第14話


 人間の本質を見抜くのに、一つの特徴だけで分かるのか? 詐欺師は、端正な顔立ちで、驚くほど能弁なうえ、人好きのする雰囲気を持っていた。刑務所にいなければ有能なビジネスマンに見えていただろう――と、俺は考えていた。新聞を隈なく読み、テレビのニュース番組を欠かさず見ている詐欺師は、世の中の諸事情を知り尽くしているかに見えた。

 俺は時間が経過するうちに、受刑者には、三タイプの人間が存在するのに気づいた。一つは、目立ちたがりで、お調子者で見栄っ張りなタイプだ。彼らは何かというと、他人と衝突し意地を張りたがった。

 もう一つは、普段は穏やかだが、何か気に入らないと爆発的に怒鳴り出すタイプだ。彼らは何かと筋を通したがりながらも気分で生きているので、そばにいると神経をぴりぴりと張りつめないといけなくなる。

 あとの一つは、付和雷同的で他人の思惑に流されやすいタイプだ。彼らは根気と集中力に欠け、自分で物事を決断できないので、刑務作業では足手纏いとなった。ただし、すぐ傍にいる詐欺師の男は、三タイプのいずれにも当てはまらなかった。

「君が詐欺師だなんて、到底思えない」

「大友さんのやっている画業と詐欺は、本質的には同じものですよ。僕には、紙切れ一枚に、彩色を施して高く売るのと、二束三文の偽物を馬鹿に高く売るのとは同じに思えます」

「それは、心外だな」

「良いですか? 今の日本で、テレビに出ているような評論家は、ディストピアしか思い描かない。明治維新や戦後の復興のような大事業を成し遂げてきた本来の日本人と、今の日本人は別物です」

「昔の日本人には負けじ魂があり、大きなビジョンを掲げて実現しようとする意欲があった」

「戦後教育や、マス・メディアの論調は過去最悪のものですよ。知識人は悲観的な観測ばかりを言葉にして、自分の知力の高さをひけらかそうとする」

「知識人は、問題解決型の提案をしようとしない」

「無体財産権を侵害されるのばかり恐れているのでしょう。それに、不安がらせた方が、ものがよく売れますからね」

「結局、他人を救おうとか、改善しようとする意欲よりも、自己保身しか頭にないからね」

「この国には、未来への夢を持たない若者ばかりになっている。僕のやっている詐欺の方が、インテリぶった愚か者のする悪事よりもはるかにまともですよ」

 俺には詐欺師の見識が正しく思えてきた。それに、洗練された応接ぶりや、人懐っこい笑顔の裏側に、俺を騙そうとする悪質さが感じられなかった。

 刑務所内には、殺人、強盗、性犯罪、薬物使用、窃盗など様々な犯罪者が収監されていた。詐欺師は「ここの刑務所は、薬物事犯と窃盗犯の入所者が多く、二大グループを形成しています。薬物中毒とスリは、お互いを軽蔑し合っていて仲が悪いです。俺は、下らないからどちらも相手にしていません」と嘯いた。

 俺は自分が今いる場所が、どんなところか再認識させられた。悪質な木賃宿に泊まっているのではなく、相変わらず罪人として処罰され続けていた。人間は自己効力感なしには、生きていけない存在だと感じていた。――自殺――という言葉が頭をよぎったものの、自分にはまだ何かできる。今死んでは、支援者に申し訳が立たない――とも感じていた。

 明日に、命を繋いでいけるかどうか、俺には確信が持てなかった。が、サバイバル・ゲームに勝つのが、家族や支援者たちの望みでもあった。

 画家として有名になってからは、実業家や芸能人、小説家や評論家などの成功者たちが俺の交友関係の中心になっていた。彼らの多くは、俺を「大友先生」と呼んでもてはやし、自分こそが芸術の理解者だと主張した。中には――大友小六の絵のファンだ――と公言してくれる著名人も存在していた。

 俺は真逆の世界にいて蔑まれ、自由を奪われ、屈辱に対する超人的な忍耐を求められていた。それに比べると、詐欺師は同じ場所に居て、俺よりは遙かに要領よく生きているかに見えていた。

