〇第二十一話 その正体は
きゅ、きゅ、とスニーカーで廊下を踏む音が妙に響く。
(気付かれたらどうしよう)
妖たちが言っていた出口の「扉」とはどこにあるのだろう。
(これ以上進んだらリビングに突き当たっちゃうよ…)
脇にじっとりを汗がにじむ。雛子は、リビングをそっと覗いた。
テレビで夕方のワイドショーが流れている。ソファで従姉妹たちが制服姿のままスマホをいじっている。
叔母は、キッチンで調理をしている。いつもの夕方の風景――雛子がいないことを除いては。
ふいに、叔母がこちらを見た。隠れる間もなく、ばっちり視線が合ってしまった。
(怒鳴られる!)
思わず硬く目を閉じたが――叔母は何も言わない。
「あれ……?」
おそるおそるリビングの扉を開けた。中へ進む。従姉妹たちも叔母も、何も言わない。雛子と目が合っても反応しない。それはいつもの
(……見えてないんだ)
叔母たちには雛子が見えてないのだろう。
雛子が確信したとき、すぐ傍にいた従姉妹が言った。
「ねえママ。ジュースちょうだい」
「自分で取りなさい。今、火から離れられないの」
「もうっ、ケチ」
従姉妹はぶつぶつ言いながら冷蔵庫をのぞく。
「もーなんで今日は雛子いないの? 家畜のくせに使えなーい」
「ほんとよねえ、家畜なのに、なんでいないのかしら」
叔母が、野菜を刻みながら答える。
「夕飯の買い物をほったらかすなんて……二度とやらないように、お仕置きしないとねえ。言いつけは守らないといけないのにねえ。家畜なんだから」
だん、だん。
叔母はうつろな目で大根をぶつ切りにしている。
「どんなお仕置きするのー?」
叔母は顔を上げると従姉妹たちに微笑んだ。
「あなたたちも手伝ってね。あの子が帰ってきたら、そのままお風呂場に連れていくのよ」
お風呂場だってーと従妹たちははしゃいでいる。叔母はそれを見て、満足そうにほくそ笑んだ。
嗤いの響くリビングの真ん中で、雛子は立ちつくす。
――殺される。
戻ったら、きっと殺される。
叔母の殺意が無数の
長い年月のうちに、その棘は雛子を腐らせるだろう。お金を稼いでこの家に入れるだけの、生きる
(そんなの……いやだ)
震えが止まらなくなった。
死ぬのは怖くない。けれど、不条理に殺されるのはいやだ。
はっきりと、そう思った。いつのものように「しょうがないじゃん」と思えない。
震えは、恐怖ではなく、腹の底から湧き上がるもっと熱く激しいものだ。
(あたしは、ここで殺されるわけにはいかない)
母と約束した。猫を飼うと。
静と約束した。妖火を返すと。
前を向いて生きていくために。強くなるために。
約束を――叶えるために。
「……もう二度と、ここへは戻らない」
気が付くと、言葉がこぼれていた。
叔母がまな板から顔を上げた。うつろな顔に、驚愕の色が滲む。叔母の目に、確かに雛子が映った感触があった。
だから雛子は叔母を真っすぐ睨みつけ、大きな声で言った。
「あたしは! この家から! 出ていく!」
一語叫ぶたびに、肌に食い込んでいた棘がはじけ飛び、痛みが消えていく。
「口答エスルナ」
叔母は凄まじい形相で叫んだ。気が付けばその顔は鬼になっていた。角が生え、口は耳まで裂け、血走った赤い目がらんらんと雛子を見据えている。
叔母は持っていた包丁を手にキッチンから出てきた。
「「口答エスルナ」」
耳障りな高音を振り返れば、近くにいた従姉妹たちも鬼に変じている。二人は雛子につかみかかってきた。
「やめて!」
咄嗟に身をよじり手を振り回す。その手が、従姉妹たちの顔や頭部に当たった。
「あ……」
小さい頃、従姉妹たちに手足が少しでも当たっただけで、その何十倍も叔母に
その従姉妹たちを強打した手の感触に、雛子は長年の習慣から凍り付いたように立ちすくんでしまう。従妹たちの長い爪が雛子を捕えた。
「「膝マヅケ」」
髪の毛をつかまれ床に引き倒される。鬼に変じた従姉妹たちの爪が腕に深く食いこんで血がにじむ。
押さえつけられ、頭を床に打ち付けられ視界に火花が散った。
――ちがう。
雛子の中で何かが爆発し、
――目の前にいるのは、ガラス細工なんかじゃない!
