だけがごうごうと鳴り、凄まじい熱風で息もできなくなる。


「――――!!」

 悲鳴にならない悲鳴を上げる。不思議に青と赤に燃え上がる景色の中、しかしすぐに熱風も痛みも納まった。


(静さん……?)


 業火の中、静が雛子を全身で抱きかかえてくれている――雛子は遠のく意識の中でぼんやりと思った。





「う……」


 薄暗い闇に目を凝らす。


 組んだ木が見える。梁、というのだったか。むき出しの天井に渡された太い木。

 どこか懐かしい風景――そう思ったところで、意識がはっきりした。

(ここは?)

 目線だけ動かす。五色の布がすぐ目に入る。

 それが掛けられた祭壇に金色の卵のような容器が載っていて、その中に金色の灯籠が置いてあり、明るく輝いている。


(闇灯籠だ……光ってる……妖火、戻ったんだ)


 よかった、と思い、あれ? と思う。


(あたし、妖火に燃やし尽くされて死んだんじゃ……)


《気が付いたか?》


 首を横に動かすと、隣にハチミツ色の双眸があった。一瞬驚いたが、すぐにその黒い毛並みの懐かしさに泣きたくなる。


「クロ……」

《すまない、雛子。本当にすまなかった》

 クロも雛子の隣に横たわっていた。

「また怪我、したの?」

《まあな……自業自得だ》


 首筋と身体にかなり広く包帯をしていた。特に首筋は酷いのか、包帯も分厚く、薄っすらと暗緑色の血が滲んでいる。


《我が間違っていた。静を裏切るべきではなかった》

 クロは、苦しそうに言った。

《そして、乙女を巻きこんですまなかった》

「クロ……」

《最後の妖火を京極薫に渡す約束をした我は、己のしていることが急に怖くなったのだ。だから結界の外で京極薫の使いを追い返そうと思った。そこで、乙女に出会った》

「そうだったんだね」

《すまぬ……乙女のまとう闇が優しくて、つい寄り添ってしまった》

「え……」


 自分が抱えていた闇。それはどこまでも昏くどす黒く、怖ろしく醜いものだと思っていたのに。


《乙女の闇は、闇に生きる我らを癒してくれるような、気遣ってくれるような優しさがあるのだ。それは闇が無くなった今も、乙女から感じる。乙女の真の心根なのだな、きっと》

「あたし、闇がなくなった?」

《うむ。もう乙女からは闇を感じない。内も外も、闇は祓われた》

「そっか……」


 言われてみると、なんだか身体が軽くなったような気がする。


「闇を祓えたのは妖火のおかげだわ。そして、妖火が宿ったのはクロと出会ったからだよね。だから……巻きこんでくれてありがとう、クロ」


 クロは驚いたようにハチミツ色の目をまん丸にした。

《しかし、しかし! 乙女は我に罰を与えるべきだ。静が我に罰を与えるのと同じく――》


「誰が誰に罰を与えるって?」


 低い、柔らかな声に雛子とクロは一斉に顔を上げる。


「静さん!」

《静!》


 静は上半身に何もまとっていなかった。その逞しく鍛えられた胸板から左肩、左手首に掛けて、びっしりと包帯が巻いてある。


「静さん、やっぱり火傷ひどかったんですね?!」

 慌てて起き上がろうとした雛子を、静は押しとどめた。

「飲めそうなら、少しずつ飲んだ方がいい」


 静がペットボトルを出してくれた。式神ノ匣しきがみのはこだった家にあった、ミネラルウォーターだ。

 雛子はペットボトルに口を付けた。口を、喉を、身体の中を、じんわりと潤していく水は甘い。


「ありがとうございます」

 ペットボトルを返すと、静は雛子をじっと見た。

「無事でよかった」

「静さんも」

「本当に君には、悪いことをしてしまったな」

「そんなことないです」

 雛子はきっぱりと言った。

「そりゃ、最初は驚いたし腹が立ちましたよ? いきなり手が光って、闇灯籠とかいう訳の分からないものを探さなければ死ぬって言われて。でも、妖火のおかげで、あたしは自分の闇を祓うことができました」


 闇を祓わなかったら、このまま先に進んでいたら、叔母の闇呪文やみじゅもんとらわれたまま、働いて叔母たちにお金を渡すだけの生きるしかばねになっていただろう。


「お母さんもきっと、喜んでくれたと思います。あたしがずーっと、お母さんが死んだあの日の夕闇の中いたら、お母さんだって成仏しきれないと思いませんか?」

「……そうだな」

「だから、いいんです」


 それより、と雛子は静の上半身を覆う痛々しい包帯を見る。


「あたしのせいで、大怪我させてしまって、すみません」

「それこそいいんだ。俺は、


 ほら、と静が見せたのは、式神ノ匣で静が蝦蟇にやられた傷だ。深い傷だったのに、うっすら白い蚯蚓腫れが残っているだかけだった。


「う、うそ……」

「君はもう、薄々気付いているんじゃないのか。俺が、普通の人間じゃないということを」

「…………」


 まさか、という思いと、やっぱり、という思いが交錯する。静と行動を共にしてから、ずっと頭の隅に引っかかっていたこと。

 スマホや電車の切符を知らないことも、どこか嚙み合わない会話も、静が大富豪の世捨て人だと思うことで辻褄を合わせようとしたけれど。


「でも……だってそんなことって……今は二十一世紀ですよ? 令和ですよ?そんなオカルトな話――」

「俺は、この国に残る最後のオカルトの一つだな」


 静は微かに微笑む。聞いてはいけないことを聞くであろう恐怖に、雛子の心臓は大きく鳴った。


「俺の生年月日は、1893年 5月15日」

「1893年……?」


 今から百年以上も前だ。それはいったい、いつの時代だろうか。考える間も無く、静が言った。


「俺はヒトでもなく妖でもない。半妖なんだ」


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