「君は、伸び伸びして見える。刑務所内で明るい表情をしているのは君ぐらいだ」

「僕だって、こんなところに拘束されて、不自由な暮らしをするのは嫌ですよ。あたりまえじゃないですか」詐欺師は口を尖らせた。

「大友さんは――刑罰廃止論――を知っていますか?」

「知らないね。どんな理論だろう?」

「アメリカの哲学者ダーク・ペレブームの説ですが、刑罰には自由意志が存在しないので、応報主義的な刑罰の正当性も存在しない――と言っています。僕は全面的に賛成です。人間は檻の中の獣ではないでしょ? 仮に犯罪が多発しようと、人は自由にサバイバル・ゲームを生き抜いていくべきですよ」

「現実はそう甘くない。無実の人間に見当違いの罰を加えるのはまともではないが、目には目を歯には歯を――という応報刑論は、未熟な社会には必要とされると思う。錯誤さえなければ、今の司法システムは問題ないと思う」

「意外ですね。どんな状況であれ、自由こそがすべてじゃないですか?」

「君の考えは、刹那的すぎる」

「大友さんの考えは、まるで老人みたいです。冒険心が感じられないですね」

「絵を描く行為が、新しい出会いであり、俺にとっての冒険だ」

 俺は、詐欺師と議論する展開を予想していなかった。――この男の頭脳は切れる――と思った。が、危険と隣り合わせの冷徹な切れ方だった。今の俺の冒険心は、芸術の中にしか存在しなかった。それが、すべてでもあった。

 刑務所では希望すれば、カウンセラーとの面談やグループ・ワークに参加できたが、そもそも更生の必要のない俺には、参加する気がしなかった。

「刑務官にアピールするためにも、大友さんも参加した方が良いですよ」と、詐欺師はすすめたが、まったくそんな気にはなれなかった。

 図書館に来ていた薬物中毒者の男は「グループ・ワークに参加して助言を貰えたので、社会復帰への自信がついた。もう二度と同じ間違いはしない」と明かしていたが、俺にはどこか遠い世界の出来事に聞こえていた。

       ※

 逮捕されてからの記憶は、思い出すたびスズメバチの鋭い毒針と同様に、胸を刺し貫き酷い苦痛を与えていた。強い毒性にあたりながらも、アナフィラキシー・ショックで死んでいないのが不思議だった。運命はグロテスクなオカルト映画の様相を呈し、俺から命以外のすべてのものを奪い去ろうとしていた。

 刑務所では面会の条件が決められており、時間や回数にも制限があった。外の状況が分からなくなると、焦りと孤独を感じた。

 雑居房のいじめの過酷さを逃れるために、自ら独房生活を志願して受け入れられていたものの、長くなると抑うつ的になり、世界のすべてが戦慄すべきものに思えてくる。今の状態で、刑務作業もせず、休み時間に図書館の利用を控え、誰も面会に来なければ、頭がおかしくなるのは時間の問題だった。

 刑務所の通路から中庭の上空を見ると、空一面を薄灰色の雲が覆い、今にも泣きだしそうな表情を見せていた。湿気を含んだひんやりとした風が頬を撫でた。しばらくして、ザーッという音と共に、雨が降り始めた。

 雨音は長く続き、ザーという音の後に、ピチャピチャと規則正しく地面を跳ねる音を響かせていた。雨音に耳を澄ませていると、日本庭園にある――鹿威し――の水音と竹筒の弾ける音を連想していた。だが、俺の前には、禅味溢れる世界とは異質な時空間しかなかった。

 悲し気な雨音は、俺の気分と同じものであり、雨に煙る景色は、刑務所の持つ雰囲気によく似合っていた。塀の内側には、晴れ舞台は存在せず、どんなに清潔にしていたとしても、薄汚い穢れの世界が広がっているかに思えた。独房に戻り、鉄格子の付いた窓から外を見ていると、一層暗い気分に包まれていた。

 俺は、香しい花の匂いを失念していた。独房ではトイレは、小さな部屋の隅に便器が一つ設置されていた。衝立はあるものの、いつも悪臭が漂っていた。入所した当時は、刑務所に小便と消毒液の匂いを感じていたが、俺の鼻粘膜は匂いに慣れたせいなのか、今となっては消毒液の匂いを嗅ぎ分けられなくなっていた。

