第15話
無実を証明する突破口は、見つからなかった。真犯人は今頃、俺を嘲笑い、どこかで優雅に毎日の生活を楽しみ、娯楽やショッピングを満喫し、酒を飲み、女を抱いているだろう――と思うと、不条理に、気が遠くなった。
誰も面会に来てくれず、手紙も届かない日が続くと、不安が募り沈黙の恐怖が心を支配した。何者かの身代わりとして投獄されている自分に、どこにも出口が用意されていないのが閉塞感につながっていた。このまま無実が証明されなければ、死の暗がりが大きく広がり、すべてを飲み干しそうな戦慄を感じた。
死がすべてを包み込む闇だとしたら、生は日差しの中で明るく過ごすのが本来の望ましい有様ではないか――悔しいかな、俺の時間は、死の時間に似ていた。国の内外で、刑期を終えないまま獄死する囚人は少なからず存在し続けていた。見通しが利かない道路をヘッドライトなしで、いつまでも走行し続ける羽目になりそうな危うさを感じた。
夜になり、受刑者たちが寝静まり、刑務所が沈黙に包まれた時に、孤独が胸の内に押し寄せてきた。いったい何日にわたり、こんな夜を経験したのか――漠然と考えているうちに夜が明ける日もあった。
眠れない夜は、伊達と最後に会った日の光景が繰り返し、脳裏によみがえった。死んだ伊達の生気のない表情や、奥さんの絶望的にか細い声が聞こえ、一晩中にわたり同じシーンが繰り返された。独房の端に、佐々の亡霊が立ち「大友、お前だけが俺の無念を晴らせる。早く真相を究明してくれ」と、訴えかけてくる日もあった。
自分が失ったものの大きさに気づかされ、出口のない迷路の中をあてもなくさまよい歩いていた。刑期を終えるまで、長い年月が待ち構えていた。しかも、それは決して愉楽の時間などではなく、絶望の時間だった。
毎日、午後九時には消灯されたものの、刑務官が通路から房内を確認できるよう小さな蛍光灯が夜通し点いていたので、夜の暗闇の中にすべてが沈む日はなかった。薄暗い中で、何度か佐々の亡霊と対話した。恐れの感情はまったくなく、旧友と会えるのが待ち遠しくなった。
最後に、佐々の亡霊が現われた時は、俺に向かって「お前が、気を落としているのを見るのは辛い」と告げた。不思議にも、伊達の亡霊は一度も姿を現さなかった。あいつなら、佐々とは逆に「どうだ? たまには、頭を冷やすのもいいだろ? 俺は天才画家と呼ばれるお前が、鼻柱を折られてへこんでいるのが楽しいぐらいだ」とでも、悪態をつきそうな気がした。
亡霊との邂逅は、恐ろしくはなかった。むしろ、三人で枝豆をつまみ、ビールを飲みながら歓談した日が懐かしく思い出された。二人の対照的な友人が存命中は、俺の平衡感覚を維持するのに役立ち、長いスランプを経験せずにすんでいた気がした。 佐々に励まされ、伊達に負けじ魂に火をつけてもらっていたのをリアルに思い出した。
月日が経つにつれて、佐々と伊達という二人の友人はイメージが重なり合い、一つの人格として印象する――と心の中で、ぼんやりと予見していたが、現実にはそうはならず、二人の性格の違いがより一層、強く感じられていた。
毎日、絵の技量が落ちないように見たものをデッサンしてきたが、独創性のある絵が思いつかなくなっていた。娑婆に居て、画業を継続していたら、間違いなくスランプに直面していただろうと思うと、酷く落ち込んでいた。西山にすすめられた絶望をテーマにした絵も、今一つ構想が脳裏に浮かばなかった。
暗い気分と感情で同調し、二人の友人への鎮魂の思いを込めて、スケッチブックに亡霊の絵を描いた。鉛筆画のモノトーンの質感が、亡霊を亡霊らしく感じさせた。
俺には怨霊こそが創作の善意であり、世界や、人間や、社会システムこそが恐怖すべきものに思えた。亡霊が人を追いつめたり、苦しめたりするのは絵空事だが、人間の仕出かすのは常に現実の出来事だった。亡霊は、薄汚い糞尿とも、ボロ雑巾の放つ異臭とも、筋肉や浮き出た血管とも、無縁の存在だった。善霊の呪詛には、百合の花の香気が漂っている――と、信じていた。
※
独房にあるテレビをつけると――大友小六事件の警察の失態――と題して、議論が戦わされていた。番組には、評論家や犯罪心理学者、社会派作家が出演し、自説を開陳していた。
