〇第三十四話 やさぐれシンデレラの闇の正体


 金色に輝くそれは、社から持ち去られた闇灯籠だ。


「闇灯籠の中に雛子ちゃんの左手を入れるだけでいい。そうすれば妖火は勝手に戻って、君は死なずにすむ」


 京極薫は金細工の傘を取ると、雛子の前に差し出した。


「…………!」

 中をのぞいて、思わず身を引いた。


 闇だったからだ。


 灯籠の外側には、工芸品らしい細かな透かし彫りが入っている。

 それなのに、内側は真っ暗なのだ。

 中がどうなっているのか、底さえも見えない闇。ブラックホールというものを間近で見れるとしたらこういうものかもしれない、と思うような、気味の悪い吸引力のある闇。


 額にじっとりと汗がにじむ。暗闇が怖くて、身体が震える。

 それなのに、ふう、と磁石に引かれるように、左手が灯籠へ近づく。

 今にも左手が灯籠に吸いこまれそうになったとき、雛子は反射的に左手を抱え込んだ。

(ダメ! 静さんに妖火を返すんだから!)


 雛子の様子をじいっと見ていた薫が、テーブル越しに身を乘りだした。


「あれ? なんで? なんでやめちゃうの? 手を入れるだけだよ」

 不思議な色の双瞳が雛子の顔に近付く。雛子は顔を逸らせるように首を横に振った。すぐ近くにある端麗な顔をちらと見る。

(やっぱりこの人からは、邪悪な感じがする。よくわからないけど、この人の言うことを聞いちゃダメだ)