 刑務所は殺風景で、温かみもなければ夢想する余地もなかった。俺は、画家の腕前を上げるには、美術作品を鑑賞するだけではなく、文学や映像、音楽などに豊富に触れる経験こそが作品に深みをもたらす――と、考えていた。

 芸術の求める美は、絵画による視覚を刺激するものではなく、音楽による聴覚刺激、料理による味覚刺激、香道などの嗅覚刺激も範囲に含んでいる。塀の外には、様々な美醜が混在しているが、内側には美の欠乏があった。

       ※

 これから起きる出来事は、これまでの出来事の反響であり、毎日はよく似た出来事の連続にしか過ぎなかったとしたら、俺は退屈に耐えられないだろう――と、イメージしていた。俺の人生は、実にスリリングなものになっていた。大きな変化は、人との出会いがもたらし、節目ごとに急展開していた。

 俺が、刑務所図書館でよく会う詐欺師に「一刻も早く、出所したい」と告げると、彼は予想外の言葉を口にした。――満期を迎えて出所すると、街並みや自動車の騒音や漂う匂いまで、塀の中との違いに戸惑い、孤独と不安が押し寄せてくる――と、言っていた。――これから、どうやって生きていくのか――と、途方に暮れて捨て鉢な気分になり「結局は詐欺事件を起こして、刑務所の内側に戻って来た」と、打ち明けてくれた。

 詐欺師は、横暴を振るう受刑者には、求められなくても賄賂を贈ったり、うまく機嫌を取ったりして、刑務所暮らしを苦にしている様子はなかった。ひどく軽蔑している相手にも、うわべでは愛想よく見せかける才能を持つ男だった。

 俺は刑務所暮らしをしているうちに、受刑者の中には礼儀正しく、愛想よく振舞える者も存在しているのに気づいた。彼らは、暗がりを望んで激しい衝動に促されたため、悪事を働いている風には見えなかった。節度のなさや厚顔無恥や暴力的な願望ではなく、犯罪をしでかした原因があるとしたら何だろう――と、戸惑う時もあった。

詐欺師は刑務所で恙無く生き延びるために必要とされる薄氷を踏むようなバランス感覚を持ち合わせていたが、俺にはそれがなかった。俺は、浮世離れした芸術家に過ぎない事実を嫌というほど、思い知った。ある意味、詐欺師の計算高さと如才なさが羨ましかった。

「嘘をつく時は、堂々と自然体でつかないと逆効果になる。他人をおだてる時にも、同じ心構えが大事です」と、詐欺師は俺を諭した。

「そんなものなのかね。どこかわびしい感じがする」俺は、詐欺師に反論しながらも、貴重な教訓を授けられた気もしていた。それでいて、馬鹿正直な自分には、言葉一つで他人を出し抜くのは不可能に思えてもいた。

「刑務所に長く入ると、出所した時に――酒と女と金――が、すべての幸福の源泉のような気がしてきます。何故ならば、酒も女も金も刑務所では、手に入らないからですよ」

 俺は、詐欺師の話を聞いていて、紛れもなく異世界にいるのを実感した。パラレル・ワールドにいるかのような感覚は、刑務所ボケとも言うべき不思議な感覚だった。

       ※

 夕方になって雨が上がると、空に大きな虹がかかっていた。刑務施設から、虹を見ていると――希望――という言葉が思い浮かんだ。俺は、幼い頃に、虹の麓にはどんな素晴らしい街並みが広がっているのかと想像し、胸をときめかせたのを思い出していた。

 虹は、この世が実体のない幻影であるのを証拠づける光の織り成すショーにも感じられた。いったい、いつまでこんな毎日が続くのかと考えると、今度は空しい気分になっていた。

 俺は佐々の事件で日記帳が決め手となり、一度は嫌疑が晴れた事実を思い出した。結局のところ、伊達の死が原因で振出しに戻り、二つの殺人事件の犯人として服役していた。

「伊達は、俺と一緒に文芸同人誌で活動していた頃から、日記をつけていた。あいつは、小説家になる夢を捨てきれずに、創作活動を継続していた。俺には、日記帳に事件のヒントが書かれているのが分かる」

