〇第三十六話 大正浪漫の再会



 薫は灯籠に手を置いてわずかに眉を上げた。


「あーあ、吸いこまれちゃった」

 薫はスーツのポケットから白い短冊を取り出して、頬に当てた。その瞬間、短冊は青く燃え上がる。

 炎が消えたとき、血の滴っていた頬は元の美しい白い頬に戻っていた。


「ま、いっか。これで妖火は手に入ったんだしね」

 薫は金細工の笠を灯籠にそっとかぶせた。


「雛子ちゃんを手元に置いておけるのは悪いことじゃないしね。あの得体の知れない闇の正体を見てみたいものだ」


 薫は灯籠を持ち上げた。中では、赤い火と青い火が絡み合うように揺れている。


「さっそく妖火を使って妖を集めるとするか。早く妖の肉を喰わないと、本当に身がもたないし……あれ?」


 刹那、薫の瞳が裏返り、幾重にも瞳孔の重なった金色に変じる。


「静……そうか。来たのか」


 紅い唇が弧を描く。薫は、金瞳きんとうのまま両掌りょうてのひらを打ち合わせ、開く。

 開いた手のひらには、白い短冊が――呪符じゅふがあった。


 薫が呪符を空中に投げた刹那、ヴィクトリア調の室内に、忽然こつぜんと闇が出現する。

 目を凝らすと、闇の中には鉄格子が見える。

 そして、鉄格子の向こうに長身の人影があった。


 金瞳のまま、薫は恍惚こうこつと微笑んだ。

「会いたかったよ、静」



 鉄格子の向こうの漆黒の軍服姿に、薫は微笑んだ。


「さっきはごめんねえ。でも、さすがだよね。呪力を封じているのに、明王金縛みょうおうきんばくの呪符を自力で解呪するなんてさ」

明王呪法みょうおうじゅほうは俺の得意分野だ。呪力が封じられていても真言マントラを瞑想すれば解呪はできる。そんなこと、おまえだってわかっていたはずだ。そんなことより」


 静は周囲に目を走らせる。


「雛子はどこだ」

「それがさあ、困ったことに雛子ちゃん、闇灯籠に吸いこまれちゃったんだよねえ」

「なんだと?!」

「そんなに怒らないでよ。僕だってびっくりしたんだから」

「ふざけるな! 雛子を元の世界に帰せ!」


 静の剣幕にも、薫は飄々ひょうひょうと肩をすくめる。


「彼女は、深く堅牢な闇を抱えている。だから妖火に魅入られたんだ。静だって気付いていただろ。それって、僕らにどうこうできることじゃないんじゃなーい?」


 静は、呪刀に手をかけた。


「おまえは、いつもそうだったな。軽口を叩き、本音を言わない。何を考えているのか、何が目的なのかわからない。俺は、皆の前から姿を消しても、おまえのことだけは見守るべきだった。おまえが禁忌きんきを破り、妖の肉を喰う前に止めてやるべきだった」

「……ぷふっ、あははっ」


 薫は肩を震わせて笑う。静は黙ってそれを見ていた。


「はあ、本当に静って、無自覚だよねえ」


 言われていることの意味がわからず、静は眉をひそめる。薫は可笑しくてたまらない、といった様子で額に手をあてた。


「君はとんでもなく無自覚で、残酷なんだ。すべてを手にしているのに、それに気付かない。多くの者の運命を左右する鍵を握っているのに、それを簡単に投げ出して涼しい顔をしているんだ」


 薫の顔から、す、と笑いが消えた。


「僕が妖の肉を喰ったのは、君になりたかったからだよ、静」

「何を――」

「僕は君と同じ、妖になりたかった」


 妖、という言葉に静は凍り付く。


「知っていたのか」

 薫は肩をすくめただけで答えない。

「あの夜、あの妖屋敷にいた大妖――白妖孤びゃくようこは、君の母上だろう?」

 静は目をみはった。

「なぜ、それを」

「君があの夜、失踪した後で、君の父上――弥勒院玄奘みろくいんげんじょう大佐に聞き出したんだ」

「父が?」


 あの父が、と静は思う。すべてを一人で背負いこんでいわおのように動かない父が、他家の者に内々の事情を話すとは。


「大佐は血眼ちまなこになって君を探していた。君の失踪は職務放棄、明らかな軍律違反だったから、弥勒院大佐は表立って君を探せなかった。だから僕がこっそり、申し出たんだ。誰にも言わずに君を探す代わりに、あの妖屋敷に何がいたのかを教えてほしいってね。大佐はずいぶん迷われていたけど、結局教えてくれたよ。弥勒院家を君に継がせることが大佐の悲願だったようだから」