 吸いこまれそうな瞳から目を逸らす。雛子の考えを見透かしたように京極薫が笑った。

「僕って、そんなに悪そう? でもさあ、このままだと、雛子ちゃんは死んじゃうよ? なんか、けっこう透けてきてるじゃん?」


 雛子はハッと自分の身体を確認する。

「右手にも蝕化しょくかが……!」


 左手の時と同じように、右手首の先が発光している。よく見ると、それは現在進行形で、熾火がじりじりと紙を燃やすように、ひじまで迫っていた。

「嘘……どうしよう」

「ね? やばいでしょ? 静から聞いてると思うけど、その蝕化が全身に及ぶと雛子ちゃん死んじゃうんだよね」


 京極薫は本当に困ったように眉をよせ、頬杖をつく。


「僕もけっこう、ヤバいしさ」

 そう言って笑った京極薫の顔が、ずる、と動いた。

「え……」

 雛子は目の前の光景に、凍り付いたように動けなくなった。


 京極薫の綺麗な頬の肉が、動いた手と一緒に動いて、血が白い手に滴っている。ピンク色の肉と赤い筋肉組織と骨が、まだらに見えている。


「ね。ヤバいでしょ?」

 にたあ、と笑った顔は美しいのに醜い。京極薫は闇灯籠を抱えて立ち上がった。

「こ、来ないでっ……」


 血の滴らせ、京極薫は雛子の傍に膝をつき、左手をつかんだ。

「!」

 美しい顔の中、カラーコンタクトをしているような色素の薄い、金色に見える双眸が雛子を穴のあくほど覗きこむ。


「ひとつ、教えてあげよう。君に呪術が効かないのは、妖火ようかのせいじゃない。君が闇を抱えているからだ」


 血まみれの顔で、京極薫はぞっとするほど美しく微笑む。


「見えるよ、君の中の闇が。すごーく深くて、すごーく暗い。完全にともしびが消えてしまっている」


 それは式神の家で一つ目小僧に言われたことと同じだが、京極薫に言われると胸を抉られるような、その先を聞きたくない恐怖が雛子を襲う。


 暴かれたくないことを暴かれる――そういう恐怖が。


「……やめてっ」

「君の心には、ともしびがない」

「やめてってば!」

「空っぽの闇なんだ。そして、その完全にともしびの消えた闇を、君は必死で守っている」

「お願いやめて!」

「だからだよ。だから妖火は君に宿った。君はとても強固な器だ。だから妖火は君を選んだ。君は、まるで闇そのものだから――」

「やめてっ!!」


――同じだ。叔母の闇呪文と。


 ずっと押し込めてきたものを引きずり出そうとする呪いの言葉。

 記憶の底に押し込めてきたもの。それを引きずり出して突き付け、苦しませて脅し、雛子を操ろうとする呪いの言葉、闇呪文。


 京極薫は、叔母と同じことをしようとしている――。


 雛子はソファから立ち上がろうとした。しかし京極薫の手は雛子の左手をつかんだまま離さない。


「いやっ、放して!!」

 血まみれの手が雛子の右手をもつかむ。京極薫が笑った。ほっそりした体形からは想像もつかない腕力で、雛子の左手を闇灯籠に近付ける。


「妖火に魅入られた化け物だ、君は」

 雛子の悲鳴は、闇灯籠に吸いこまれた。





 どこかで、風が吹いている。

 頬のなでるその風に、雛子はおそるおそる目を開けた。


「ここは……」


 雛子は周囲を見回し、戦慄する。

 

 夕暮れの暗い西日の差す、小さなリビング。

 ダイニングテーブルには、幼い自分が描いた絵に、「おたんじょうび おめでとう」の文字のある画用紙。

 ハンバーグの匂いのする部屋。

 そして目の前に、キッチンをのぞく、幼い頃の自分がいた。


 ここは、いつも夢に見るあの光景の中だ。


(ここから先は、夢で見たことない)


 そう、いつも夢はここで終わった。

 キッチンをのぞいた自分が何を見たのか、雛子はずっとそれが知りたくて、でも知りたくなかった。

 夢はここで終わる。雛子がこの先を知りたくないからだ。

 その「知りたくないこと」を、叔母の闇呪文は引きずり出しそうになる。


 だから、雛子は叔母の言うことを聞き続けた。闇呪文を囁かれて「知りたくないこと」を引きずり出されないように。


「あ……!」


 目の前の幼い自分は、止める間もなくキッチンをのぞいた。

 その瞬間、幼い目に映ったものが雛子の目に飛び込んでくる。



――キッチンに横たわっていたのは、母だった。


「お母さん?」 


 返事はない。


 七歳の雛子が、横たわる母に近付く。一歩。また一歩。

 その動きに糸を引かれるように、自分の意思とは反対に雛子の身体もキッチンのへと入っていく。


 キッチンの床に横たわる、母の身体。

 白いブラウスにグレーのスーツスカートに、エプロン。仕事から帰ってきて、そのままキッチンに立つ、いつもの母の姿。

 雛子は、闇に浮かび上がる母の白い顔を覗きこんだ。

 目を固く閉じた、眠っているような白い顔。


「あ……」


 それを見た瞬間、雛子にはすべてがわかった。

 すべてが奔流となって、雛子の中へ流れこんできた。


 母はもう、この世界にはいないのだと。


 自分は、ひとりぼっちになってしまったのだと。



「わかってた……」



 あふれ出した思いが、大きなしずくとなって頬を伝う。

「もうとっくに、わかってた……!」

 だから、知りたくなかった。思い出したくなかった。


 母は、この世のどこにも、もういない。

 世界は完全な闇になったのだと。

 雛子の中のともしびが、完全に消えたのだと。


「わかってたのに」

 わかっていて、雛子はその事実に、背を向けた。

 背を向け続けて、一人闇の中にうずくまった。叔母からの過酷な仕打ちに耐えることを理由に、膝を抱え顔を埋めて。

 本当に、見なくてはならないものをに、背を向けて。


「ふ……ぅ……」

 ふいに、雛子の中から大きな声が吹き出した。

 それは止めようもなく雛子の内側から流れていく。

 母と過ごした日々や、母の静かな死に顔と一緒に、言葉ではない音を発して雛子の中からほとばしる。


 真っ暗で、ここがどこだかもわからなくなるような闇。その闇の中で雛子は大声を上げて、泣いた。



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