「うわあああああ!!」
雛子は思いきり従姉妹たちの身体を押しのけた。
急な反撃に従姉妹たちはよろめいた隙に立ち上がり、リュックを振り回した。教科書や筆記用具、水筒などが入っているリュックが従姉妹たちを多方向から殴打する。
しかし二方向から伸びてくる魔手がじりじりと雛子を追い詰めた。
「!」
ふいに後ろから髪の毛をつかまれ、バランスを崩した。
叔母だ、と思った次の瞬間、熱く痺れる痛みが頬を打ち、床に倒れた雛子の上に叔母が馬乗りになった。
叔母は包丁を雛子の上に振り上げる。
その背後から従姉妹たちが雛子を指さして哄笑している。
「あたしはこの家から出ていく!!」
げらげらと響く哄笑の中、包丁が振り下ろされる。
雛子は抵抗して腕を突き出した。
――刹那。
手袋の五芒星が光の筋となって浮かび上がった。その光は炎となり、一瞬で手袋を燃やした。
「!」
しかし、手はまったく熱くも痛くもない。炎に舐められるように燃えて消えゆく手袋の下から、薄羽のように透き通った雛子の左手が現れる。
同時に、凄まじい悲鳴が上がり、叔母が身をのけぞらせて床に転がった。そのすきに雛子は素早く立ち上がった。
見れば、叔母や従姉妹たちの動きは静止映像のようにぴたりと止まっている。そして、叔母たちの身に起きている変化に雛子は目を大きくした。
「溶けていく……」
それはまるで、あぶりだしのようだった。雛子の左手からあふれる閃光が鬼を溶かし、叔母と従姉妹たちの元の姿を浮かび上がらせていく。
「これが、妖火の力」
妖の本性を
それは、ヒトの心に巣くう
「叔母さんたちは、妖だったんだ」
雛子に対するこれまでの暴力や暴言を思い返す。
預けられたその日からちょっとしたことで手を上げられ、存在を否定する言葉を言われ続けた。
あの酷い仕打ちの数々は、人間ではなく、妖の仕業だったのだ。
それらが叔母に巣くっていた荒魂がさせていたことなのかは、わからない。
けれど、床に折り重なって倒れる叔母たちが、なんだか哀れになった。
「……叔母さんたちも、つらかったですね」
雛子が呟いた、その時。
リビングの景色に黒い線が入り、粉砕音が響いた。
ガラスが割れるように、叔母の家のリビングの風景が粉々に砕け散っていく。
砕けた風景が黒い砂となって宙を舞う。あのリビングも、キッチンも、滅多に見ることを許されなかったテレビも、一度も座ったことのないソファも、従姉妹たちも、叔母も。
雛子は黒い砂を振り払うように、腕で顔を隠した。
どれくらいそうしていただろうか。すべての音がやんで、顔を上げると、前方に薄暗い通路が現れていた。
ひんやりとした石造りの通路。窓がなく、奥は吸いこまれそうな漆黒の闇。
雛子が、もといた通路だった。
「「出口だ!」」
重なる子どもの声に振り返ると、大きな一つ目と赤い振袖が走ってきて、雛子の腰に抱きついた。
雛子も思わずしゃがんで、二匹を抱きしめる。
「よかった!無事だったんだね」
「「ありがとう」」
柔らかな声が耳元でささやく。雛子は胸がじんとして目頭が熱くなった。
「「行こう」」
小さな二つの手が、雛子の手を取った。
どこへ、と問う間もなく、二人に引かれて雛子は進む。左手が温かい。見れば、妖火は強く輝きを増していた。
掲げた浄化の光が照らすのは――闇の先にある鉄格子。
そして、その向こうには――見覚えのある長身のシルエットがあった。
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