番組の最初の頃は、事件の解決までに時間がかかり二人の被害者を出したのは、警察の初動捜査での見落としが原因だ――という意見が交わされていた。が、時間が経過するに従って――画家の大友小六は、いかに残酷で狡猾な男か――と論点が変化し、俺が叩かれ始めた。
「あれだけの有名画家が起こした前代未聞の事件です。世の中への大きな影響は免れないでしょう」
「子どもたちへの悪影響も、計り知れないものがありますね。たとえば、大友小六の作品が何点も美術の教科書に載せられている」
「文部科学省の方針で、来年度以降は美術の教科書に大友小六の絵や彫刻を掲載しない方針が決まっています」
「それは良かった。当然の決断ですね」
「第一の――凶器なき殺人事件――が発生してすぐに、大友を逮捕しなかったのが第二の事件が発生した原因です。明らかに警察の失態と言っても良いです」
「大友小六事件は、数多くの教訓と、私たちが他人との関りで陥りがちな盲点を教えてくれました。事件を風化させず、語り継ぐのが私たちマスコミ関係者に課せられた使命と言っても言い過ぎではないでしょう」
「大友は……、犯人の大友は……、殺人犯の大友にとっては……」と出演者たちは、当然のように俺を呼び捨てにした。かつては「若き天才」と称賛され「大友先生」「大友画伯」と呼ばれていた俺が「悪魔のような男」として痛罵を浴びていた。
馬鹿馬鹿しくて言葉も出なかった。極め付きは、ベストセラー作家が言い放った言葉だった。作家は「この事件は、人間心理の面から見ても、非常に興味深い。私は事件を題材にして小説を執筆しています。早くも出版後の映画化のオファーも来ています。楽しみにしていてください」と、明るい表情で淡々と話していた。
テレビを見ながら大男に罵倒を浴び、顔面を殴られた忌まわしい光景が脳裏に何度も繰り返し蘇って来た。論客たちは、社会的制裁と名付けた大義を振りかざし、俺の人格を否定して追いつめようとしていた。
痛みには二種類ある。身体に生じる激痛と、心に残り続ける苦痛だ。俺が仮に、川の傍を歩いていて水の中に落ちてケガをしたとしよう。骨折や裂傷や、水を飲みこんだ痛みと不快感は酷いケースもあるだろう。
だが、俺は偶然に足を滑らせたのではなく、何者かの罠にかかり牢獄に閉じ込められ、外の世界の人間の無理解に苦しんでいた。それゆえ、理不尽な心の苦痛に責め苛まれていた。――世間――という、冷淡な怪物どもにとっては、俺は見世物小屋のいかにも惨めな道化師だった。
俺には、外野席で野球を観戦して論評するものの心理と大差なく思えた。――他人に期待しても仕方がない。信用できるのは限られた身内だけだ――と、再認識させられた。正直なところ、無責任論者の発言などはどうでも良い気がした。だが、残りの人生を刑務所の陰鬱な空間に閉ざされて過ごしたくはなかった。
有名画家には、ミレーやゴッホやゴーギャンのように生前は貧乏に苦しんだ者も多くいた。俺は金銭的には恵まれて、逮捕される前までは名声も得ていた。だが、塀の中にいては、自由に絵を描くのも難しかった。スケッチブックに描く鉛筆画では物足りなく感じていた。
※
綾香が調べたところ、伊達の日記帳は警察の証拠品保管所にあるのが突き止められた。俺は弁護士に面会に来てもらうよう、綾香を通じて頼んだ。弁護士は、綾香に対して「裁判の結果がでるまでは、弁護活動の一環として面会しますが、刑務所に面会に出向くケースはかなり稀です」と、断っていた。
だが、綾香が再三にわたり「兄の無実が証明できなかったのは、家に引きこもって絵の仕上げをしていたからです。私も同じ場所にいましたが、親族の証言は信憑性にかけると却下されました。兄と、私を信じてください」と懇願した結果、面会に応じてくれた。
裁判中は弁護士が、容疑を否認して検察官と丁々発止のやり取りを繰り返していたが、無実とするだけの合理的根拠に欠けるとして有罪の判決を受けていた。もっとも大きな要因が、証拠の質と量の不足だった。俺は、法廷での抗弁と反論の手続きを経て論理的帰結で刑務所に収監されている事実を思い出すたび、不条理に打ちのめされていた。
