風の章 ~その風は闇を祓い、詠う

〇第三十話 呪術師は旧友と再会する



――あれは、玄関。


 雛子と母が並んで座ったらそれだけでいっぱいになってしまう。靴磨きクリームの匂いと、日向ひなたの泥の匂いが混ざった、懐かしい玄関。


 夢の中の玄関には、黒いハイヒールが揃えてある。それは母が帰宅している証だ。

 雛子はうれしくて急いで靴を脱いで家に上がる。


 そして、立ち止まる。


 母は帰っているはずなのに、家の中がひどく暗いことに違和感を覚えるからだ。


「お母さん?」


 雛子は短い廊下を抜け、リビングへと続く暖簾のれんをくぐった――



《……め。乙女!》



 揺さぶられて意識が戻ってくる。もふもふの毛が雛子の顔をくすぐった。

「ん……?」

 ハチミツ色の目に覗きこまれ、雛子は勢いよく起き上がる。


「……クロ?!」

《どうしたのだ、うなされていたぞ》

「うん……」


 あれは、いつも見る夢。繰り返し見る夢だ。でも。

 そのたびに、ある可能性が雛子のどこかから触手を伸ばし、耳の奥でささやく。

 本当は、あの光景を、あたしは知っているよね?と。


《だいじょうぶか?》

「うん、なんでもないよ。それより、クロが無事でよかった」


 首筋に抱きついて漆黒の毛並みを撫でた。クロは嬉しそうにごろごろと喉を鳴らす。

「闇灯籠は?」

《ここには無いが、闇灯籠の行き先はわかったぞ》

「ほんとう?」

《すぐに一緒に行こう》

「じゃあ、静さんも――」

《静は……一緒には来ない》

「え、どうして?」

《そ、それは……》

 そういえば、と雛子は顔が熱くなると同時に気が付く。

 静がいない。雛子のことを抱いて寝ていたはずなのに。


「静は、動けないから一緒には行けないんだ」


 背後からの声に、雛子は驚いて振り返る。


「静さん!」

 静は先ほどと同じ姿勢で座っていた。しかし、よく見ると小刻みに震えている。


「ひ……なっ……」

 声を出そうとしても出せず、動こうとしても動けないようだ。


「ごめんねえ、静。久しぶりに会ったのに、明王金縛術みょうおうきんばくじゅつなんかかけちゃって」

 静の首に、後ろから腕をからめた青年が言った。


 一つに結った髪も、笑う双眸を縁取る長い睫毛も、偏光パールをあしらったような銀色。女性かと見間違えるような繊細に整った顔立ち。不思議な色彩の双瞳そうとう。細い長身にダークグレーのスーツ。

 静とはまた違った、優美で華麗な容姿。


 なのに、雛子はその姿を見た瞬間、震えた。身体の芯から滲む恐怖に震えた。


 なにかとてつもなく邪悪なものを前にしたときの、人間の本能からくる震えだ。


 この青年を静から引き離さなくては――そう思うのに、身体が固まったように動かない。青年が、ゆっくりと雛子に近付いてくる


「ああ、甘美だ。これが妖火の鎮めの力なんだねえ」

 青年はうっとりと目を細め、雛子の左手を手に取った。

「あなた……誰?」

 手を引くこともできず、震える声で問えば、青年はにこっと無邪気に笑った。

「僕? 僕は京極薫っていうんだ。静の友だちだよ」

「友だち……?」


 雛子は、先刻の会話を思い出す。静が言っていたことを。

 唯一の友は、道を誤ったと。


「五術師教の教祖、って言えば、雛子ちゃんにもわかるかな」

 雛子は、息を呑む。

「あなたが……」


 妖の肉を喰らうという、五術師教の教祖。


「な、なんであたしのことを」

「知ってるよ。だってずっと見てたし。僕は遠くが見える呪術が使えるんでね。ほら、こんな風に」

「っ!」

 雛子は息を呑んだ。京極薫の不思議な色の双眸が金色を帯びたかと思うと、瞳孔が幾重にもなって奇妙な渦を描いているのがはっきりと見える。

 そして、それは。

「静さんの、額の」

「さっすが、勘がいいねえ。そう、静の呪力を封じているのは僕の呪符さ。だから、静の視点を通して僕は君たちの行動が見えたってわけ。ほんと、静って世捨て人だから雛子ちゃん困ったでしょー。おまけに静って自分がイケメンだってことに無自覚だし実はけっこうぼんやりしてるから、SNSにも投稿されちゃってたし」

「…………」


 こんなにも邪悪なものを感じるのに、人当たりの良い京極薫に、雛子は戸惑う。

 そんな雛子に妖艶に微笑みつつ、京極薫は静の隣に座ると、長い指で静の顔をなぞった。

「この世のものとは思えない、端整で精悍な稜線、完璧に作られた目鼻立ち。この紺碧の双眸がまたそそるんだよねえ」


 静の頬にキスをするように、京極薫は顔を近付けてささやく。


「……め……ろ……っ」

「君は昔から女性泣かせだったねえ。たった一人の女性を除いて、君の心をつなぎとめられた女性はいなかったけどね」

「…………っ!」

 静は必死に抗う様子を見せるが、わずかに視線を動かせただけで、座ったままの姿勢から一ミリも動けない。


「てことで、雛子ちゃんのことも泣かしちゃう前に僕が連れていくねー」


 あっけらかんと言った京極薫は、立ち上がった。雛子は後じさる。


(また足手まといになるのは嫌だ!)


 何か戦えそうな武器は、と見回して、柔らかくモフモフしたものにぶつかる。

 クロが、足元から哀し気に雛子を見上げていた。


「クロ! お願い、静を動くようにしてあげて! それから武器になるような物があったら――」


《すまぬ、雛子》

 クロが項垂うなだれた。

「クロ……?」

 クロが悄然としている意味がわからず、雛子は立ちすくんだ。


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