〇第三話 異形は社より出でて人語をしゃべる


 坂をのぼりきった先は、四辻よつつじになっていた。


 坂の上は雛子も行ったことのない未知の土地。

 見たことのない家々の白壁が黄金色の夕陽に染まる。古い家の瓦屋根が夕陽を白く照り返し、川面のように見えた。

 それは、どこかで見たことのある異界の風景を思い起こさせた。

 黄泉の国へと続く、黄泉比良坂。現世と幽世の境であるというその場所に似ている。そんなはずはないとわかっているのに。

 自分が住んでいる土地でも、道が一本違うだけでこんな風景があるなんて――坂をかけ登って息が苦しい中、雛子ひなこはぼんやりそんなことを思った。


 坂をもうすぐで上りきろうという時、黄昏たそがれ色に染まったその四辻の角を、クロが左へ折れるのが見えた。


(くっそーっ、逃がすもんか!)


 続く雛子ひなこも角を左へ曲がり、クロが道のわきに飛び込んだところを見逃みのがさなかった。

 そこまで来て、雛子は立ち止まってしまった。

 脇腹を抑え、荒い息を整え、目の前に現れた予想外の物を見上げる。


鳥居とりいだ」


 覗けば、鳥居の向こうには薄暗い鎮守ちんじゅの森が広がる。クロの姿が鬱蒼うっそうとした木々の中に小さく消えていくのが見えた。

 人が一人通るようなはばの、小さな鳥居。

 その向こうに続く、先の景色がぼやける闇。

 思わず一歩、後ろへ下がる。じっとりと手に汗をかいているのは、走ってきたからではなかった。


 雛子は暗闇が苦手なのだ。

 暗所恐怖症あんしょきょうふしょうというやつだ。


 暗闇にずっといると呼吸が荒くなり、心拍数が上がる。汗がふきだす。ひどくなると、パニックを起こしてしまう。


面倒めんどうな子。姉さんも仕事ばっかりして、自分の子のしつけもロクにしてなかったのねえ』

 雛子が暗い場所でパニックを起こすたびに、叔母は母を悪く言った。

 だから雛子はパニックを起こさないように極力きょくりょく、暗い場所をけて生活した。叔母の前では大丈夫だいじょうぶなフリをよそおった。


 本当は今でも、足がすくんでしまうほど暗闇がこわい。


 できれば近寄りたくない。


 しかし、進路希望調査票は取り戻したかった。


 紙はただの紙きれだ。

 しかしあれは、今の雛子にとってはたった一つの明るいきざし。

 たとえもうかなわない夢とわかっていても、持っていたかった。


「……よし」


 雛子は顔を上げ、鳥居をくぐった。


 す、と冷気れいき身体からだを包む。


「さむ……」


 半袖はんそでのセーラー服が涼しく感じる。鳥肌の立った腕をき、薄暗い参道さんどうを歩き出す。


「クロ! 出ておいでー!」


 黄昏時たそがれどきとはいえ夏至前げしまえのこの時期、まだ空に明るさは残っている。


 それなのに、進めば進むほど参道は暗い。


 鬱蒼と茂る木々の間からはまぶしい西日が差しこんでいる。それなのに、その光が不思議なことに参道に届いてこない。参道に沿って立派な石灯籠がぽつり、ぽつりと並んでいるが、灯りは入っていなかった。


「いやだな、ほんとに暗い……」


 わずかに呼吸が荒くなる。心拍数も上がっている。

 早くここから出なくちゃ――と思ったところで、前方にやしろが見えた。


「クロ、いるの?」


 雛子が白砂利しろじゃりを踏むたびに、じゃり、じゃり、と音が不自然に響く。


 誰もいない境内けいだいは、ひっそりと静まり返っている。薄闇の中、ぼうと浮かび上がるように建つ社だけがそこにあった。

 社は白木造しらきづくりで、小ぢんまりとしていた。賽銭箱さいせんばこく、その代わりに幅の広いきざはし石畳いしだたみの地面からやしろとびらに続いている。


 見ればその扉が、少し開いていた。


「クロ? いるの? 出てきて?」


 小さく呼びかけた。


 ややあって、床の軋む音と共がした。

 そして、ぬ、と黒い大きな足が、少し開いた社の扉から出てきた。


 雛子は息をみ、その場に固まった。


 するり、と扉をすり抜けてきた大きな獣。

 それはやみの一部のように黒々くろぐろとしていた。

 ひょうだ、と雛子はとっさに思った。が。


「ちがう、豹じゃない」


 雛子は目を凝らした。豹じゃない。

 尾は長く金色で、同じ金色のたてがみが背から頭頂部とうちょうぶまで続き、そのひたいには白く短い一角いっかくがある。そして、あごまで伸びた、長いきば


 豹に似て非なる動物――いや、異形いぎょうの生き物。


 それを確認した途端とたん、自分でも驚くほど大きな悲鳴がのどから飛び出した。

 えそうになる足を踏んばって方向転換、鳥居に向かって全力で走った。


(夢! これは夢だ!)


 買い物に行きたくないという自分が見せる、幻覚だ。

 雛子が必死でそう思おうとしている横から、くぐもった電子音のような声が雛子を制止した。


《待て! 待つのじゃ!》


(うそうそうそ!!しゃべってる!!そんなわけない!!ぜったい夢だから!!)


 もちろん雛子は待たずに走る。鳥居はすぐそこかと思いきや、ぽっかり見える黄昏たそがれ色の明かりはまだ先だ。知らないうちに参道を奥まで来てしまったらしい。


《待てと言うに!》


 異形は軽く跳躍ちょうやくすると雛子の行く手に立ちはだかった。


「ひっ……」


 行く手ををふさがれ、もどるわけにも行かず、雛子は参道の真ん中で立ち往生した。わけもなく幼い頃に聞いたわらべ歌が頭の中を回る。

 いきはよいよい、かえりはこわい――。


《怖がるな。何もせぬ》

 穏やかに見上げてくる、ハチミツ色の目。

 その目に、雛子はハッとした。


「も、もしかして……クロ……?」


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