面会に来た弁護士は、証拠品は――証拠品事務規定――に基づき、保管されているので「閲覧できれば、冤罪の証明につなげられる可能性がある」と説明した。
綾香は、弁護士を通じて警察署に掛け合い、証拠品の保管所から伊達の日記帳を閲覧する許可をもらっていた。さらに、綾香は佐々の検視報告書や調査報告書にも目を通していた。
「資料を精査したら、伊達さんの報告書にも目を通すつもり。必ず、何か見落としがある。私が見つけ出すから、兄貴はそれまでの辛抱よ。何とかここまでたどり着けたから、あと少しの間だけ我慢してね」綾香はいつになく、優しい口調で俺の身を案じてくれた。
俺は悪あがきをやめて、綾香にすべてを任せるつもりでいた。刑務所でできるのは、気をもみ、失望し、涙を流す繰り返しだけだった。仏教でいう――諦観――とは、単に諦めるのではなく、悟って超然とした境地でいる心構えだ。俺は今まで「無実を証明したい」「早く釈放されたい」と、焦り続けて思惑にしがみついていた。
だが、望みを手放して、じっくりと腰を据えて待つのが肝要に思えた。神仏は、俺を見捨てたりしないだろう――と、達観する方向に心を切り替えた。若くして成功し、ある意味で傲岸不遜に他人を見下していた俺に、社会的偏見と苦悩を経験させる構えで、仏様は――弱者に対する優しい気持ち――を育んでくれたのか? 俺には、痛みを耐えるだけではなく、前向きに考える心構えこそが救いだった。
※
その日は、朝から晴れ渡っていた。――何かある――と、期待めいたものを感じていた。明るい見通しのきく世界に、希望に満ちた現実が展開する気がしていた。だが、目の前にある物も、周囲の人間も、実際には何も変化していなかった。予感は、現実ではなかった――と、諦めかけていた時に、面会室に呼び出された。
綾香は、面会室で俺と対面すると「やっと、兄貴の無実が証明できそうよ」と、声を弾ませた。
「本当か? 期待して良いな」嬉しさよりも、戸惑いを感じると、鳥肌が立った。
閉ざされた空間で孤独に暮らす俺の思考力や分析力は、外で自由に動ける綾香に比較すると、朦朧としていた。惨めな俺の状況と異なり、外の世界にいて自由に飛び回って来た綾香が、真相にたどり着いたのは不思議な気がしなかった。
綾香は「どうやって事件を解決したか、種明かしをしようか?」と、嬉しそうな表情をして俺を見ていた。緊張感の漂う空間にいて、お互いを騙したり、からかったりできる雰囲気は皆無だった。
黙って耳を澄ませた。面会室でのアクリル板越しの対面は、今まで水槽の中の金魚のような息苦しさを感じさせていた。が、今回は綾香が外の世界の新鮮な空気を存分に運んできていた。
綾香の報告を聞いているうちに、意識がたちどころに澄み渡るのを感じた。逮捕されて以来、もっとも希望に満ちた言葉だった。
「まず、第一の事件だけど……」綾香がホームズやポアロ並みの名探偵に思えた。綾香は、佐々の事件の凶器とされるナイフが、どこからも発見されなかった謎を解き明かした。
凶器のナイフは、伊達の家にある果物ナイフと同形だがルミノール反応は検出されていなかった。が、押収品の証拠品保管箱の中にプラスティック粘土が含まれていた。プラスティック粘土が保管箱に入れられた経緯は、見つかったのが果物ナイフの近くにあったのが理由だと、記録されていた。
綾香は、プラスティック粘土の性質を調べると、これを使って氷で作ったナイフを完成させていた。検視結果を再度調べると、犯罪が氷のナイフで行われた可能性は否定できなかった。だが、再審請求して無罪を勝ち取れるほどの説得力に欠けていた。
「しかし、氷のナイフを完成させても、すぐに溶けて使えなくなる。そこは、どうしていた?」単純素朴な問いを綾香に投げかけてみた。
「クーラー・ボックスを利用して、殺害現場に運び込んだのよ」
「通常の状態なら、クーラー・ボックスに入れても氷は溶けるだろ?」
「犯人はクーラー・ボックスに大量のドライ・アイスを入れて、持ち運んだのよ。私も実験したから間違いない」
「なるほど」
「それに、殺害現場付近では、当日に大量のやぶ蚊が押し寄せて、ボウフラが湧いていたのが記録されていた」
「どういう関係がある?」
