〇第三十七話 闇祓いの詩~弥勒院静


 静は額に触れる。薫の金瞳と同じ形をした、その術印に。


「おまえは妖火を、喉から手が出るほど欲している。だが、社まで来なかった。俺が社にほどこしていた摩利支天まりしてん隠形おんぎょう結界は、半妖となったおまえなら見破れるはずなのに」


 薫は黙っている。その麗貌に、先ほどまでの余裕の表情はない。


「猫鬼をそそのかして結界に穴を開けさせ、あの式神使いに呪符を持たせて俺の呪力を封じさせた。そんなまどろっこしいことをするのは、おまえが自分ではもう


 静はかつての友を見つめた。

 薫は銀糸のようなおくれ毛をかき上げる。それは昔から、薫の感情が大きく動いたときにする仕草だった。


「あれ……?」

 かき上げた髪ごと、ずる、と皮膚ががれ落ちる。指の間に血肉ごと絡まった髪を、薫は何が起きたかわからないという顔で見ている。


「おまえは、妖を喰い続けて寿命を延ばし、妖力を膨張させた。もともと呪力の高いおまえは、妖としては大妖の部類に属する。妖が激減した現世うつしよでは、おまえの妖力に見合った妖は存在しない。もう、限界なんだよ。妖を喰うことも、おまえの身体も」


 静の低い呟きには、哀しみが滲んでいた。

 くつくつと薫が喉の奥でわらった。


「やっぱり、静にはかなわないなあ」

 そして再び呪符を出し、指にはさんで一振りする。

 それは一瞬で大きな呪刀に変わった。

「剣術でも昔から静の方がずっと勝っていたよね。さらに弱っている僕には、ちょっとくらいアドバンテージをくれるだろ?」

「アドバンテージ?」

 薫はもと居た空間――背後にぽっかり明るく穴を開けるビクトリア調の部屋に向かって呼びかけた。


「いるんだろ? 早く入りなよ、ここを閉じるから」


 ビクトリア調の部屋が闇に地下牢の闇に塗りつぶされるように消えていく刹那、黒い影が薫の足元に着地した。


「猫鬼!」


 猫鬼は薫を守るように立ちはだかり、静をじっと見上げているだけだ。

 その漆黒の毛並みを、薫が大げさに撫でた。


「こいつはさ、名を付けてくれた雛子ちゃんをどうしても助けたいらしいんだ。けなげだよね。妖って。本当に、けなげだ」

「まさか……薫っ、やめろ!!」


 しかし、薫が猫鬼の耳元で囁く方が早かった。


「ねえ、おまえは、雛子ちゃんを助けたいんだよね? そのために僕に力を貸してくれるんだよね?」


 猫鬼が《是》、と言うのと同時だった。


 薫の端整な顔が大きく歪んだ。

 大きく裂けた口からは容貌をゆがませるほど巨大な牙がのぞき、その牙が猫鬼の首筋を一瞬でとらえた。


「やめろーっ!!」


 静は駆けだし、呪刀を薫に向けて振り上げた。

 しかし薫はわらったまま、凶悪な牙で猫鬼の首筋を喰いやぶり、寸でのところで静の刃をすり抜ける。


「薫っ!!!」

 

 喰い破った肉を咀嚼そしゃくする湿った音は、哄笑こうしょうへ変わる。同時に、薫の身体にも変化が起こっていた。

 身体の中で何かが蠢いているように、身体中の皮膚がぼこぼこと隆起する。ダークグレーのスーツを突き破り、醜怪しゅうかいいびつな手足が出現した。銀色の美しかった髪はざんばらけて獣のたてがみのように変じ、口が裂け鼻が突き出た容貌の中、金色の瞳だけが唯一薫であることを示している。


《ははっ、力がみなぎるよ……今なら静に負ける気がしない!》


 刹那、閃光が走った。


「くっ……」

 薫が振り上げた呪刀を、静の呪刀が受けて放電して音をたて、刃が両者の間で拮抗きっこうする。


《僕も限界だけど、静もよれよれだよねっ》


 突き飛ばす力に静は身体を反転、薫からの斬撃を弾き飛ばした。


「ああそうだな」

 呪力を封じられ、大量の式神をはらい、ほとんど眠らず、徒歩で移動して。

「たしかによれよれだ!」


 静は薫の呪刀を狙って横に刃をぐ。

 が、怪力を得た薫はその刃を受けた。以前の薫だったら、腕力差で静に負けていた一撃だ。


《汗かいて泥だらけでさ。そんなみっともない君を見るのは初めてだよ、静!》


 薫は踊るように呪刀の切っ先を繰りだす。

 それを静は次々と受け流し、じりじりと後退していく。背後は地下牢の石壁だ。


 鋭い金属音が、地下牢にとどろいた。


《……なんでそんなに必死なのさ!》

「…………っ」


 互いの鼻先で刃はぶつかり合い、再び拮抗する。壁に追い詰められた静は逃げ場がない。

 呪刀がぶつかり合い、紫色の放電が無数に起きた。


《どうしてあの頃、その必死さを出さなかったんだよ! どうして何も言わずに僕の前から姿を消した! すべてを手にしておきながら、どうして!》


 刃越しに叫ぶ薫は、完全に異形へと変じていた。

 猫鬼を喰ったものの、妖力が足りなかったのだろう。隆起しすぎた頭部からずり剥けた皮膚が崩れ、金瞳だけが蘭々と燃える肉塊と化している。呪刀を握る手も歪に変化し、熟れた柘榴ざくろのように弾けていた。