「それが事実なら、日記帳を探し出さないとね」

「探し出す?」

「日記帳があって、真相が書かれているのなら、警察が見過ごすわけがないでしょ?」

 俺は、簡単だと思った。伊達の奥さんに申し出れば、貸してくれると考えていた。さらに、綾香は奥さんが事件に関与していたら、日記帳を貸すわけがないと主張した。刑務所暮らしが続いたせいか、俺の思考能力は明らかに鈍っていた。

「奥さんが犯人なら、日記帳を今頃は焼却していると思う」

「それを確かめるためにも、奥さんに声をかけてくれないか?」

 犯人の動機の解明には、被害者の口から思い当たる事実を聞き出すのが、もっとも効率的に思えたものの、殺人事件なので直接聞き出せはしなかった。綾香の判断の方が正しいとしても、そんな予想は、関心がなかった。

「事件の解明には、強引さが必要だ。それでなくても、俺は無実なのに、警察の強引なやり方で収監されている。俺たちに欠けていたのは、あいつらのような強引さだ」

「兄貴も……、たまには、良いことを言うのね」

「お前だけが頼りだ。もう、ここの生活には耐えられないよ」

「あんなに偉そうな天才画家さんでも、弱音を吐くようになるのね」

「人間、そんなものだ」綾香の悪態の裏側に、思いやりが潜んでいるのが分かっていたので、悪い気がしなかった。

「じゃあ、兄貴は気を落とさないで、私の報告だけを待っていて……」

       ※

 刑務所では、十年にも及ぶ刑期を終えて大男が出所したので、平穏な生活が戻って来た。大男は「娑婆で会っても、挨拶ぐらいしろよ」と、俺を睨みながら立ち去って行った。口調に冷たい軽蔑が感じられた。あれほど、憎らしく思っていた大男の圧倒的な存在感が消え去ると、他の何かでは埋められない空白だけが残っていた。悪人の異様なまでの存在感には、侮れないものがあった。

 乱暴な大男よりも、よほど善良な俺が――死刑――を求刑されていた。死刑が、痛みを伴う何よりも残酷な刑罰に思えると、何度思い直しても気が遠くなった。俺は、時間を恐れつつも、時間の持つ価値に気づかされていた。一分一秒たりとも、無駄に費消して良い時間は存在しなかった。

 他人の冷酷な仕打ちや、希望がなく苦痛に満ちた人生にうんざりしていた。刑務所に入るまでは――生きるのに目的は必要ない――という連中は、苦労の経験が少ない者だと感じていた。

 しかしながら、刑務所では、大男を始めとして酷い苦労を経験していながらも、人生の目的を考えない連中ばかりに出くわしていた。大男の鉄槌は、皮肉にも人生への目的と希望の必要性を思い起こさせてくれた。

 外の世界の窓口であり、事件の真相を解明する頼みの綱となっている綾香との面会が待ち遠しかった。俺は、自分の勘で伊達がつけていた日記にこそ、事件の真相につながる重要な事実が書かれていると信じていた。警察当局が見落としたとしても、親友の俺なら重要な内容を見落とさないと確信していた。

 綾香は、伊達の奥さんに、日記帳を見せるように何度も交渉していた。だが、何度願い出ても断られていた。綾香が執念深く、家を訪ねたり、電話したりして「真犯人は、別にいると思う。兄貴と伊達さんの無念を晴らしてあげたい」と、説得しようやく、奥さんは日記帳を貸し出すのを承諾した。

 探偵捜査では真相の究明にたどり着けなかったので、警察の証拠に対する解釈の錯誤に原因があると感じていた。見落としは、加害者への思い込みだけではなく、被害者の周辺になにかある――と、直感していた。

 綾香の話を聞く限り、伊達の奥さんは、事件現場のすぐ近くにいながらも、俺の殺人容疑には懐疑的だった。「兄の無実を証明し、真犯人を見つけるのに必要なのです」と、何度も要望を突き付ける綾香に根負けした風だった。

 俺は事態の進展の糸口が判明するのを期待して、綾香からの報告を待ち焦がれた。報告によると、一転して、奥さんは「日記帳の件は、私の思い違いでした。家の中を探したものの、主人の日記帳は見つかりませんでした」と綾香に連絡していた。俺を支配してきた――自分の無実を証明したい――と願う、焼き尽くすような激しい思いが、徒労感によって粉々に打ち砕かれていた。