「兄貴は理科が苦手だったかな?」
「勿体ぶるな」
「つまり、ドライ・アイスは溶けると、二酸化炭素になる。それに、やぶ蚊は二酸化炭素を感知して集まってくる。だから、当然の帰結として犯人が事件後に、周囲にドライ・アイスを廃棄したのが分かるの」
「見事な推理だ」
綾香は――氷のナイフを作ると、実験のために柄の部分にタオルを巻き付け、枕を突き刺した――と、徹底ぶりを説明した。
日記が見つからなければ、伊達の完全犯罪は成立していた。俺には、騙しからくりがばれる可能性がありながらも、伊達が日記を几帳面につけていた理由が判然としなかった。単に佐々の事件で自分に嫌疑がかからないとタカを括っていたとは、容易には信じられなかった。しかも、日記帳は伊達の事件後に、当局に没収されていた。
証拠品は、本来なら返却される。だが、日記帳が証拠品保管箱に存在したのは、没収しておくと事件解決のヒントになると考えながらも、見落としをしていた事実を物語っていた。
「要するに……」綾香が語調を強めて言うと、同じタイミングで斜め後ろの席の刑務官が、咳払いをした。
「佐々元親殺しの犯人は、伊達一志しか考えられない」
「動機は何だろう?」
「日記を読んでみたら、それらしい内容が書かれていたわ」
「今の俺には、心の準備が必要だな」
綾香は、日記の記述内容を要領よく、俺に説明してくれた。
伊達の五〇冊の日記帳は同じ日付のものが二種類あった。青い表紙のノートには、俺たちの友情の記録があり、赤い表紙のノートには、子どもの頃の動物虐待や、おぞましい願望が綴られており、事件当日の日記には、英語で――Kill with an ice knife.――と、記されていた。伊達は佐々の事件の際に、捜査官に日記の内容を確認されたときに平然と「小説創作のための資料です」と答えていた。日記は伊達の死ぬ日まで、手元にあったのか、最後の日付で――Suicide――と記されていたのを見つけぞっとした。Suicideとは、日本語で自殺を意味していた。
警察は、表の顔を記した青いノートを読み、邪悪な裏の顔を記した赤いノートを丹念に調べなかったのが盲点になったと、俺は思った。
綾香の話によると――伊達は、幼少期に左手にケガしたのを酷く悔やみ、俺に対して怨嗟的な感情を抱き続けていた――との話だ。
「伊達が俺を憎んでいたのなら、何故俺ではなくて、佐々を殺したんだろう? 理解できないな」
「それを今、説明しようと思っていたの。慌てずに聞いてね」
「実は、伊達は佐々さんに『お前の指は、エビみたいにひん曲がっているから、スポーツはできないだろう。でも、気にするほどの話ではない。俺だって、度近眼だし、誰でも何か体や心に傷を負っている。まだ、ましな方だ』と慰められて以来、彼を逆恨みしていたのよ」
「ケガをさせたのは、俺なのに、そう思っていたのか? それに、佐々の思いやりを誤解している。憎むのは筋違いだ。本当の話なのか?」
「日記を読むと、どうもそうみたい。佐々さんが、露骨な宥め方をしたのを憎らしく感じていたのが分かる」
俺は伊達にケガをさせてから、ひたすら「ごめんな」とだけ謝り続け、少なくとも指の形状や不具合を何かに例えたりしなかった。伊達が佐々の思いやりの気持ちを逆恨みし、彼を殺す原因を自分がつくっていた事実に、愕然とした。俺は、人間の心の闇の深さに、初めて向き合っていた。しかし、皮肉にも伊達の悪事を立証できないと、自分を救えない状況に置かれていた。
「伊達はリアリストで、合理主義者だと考えていたが、妄想に囚われていたとは……、俺には信じられないよ。それに、子どもの頃のいざこざだけで、人を殺して自殺する強い動機になるとは思えない」
「それが、もっと複雑な理由があったのよ」
伊達の自殺の動機は、経営する工務店が多額の借金を抱えていたので、奥さんに保険金を残すのが目的だった――と、綾香は推理した。
死因は、ヒ素中毒だったが、伊達が経営する工務店ではシロアリ退治にヒ素を用いていたので容易に入手できた。
綾香の説明では、――伊達はサイコパスでありながらも、自分の殺人願望に脅威を感じ、邪悪な思惑を封じ込めようとして必死になっていた――という。
