〇第三十八話 妖火は闇を照らす


 闇の中、雛子の嗚咽おえつだけが響いていた。

(あたしはずっと、この黄昏時たそがれどきの闇の中に閉じこもって、世界に背を向けていたんだ……)


***


 母の遺体の第一発見者は雛子だった。

 ショックで口をきけなくなっていた雛子に、面会にきた叔母は囁いた。


『すぐに救急車か警察に通報していたら、お母さんは助かっていたかもよ』


 叔母は微笑んでいた。うなだれる雛子の肩を、優しく抱いた。その様子を、児童相談所の職員が微笑ましい光景を見る眼差しで見守っていた。叔母は、その職員に雛子を引き取った際の養育費や援助費用について根掘り葉掘り聞いていた。それは雛子には関係のない、どこか遠い場所の出来事のように思えた。


 けれどそれは雛子にとって、目を逸らしてはいけない現実リアルだったのだ。

 しかし、そうするにはあまりにも雛子は幼かった。


 そうして雛子は、叔母の家に引き取られ、階段の下に押しこめられた。


 雛子の心は母の死とうまく向き合えず、そしてそのことを誰にも気付いてもらえずに一人で闇を抱え込んだ。

 闇を恐れながらも、そこから出ることができなくなってしまった。


 ともしびの消えた、真の闇から。


 いつか猫を飼う。その母との約束だけが、闇の中を生きる雛子の、たったひとつの道しるべとなった。


***


 声が枯れ、涙が枯れた。雛子は流れっぱなしの涙を手の甲でぬぐった。


「あ……」

 自分の左手が、ひときわ明るくなったことに気付く。


 左手だけではない。足も、セーラー服も、雛子の目に見える雛子のすべてが、淡く光を放ちはじめた。

 そして、羽化したての昆虫のはねのように、目に入る自分がすべて、透けていった。

「妖火が、あたしを燃やし尽くしたんだ」


 蝕化しょくかが全身に広がったとき、雛子の命が尽きるという。


「死ぬのか、あたし」


 不思議と心穏やかだった。

 あんなに死にたくないと願い、足掻あがいたのに。

 

 「だってもう、闇におびえて生きなくていいんだよね」


 嘘のように心がぐと同時に、言いようのない寂しさが隙間風のように胸に入りこんできた。

――刹那。

「な、なにこれ……?」

 雛子の発する光に照らされるように、周囲の闇に様々な光景が流れては消えていった。


 同級生がざわめく学校。

 忙しそうなアルバイト先のファーストフード店。

 叔母や従姉妹たちがスマホをいじる叔母の家のリビング。

 たくさんの人々が行き交う電車や、駅。

 通りすがりの町の風景。

 雛子が知っている、雛子のいない風景。


 目の前に流れては消えていくそれらの風景を、雛子は呆然と眺めた。


 世界の、なんと雑多でせわしないことだろう。

 世界の、なんと――すばらしいことだろう。


 今まで、雛子は周囲を見ていなかった。

 いや、雛子の中の灯が消えていたことで、周囲が見えなくなっていたのだ。

 醜く辛いと思っていた日常も、死を前にしたこの瞬間、なんと輝いて見えることだろうか。


《最後の妖火》に燃やし尽くされたこの最期の時になって、今まで気付くことのできなかった世界の美しさを知るとは。

 その皮肉に、雛子が苦笑したときだった。


 にゃあ


 微かすかに、猫の鳴声がする。

「どこ?!」

 雛子は周囲を見回し、さまよう。闇の中、雛子の行くところが明るく照らされるたびに、いつかどこかで見たことのある風景が浮かび上がった。


「……いた!」


 その中に、いつか母と歩いた帰り道、遊んだ黒い子猫がいた。

 そして、その子猫を抱き上げた白い手は。


「……お母さん!」


 グレーのスーツスカートに白いシャツ姿。一つに結んだ艶やかな髪。

 記憶の中と同じ母が、子猫を抱いて微笑んでいた。


「お母さん!」

 雛子は駆け寄る。自分も透明だが、母も透明だ。母の肩に触れた手は、宙をつかんだ。

 それでも母は微笑んで言った。

『雛子はもう、ここに縛られる必要はない。戻りなさい。あなたの世界へ』

「いやっ、お母さんと一緒に行く」


 母は弱く微笑んだ。笑っているのに眉の下がった顔。雛子が駄々をこねるときにする顔。懐かしい、母の困った顔。


「せっかくお母さんに会えたのに、せっかく明るい場所に来れたのに……戻ったら、あの時みたいに、あの時お母さんが急に死んじゃったみたいに、全部が真っ暗になって、また闇の中に置き去りにされるかもしれない……そんなのはもう嫌!」


 雛子はありったけの声で叫んだ。小さな子どものようだということはわかっている。けれど、今まで抑えていたものが爆発するように、雛子は自分の奥底にある本当の思いを叫んだ。


『ごめんね、雛子』

 母が困ったように微笑んで、そっと雛子の手に手を重ねた。


「お母さん……」

『ごめんね。あなたにばかり辛い思いをさせてしまって。ごめんね』


 互いに透明な手は触れ合えないのに不思議と母の温かさが伝わってきて、鼻の奥がつん、とした。雛子は顔をくしゃくしゃにして、言葉を絞った。



「お母さん……いいの、いいんだよ」

 本当はわかっていた。母がいちばんつらかったのだということも。

 幼い我が子を残して死ぬことが、どれだけ心残りだったかということも。

 そして、自分が母のことを助けられたかもしれないのに、それができなかったことも。



「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい……」

『いいえ。あなたは何も悪くないのよ。最初から』


 しゃくりあげる雛子の肩に、母の手が重なる。


『雛子がお母さんを見つけてくれたとき、もうお母さんは死んでいたわ。だから、雛子にはどうしようもなかった。雛子は何も悪くないの。なんにも」

「あかあさん……」


 泣きじゃくる雛子を母はそっと抱きしめる仕草をした。

『大きくなったのね、雛子』

 同じくらいの目線の雛子を愛おしそうに見つめ、その視線を雛子の背後へ向ける。

『あなたを呼んでくれるあの人と一緒に、行きなさい』

「え……?」


 振り返った雛子は、大きな双眸をさらに大きくした。


「静さん!」


 闇の向こうに、静がいる。雛子に向かって何かを叫んでいる。しかし、青と赤の燃え盛る焔が静の行く手を阻んでいた。


「お母さんは……?」

 母の笑顔が困ったように歪んで――雛子を強く抱きしめた。

 柔らかく懐かしい感触が、雛子を一瞬包んだ。そして、手のひらに何か柔らかくて温かいものが渡された。

 母は抱きしめたその手でくるり、と雛子を後ろに向かせた。


『さあ、行きなさい。決して振り返らずに』

 とん、と背中を優しく押す感触を、確かに感じた。


「あっ」

 同時に、雛子は燃え盛る焔の前まで来ていた。




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