 日記帳を読めば、あの日に伊達の家の書斎で見た人影の正体がつかめると考えていた。飲み物に毒を盛るのは、通り魔の仕業ではなく、伊達の知人の誰かが起こしたものに思えた。

 伊達が死んだ日に、部屋に潜んでいた男は、どうやって気づかれずに忍び込み、グラスにヒ素を入れたのか? 男は、俺の知っている人物だろうか――と、考えるうちに死の持つ忌まわしいイメージが何度も呼び起こされて辛い気持ちになった。

 解決の糸口は、ほんの些細なきっかけから得られる――と思って、藁にも縋る思いだったのが、夢のごとく消え去っていた。俺の微かな期待と、綾香の努力が水泡に帰したのが分かった。

 綾香は、声を落とし「なるようにしかならない。でも、諦めは禁物だと思う。真犯人を見つけるアプローチは、他にも何かある」と、気休めの言葉を並べた。妹の存在だけが、命綱だった。

 テレビや、慰問や、読書よりも、面会を楽しみにしていた俺が、アクリル板越しの綾香の言葉を空しく聞いていた。真向いに座る綾香の顔からも、失意の色が読み取れた。だが、面会が終わる時刻になると、綾香は「兄貴は心配しないで……。私を信用してくれれば、何としても無実を証明して見せる」と、いつも通り俺を励ました。

 孤独感は、絶望を引き連れて来そうに思えた。アトリエでは、思索は沈黙の時間に深化し、独創的な夢想を生み出し、感情の移ろいを経験させ、美的空間に色彩を与えた。だが、一人で独房にいて物思いに耽っていると、黴臭い不健全な空気を孕み、気が重くなった。画家として、創造の可能性を萎ませたくはなかった。

       ※

 ベッドから身体を起こしたタイミングで、よろめきながら角に脛をぶつけ、鋭い痛みを感じた。最悪の気分だった。嫌な予感が次々と的中していた。事件が起こるまでの俺は、画家としての自信に満ち溢れ、大いなる確信を持って画業に勤しんでいた。

 それが、二つの事件の発生後は――逮捕されないか――とか――刑務所で虐められないか――とか、――無実の証明は困難ではないか――とか、考えるたびに、想念の波動が現実を質の悪いものに変化させていた。

 綾香は「警察の担当者に日記帳の件を尋ねて以来、協力的ではなくなった。何か裏がありそうに思える」と、弱弱しく伝えた。探偵としての立場から、綾香は今の状況に不満を露にした。「ちゃんとした手順を踏んでいるのに、情報の開示を拒むのはかなり怪しい」綾香は警察の頑なな態度に苛立ちを示した。

 欲望のためや、保身のために、他人を窮地に陥れるのも人間なら、正義のために人を助けられるのも人間だった。俺は、前者と後者にはどれほどの人格の隔たりがあるのかと想像した。

 夕食後にテレビのニュース番組を見て愕然とした。アナウンサーは、厳かな口調で伊達の奥さんが自殺したと報じていた。慎ましく、控えめで好感の持てる人物だった。――これで犠牲者は三人になった――と思うと、思わず嘆息していた。さらに、事件解決の糸口になる日記帳探しが絶望的な状況になっていた。

 マスコミでは、しばらく鳴り止んでいた――大友小六極悪人説――が再燃し、再起不能なほどに袋叩きにされそうな気配を感じた。無実が証明されても、出所後に形成外科手術を受けて偽名を使い、別人の人生を歩むのはできそうもなかった。

 借金を抱えたまま大黒柱の伊達に死なれて、心労が重なっていたのを俺は知っていた。奥さんが最後まで俺を信じてくれていたのが、せめてもの救いだった。真犯人がいっそう、憎らしかった。心臓が縮み上がるほど、そいつを脅かしてやりたかった。

 伊達の奥さんは、他人に対する気遣いができるよくできた女性だった。家を訪ねても、愛想よく振舞い、気持ちを察してくれてもいた。内心で――口の悪い伊達には、勿体ないぐらいだ――とも、考えていた。

 いったい犯人の男は、どこで俺たちの現状を嘲笑っているのか? 奴は、俺が窮地に陥っているのを知りながらも、今頃はソファーの上に腰かけてゆったりと寛ぎ、次の犯行計画を練り上げているのではないか――と思うと、怒りと苛立ちを感じた。

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