 静が失踪して後、風の噂では、弥勒院家は五術師家筆頭の地位を保ったが、その後他家より秀でた呪力を持つ術者が輩出されず、衰退したと聞いた。

 父が家存続のためになりふり構わなかったのなら、静の親友とみなされていた薫の交渉に応じたのは頷ける。


「僕は大佐からすべてを聞いた後で、やっぱり君はすごい、とても僕はかなわない、という思いと、やっぱり君は残酷なペテン師だ、という思いに引き裂かれた。僕は常に、君への憧憬どうけいと嫉妬に苛まれていて、それは真実を知った後でも変わらなかった」

「おまえだって周囲から羨望される身だっただろう。京極家の嫡男、優秀で、眉目秀麗、呪力も高い。俺を羨む必要などどこにもない」

「ちがうよ、静。違う。君という存在は他の誰とも違うんだ。特別なんだよ。ほんとうにどこまでも無自覚だなあ、君は」


 薫は大きく首を振って、悲しげに笑んだ。


「焼き焦がれるような君への憧憬と嫉妬に苛まれた僕は、だから大佐にお願いしたんだ。僕に妖の肉を喰わせてほしい、とね」

「……父上が、おまえに妖の肉を喰うことを許可したのか」

「大佐を恨まないでよ、静。あの頃大佐は、第一次世界大戦での呪力攻撃投入のことでいろいろ大変で、だからこそ君が見つかることに一縷いちるの望みを賭けていたんだ。話が通じている僕が半妖になって妖火に感応できれば、おそらく君が母上から受け継いだであろう《最後の妖火》も見つかると判断したんだろう。でも残念ながら、君が巧みに結界を張ったおかげで、僕は妖火を感知できなかったし、戦争や関東大震災のごたごたで、君が君んちのあの別荘を隠れ蓑にしてるなんて思いつきもしなかった。君はさすがだよ、静」


 薫のまとう空気が変わった。それが何を意味するのか、呪力を封じられていてもわかる。呪力を操れなくても、呪力の流れは感知できる。

 薫は身体の底から絞り出すように、呪力を引き出しているのだ。

(そうしなくては、薫は――)


「僕はやっと君と同じになれた。だから僕は、内側から腐っていく五術師家を戦後、宗教団体として残したんだよ。君を探していたからだ。戦争なんかやりたがるヒトとは関わらずに、静と僕だけで《最後の妖火》を守って永遠に生きたいと思ったんだ」


 静は呪刀を抜きざま、鉄格子をいだ。

 鉄格子は音も無く崩れ、黒い砂となって霧散した。


 どこからか、風が吹いている。

 頬をなでるような微かな風なのに、なぜかその風に背中を押されている気がする。

 静はゆっくり薫に近付いた。


「妖を狩って喰うおまえは《最後の妖火》の《守り人》にはなれない」

「どんなことにも犠牲は必要だろ? 何か小さなものが犠牲になって、多くが救われる例は世の中ザラにある。妖一匹が喰われて、僕が生きながらえて、君と一緒に《最後の妖火》を守れたら、そっちの方が有意義じゃない?」


 一拍の沈黙の後。


「……きっと、母が半妖の俺に託したかったことは、ヒトと妖双方の立場を考えろということだと思う。俺は今まで、闇にとらわれてそのことに気付かなかった。いや、目を逸らしてきた。百年経って、そのことにやっと気付いた」

「百年も気付かないなんて、やっぱ静は鈍感だねえ」


 微笑む薫に、静は呪刀を向けた。


「妖火があれば、妖は荒魂あらみたま和魂にぎみたまに変えられる。そうすればヒトの世に害をなすことはない。ヒトと妖は共存できる。だから、妖火を脅かすものは何人たりとも許すわけにいかない」

「あれ? 僕に勝てるの? 呪力を封じられているのに?」


 茶化すように言う薫を、静は黙って見つめる。


「おまえ、もう限界なんだろう」

 笑い含みの薫の表情が、固まった。

「なに言って――」

「最初から、変だと思っていた」



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