「アメリカのマーダー・ケースブックに、殺人願望を止められなかった男が、連続殺人の後に自殺したケースがあった。ただし、伊達一志の場合は、唯一心から愛せた奥さんだけは、悲しませたくはなかったのね」
「伊達は、ボランティア活動に積極的な男だった。弱いものには優しく接し、男らしく振舞える人間だと、俺は考えていた」
「マーダー・ケースには、社会参加に積極的で周囲から信頼されていた殺人犯のケースも紹介されている。そういう行動が、目くらましになるのね」
「微妙だな。俺には、理解が難しい」
「兄貴は、正常な感覚の持ち主だからそう感じるのよ」
「伊達は自殺をどうやって、他殺に見せかけたんだ?」
「犯人のトリックよ。原理は実に簡単だけどね」
「しかし、死んだ伊達にどうしてそんな無茶ができる? それに、奥さんは警察に……、俺を追いかけて家に出て、振り返り二階を見たら人影が見えて、誰かの声がしたと言っていただろう?」
「死ぬ前に、カーテンを人型に似せて、水で湿らせていたと思う。家の外から見た奥さんは、それを誰か侵入者がいると誤認したのね」
「声はどうなる? それもトリックなのか?」
「それは、ラジオにタイマーをセットしていたのね」
「本当にそんな仕掛けが可能なのか?」
「つまり、兄貴が奥さんに呼ばれて、部屋に戻ったときは、カーテンが乾燥していた。奥さんも、気が動転していると、人影が濡れたカーテンだとは気が付かなかったの。それが、犯人の伊達一志の狙いだったというわけ」
俺は部屋の場景を子細に思い浮かべてみた。すると、伊達の部屋の中に観葉植物があり、近くに霧吹きが置かれていたのを思い出した。簡単なトリックだったものの、疑いもしない者には盲点になっていた。
「犯人の伊達は、カーテンが乾く時間を計算で割り出していたと思う」
「本当にそうか? 確信が持てるのか? 俺には、そこまで計画的に、伊達がやっていたとは思えない。伊達は、あくまでも直情的で、単純素朴な男だと思っていた」
「兄貴が思う以上に、伊達という男は頭が良かったと思う。ただし、伊達は世を拗ねて、何事も斜に構えて見ていたのね」
俺は、綾香の見事な推理を褒めたかったものの、反面では伊達に対するイメージが崩れ去り、複雑な心境になっていた。
「しかし、伊達は何故部屋に俺たちの他に誰かいたかのような小細工をしたんだろう? 俺に罪を被せるのが目的なら、そんな無駄はしないだろ?」
「自殺と見抜かれないように、奥さんや兄貴を利用したのよ」
「そこまでは、気づかなかった」
「ある意味、伊達は屈折していたのね」
「ケガの後遺症が原因だとしたら、俺にも責任がある。しかし、執念深い男だな。人を殺すなんて考えられない」
綾香は「障害者の中には、ヘレン・ケラーのように立派な人もいる、伊達のケースは異例だと思う」と、障害者の立場を何度も擁護していた。
証拠品保管箱にあるものが、綾香の推理に役立ち、事件は望ましい方向に向かいつつあった。死者の遺品が……、俺が犯人ではない事実を何よりも雄弁に語りかけていた。
俺は塀の内と外の両方の世界に立ち、外側の世界こそが自分の安住の地であるのを知っていた。内側の世界は、不自由と面倒な出来事ばかりがあった。綾香の話を聞いて、明るい見通しが開けたのに気づかされた。
数週間が経過した。綾香は無実を証明するために、多くの署名を集め、再審請求が認められた。署名集めには、西山大膳も老体に鞭打って、毎回参加してくれていた――と、綾香に告げられた。真犯人の伊達一志は死亡していたものの、書類送検が行われた。マスコミ各社は、一転して俺を――悲劇の天才画家――と持ち上げると同時に、警察当局への批判が集中した。
事件を担当した深沢刑事と火野刑事については、週刊誌記事に、F刑事、H刑事と記され――二人の刑事の杜撰な捜査手法と、間の抜けた証拠集め――と題して批判が差し向けられていた。俺はマスコミの日和見主義に失望しつつ、呆れてもいた。
綾香の名推理によって、事件が解明されると、伊達のどす黒い思惑に背筋が凍り付いていた。俺と佐々とは、本物の親友と呼べたが、伊達との関係は子どもの頃に大ケガをさせたので、償うような気持が根底にあった。