 想像を絶する痛みが、薫を襲っているはずだ。

 これまでも、妖と同じ寿命を保つための負荷は、もだえるような苦しみや痛みをヒトの身である薫に与えてきたであろうに。


 目の前で悲痛な叫びをあげるかつての友が、自分への憧憬や嫉妬のためにそんな苦しい道を選んだと知った今、静の胸はきつく締め付けられた。


「……すまない、薫」

《なっ……なんで謝る!》


 こんなどうしようもない自分のために、薫は憧憬と嫉妬が作り出す闇に苦しんできたのだ。


(せめて俺がしてやれることは――その闇から解放してやること)


 静は腹の底から声を上げ、つか渾身こんしんの力を込めた。


 うろたえた薫に、ほんの一瞬だけ隙が生まれる。

 その隙を突き、押し返した静が横へ移動した。


 薫が体勢を変える前に、その心臓の位置を正確に狙い定めた静の呪刀が、裂帛れっぱくの気合と共に突き出され――一閃いっせん


 薫の動きが止まった。


「せ、い」

 呪刀が、肉塊に変じた手から滑り落ちた。


 静は友の心臓を貫いた刀を素早く抜き、崩れ落ちる細身の身体を受け止めた。


「すまない……すまない、薫」


 腐った果実のように皮膚が剥け、溶けただれていく薫の身体を、静は腕にしっかりと抱いた。


「俺もまた、闇に囚われていた。あの時代の闇に」


 闇祓やみはらいと戦争の影に生きた時代。

 あの時の自分に見えなかったものが、今は見える。


「あの時、今と同じように考えることができていたら……唯一の友が道を誤るのを止められたかもしれなかったのに」


 絞り出すような懺悔ざんげは、薫の耳には届いていないかもしれない。

 妖と同じ寿命を保ってきた薫であっても、最も楽に即死できる方法を、静は選んだから。


《ありがとう……らくに、してくれて》

 薫は、囁くように呟いた。

《うれしかった……友って、言ってくれて――》


 静の腕の中で、ふ、と命のともしびが消えた。


「薫……」

 嗚咽おえつをかみ殺し、薫の亡骸なきがらをそっと床に下ろし、軍服の上着を脱いでそっと掛けた。

 そして、静は自分の額に触れる。再び自分の体内にとある感覚が戻ってくるのを感じる。


「術印が、消えた」


 この身にめぐる、この感覚は。懐かしい、この呪力の循環は。

「呪力が……戻った」

 同時に、軍服を掛けたふくらみの下から、黒い砂が吹き出て、一陣の風となって消えた。

 術者が死んだことで、術が解けたのだ。


「薫。俺は、俺たちが生きた闇の時代を忘れることなく、前へ進むぞ」


 静は薫が逝ってしまったあとの軍服を羽織ると、荒い息で横たわる漆黒の獣に歩み寄った。


猫鬼びょうき……クロ」

 漆黒の身体が、身じろぎしようとする。

「動くな、助けてやるから!」


 しかし、喰い破られた首筋から暗緑色の液体はとめどなくあふれる。

 静は必死でその流れを止めようと首筋に手を当てたが、その手をもすぐさま妖の血に染まった。


《おぬし、に、先刻も、手当してもらった……ばかりだと、いうにな……》


 クロは絶え絶えの息の下、言葉に力をこめた。

《すまぬ、静》

「しゃべるな!血が――」

《おぬしは、立派だった……最後の妖火を、守れ……この先も……》

「クロ!!」


 言葉が途切れた。

「クロ!!!」

 静がその亡骸を抱え込むと同時に、ふう、とクロの口から何かが出てきた。


 淡い、温かな色のその光は、ふわふわと宙に上がり、静の目の前に浮かぶ。

「これは……クロの和魂にぎみたまか?」

 静が右手を伸べると、その光はなつくように静の右手を回り、五芒星の手袋に吸いこまれた。


 クロの魂は、まだ現世に留まっている。しかし、そう長くはもたないだろう。受肉する器を見つけなくては、幽世へ渡ってしまう。


「すぐに器を見つけてやるから、死ぬな、クロ」

 静はその右手を握りしめた。


「だがその前に、俺はやらねばならないことがある」 

 静は立ち上がり、振り返る。


 暗い地下牢の中、一隅を照らすようなともしびが見えた。


「妖火よ」


 近付き、静はそこに現れた闇灯籠にひざまづく。


 闇灯籠の中で踊る赤と青の炎が、応えるようにぜて燃え上がった。


「雛子はそこにいるんだな?」

 妖火はさらに燃え上がった。

 その勢いに、灯籠の笠が炎に押されて吹き飛び、床で乾いた音を立てた。


 赤と青の炎は糸のように依り合い、煉獄れんごくほのおのごとく灯籠から燃え上がり、天井に届くほど大きくなる。


「雛子を助ける。死なせない、ぜったいに」


 静はためらうことなく、その赤と青、不思議に揺れるほのおに手を入れた。






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