〇第二十五話 京極薫の願い


 大きな革張りの椅子がくるりと反転し、京極薫は睫毛の長い双眸を軽く見開いた。

「あれえ? 君、一人で戻ってきたの? あのかわいい女子高生は?」


 式神使いは金色の灯籠を抱えたまま、執務卓の前で悄然と項垂れる。


「それが、その……弥勒院静をもう少しで仕留め、娘を連れていこうとしたときに邪魔が入りまして。申し訳ございませんっ」

 床に額をすりつけるようにして式神使いは頭を垂れる。その肩は何かを恐れるように慄いていた。

 そんな男を一瞥して、京極薫は絹糸のような髪を手で弄う。


「せっかく良い出来栄えの『はこ』を用意してやったのに。邪魔ってなにさ」

「そっ、それがっ……」

 式神使いは怒気で真っ赤になった顔を上げた。

「あの裏切り者の薄汚い猫鬼びょうきです! あ奴め、土壇場になって妖火を渡さなかったばかりか、二度までも邪魔を……! 次に会ったら八つ裂きにして教祖様の前に引き連れて参ります!」

 忠心の怒りをさらりと無視して、京極薫はつまらなそうに呟いた。


「君はさ、猫鬼がなんでずっと、静と一緒にいたか知ってる?」

「は……?」


 問われたことの意味がわからず、式神使いは口を開いたまま返答に詰まる。


「猫鬼はね、ずっと苦しんでいるんだ。静のことが『好き』と『憎い』の間でね。そんな猫鬼の裏切りは想定内だよ。むしろ使えないのは……そんな猫鬼の動きを読めなかった君じゃないかなぁ」


 執務卓の上で両手に顎を乗せ、式神使いを見る青年は、妖艶な笑みを浮かべる。獲物をなぶる大蛇のような。


「も、申し訳ございません! ですが、猫鬼を仕留められなかったのは弥勒院静が――」

「僕、言い訳する奴って嫌いなんだよねえ」


 京極薫が立ち上がった。

 手にはいつの間にか、何かの文字や印が複雑に描かれた白い短冊を持っている。


 部屋の空気が、ぐにゃり、と揺れた。


「お、お許しを! 教祖様! わたしは五術師家の最後の生き残り、それを排除しては――」

「保身を測る奴も嫌い」


 青年が手のひらを大きく胸の前で打ち合わせた。

 ぱん、と部屋を真っ二つに割るような大きな音が響く。


 ややあって、青年の両手の平の間から、白い短冊がひらひらと舞い落ちる。

 その白い短冊は、床にできた血溜まりに落ちて、真っ赤に染まった。


「ぐ、ぐぅ……」

 式神使いは、床に倒れていた。何かに押しつぶされたように身体全体がひしゃげており、脳漿や内臓が飛び出し、原形を留めていない。


「そ、そうやって、貴方あなたは意に染まない者たちを簡単に殺し、五術師家を滅ぼしたのだ……!」 

 絶え絶えの息の下の呟きに、青年は高らかに笑った。

「そうさ、おまえの言う通り。五術師家の者たちを殺していったのは僕だ」


 さも愉快そうに京極薫は肩をすくめた。


「太平洋戦争下においての呪術作戦の失敗の言い訳。戦後の保身を測った宗教団体の設立。五術師家は、過去の栄光にすがった悪あがき集団に成り果てたんだ。だから殲滅した。だって、能無しはいらないだろう?」


 大量の血の海の中で潰れた式神使いは、返事をしない。白目を剥いたその双眸は、もはや動くことはなかった。


「あーあ、死んだか。これで五術師家ゆかりの者は、僕一人。いや……静――君がいる」


 綺麗なピンク色の舌が、紅い唇を舐めた。

「あの頃も、今も、この先も、静と僕だけいれば、それでいい」


 青年は、式神使いの傍に転がった闇灯籠を拾い上げる。

 そして、立ち止まる。扉の外に現れた気配を感知し、手を上げる。扉がひとりでに開いた。


 そこには、黒い豹のような妖――クロがいた。


「……静たちの様子はどう?」

《あんたが術を施したあの家にいる。もっとも、あの家はもうただの住宅に戻っているが》

「ふうん、若い男女がこんな夜に二人キリなんて、なんかいやらしいなあ」


 青年は緊張感に欠ける調子で言うが、猫鬼は切羽詰まったようにえた。


《約束は守ってくれるんだろうな? 妖火を外したら、乙女は無事に帰してくれ!》

「だいじょうぶ。君と取引をした最初から、言ってるでしょ。僕の目的は妖火だ。無用な殺生せっしょうはしない」

《……あまり説得力がないな》


 床の血溜まりで絶命している式神使いを見て、クロは首を振る。


《仲間を殺すような奴が、約束を守れるのか》

「しつこいなあ。僕は妖火さえ手に入ればいいんだ。あと、静もね。君があの女子高生を使って静もおびき寄せてくれるなら、あの女子高生は無事に元の世界に帰してあげるって」

《ほんとうだな?》

「もちろん。約束するよ」

 傾国けいこくの美女のごとき麗貌が、妖艶に笑った。


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