伊達は、歪んだ願望を周囲への悪態や動物虐待で紛らわせていた――と、初めて気づかされた。俺が、星の夜空を見上げて、明日への希望をリアルに思い浮かべて実感している時に、伊達は地面を這うゴキブリばかりに目を奪われて、世界を醜くてとるに足りないものと考えていた。俺と伊達との差異は、そこにあった。
「伊達を追いやったのは、俺なんだ」俺は、綾香の説明を一通り聞くと、ため息をつきながら呟いていた。
「子どもの頃だし、兄貴が自分を責める必要はないと思う」綾香は、俺を慰める口調でじっと顔を見ていた。
「しかし、こんな展開になるとは思わなかった。人生は、つくづく皮肉にできているな」
「弱気な話をしている余裕はないでしょ。私は、兄貴の無実を証明し、画家として再起を図っていくのを見届けたい」
「何を偉そうに……と言いたいところだが、お前には頭が下がるよ」
世界とは、観察するものの前に出現する自分を映し出す鏡のような存在ではないか――と思った。俺の経験した世界は、観察者のために用意された実体のない幻影だった。各人が映写機と同様に自分の夢の波動を投影し、現実の有様として見ていた。
だが、それが悪夢の場合がある事実を知った。俺は、世界に真実と、美的価値と、善良さを見出そうとした。同じ世界が、伊達には悪質な物事しか見えなかったと感じると、不憫にもなっていた。考えているうちに、スクリーンに映じる現実ではなく、光源の側に完全なまでの本質がありそうに思った。
画家として名声を得てからの俺は、他人を見下していた。事件の顛末を振り返ると、俺の心の在り方が鏡像として出現したような奇妙な錯覚にとらわれた。――だから、他人から見下され、罵倒された――と、思った。さらに、親友を亡くした状況への自己処罰感情が、自分を窮地に追いやったかのような気分にもなっていた。
俺は人を信頼し、人から信頼される画家になろうと決意し、心の中にリアルな映像を思い描いていた。同時に、伊達が命がけで自分のプライドと、奥さんを守ろうとした事実に気付いた。奥さんの件は、伊達の目論見通りには行かなかった。しかしながら、伊達の行動に僅かな善良さを見つけてほっとしていた。二人の友には、間違いなく長所や美点があった。
疑わしきは被告人の利益に――という推定で、有罪とされた受刑者が無罪放免になるケースでは、真犯人が誰なのか不明のままに葬り去られ、人々の記憶から事件が忘れ去られる場合がある。俺は、真犯人が誰か特定されてから、無実が証明されていたので恵まれていた。
「お前は優秀な探偵だ。俺に、シャーロック・ホームズのワトソン役は務まらない。綾香の推理の邪魔をして、解決を遅らせていたのは、他ならぬ俺自身だったと反省している」
「もっと早く、私に任せてくれれば良かったのに……」
「俺は、犯人がどんな怪物か想像できなかった。お前に危害を加える可能性も考えていた。結果的には、自分で自分の足を引っ張っていた」
「でも、兄貴の意見を聞かなければ、到底解決できなかった」綾香は、俺を慰めるように告げた。
「さすがに、自分のことだからな、必死で考え続けたよ」
「あとは、任せておいて……。弁護士と相談してみる」俺には、妹が誇らしく感じられた。
冤罪が確定するまでの時間、俺は対立する二つの感情の間を振り子のごとく行き来した。一つは、期待、ときめき、幸福感であり、もう一つは疑念、危惧、不信感だった。俺は世間並には、胆力があるつもりでいたが、実のところは子犬のように臆病な人間でしかなかった。
刑務所暮らしによって、この国ではどんな状況でも自由が保障されているという事実や、完全なまでの社会システムが作動しているというのが幻想であるのを悟った。俺の経験を当てはめると、人間は状況によって、いかようにも変化する不安定な存在でしかなかった。
今までは、どこにいても誰かの視線にさらされて気の休まる暇がなかった。が、これからは監視の目にさらされずに過ごせる――と考えると、自由を実感した。自由こそが、すべてであった。俺の心臓は、かつてないほどに高鳴っていた。
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