第13話


 西山大膳は手紙の中で、自身の体調不良に触れながらも、俺の身を案じくれぐれも元気で過ごし、健康な体で画壇に戻ってきて欲しい――と、伝えていた。

 さらに、西山は「厳しいだろうが、刑務所暮らしを得難い経験であり、修行だと考えればいい。君の場合は、無実で収監されているのは、実にご苦労だと思う。刑務所は、本来は更生のための施設です。自分を責めるのではなく、うまくやり過ごせば、人間的に成長できると考えてみるのです」と、文中で俺を慰めてくれた。

 医療刑務所で眼窩底骨折の手術を受けた。医師は「経過は良好なので、もうしばらくここで辛抱すれば、元の刑務所に戻れます」と告げた。淡々とした口調だったが、酷く嫌味に聞こえた。俺は、正直なところ、いつまでも医療刑務所に留まりたかった。

 手術を受けて経過観察のために、何種類もの検査を受けた。二カ月後にレントゲン撮影や視力検査の結果、元の刑務所に戻れる展開になった。ケガの回復は有難かったものの、気が重くなった。また、獰猛な野生の動物たちの棲み処に戻るのか――と、失望していた。

「何とか、医療刑務所に留まれませんか?」俺は懇願口調で願い出た。が、医師は

「医療刑務所は、ケガや病気の受刑者を対象にしています。病床数に限りがあるので、ずっと留まるのはできません」と、ある意味予想通りの反応が返って来た。

 逮捕後では、初めて俺は骨休めができた。だが、――再び、あの悪夢の毎日が待ち受けているのか――と、考えるだけで気が重くなった。

 元の刑務所に戻ると、大男は俺の姿を見つけて近づいてきた。大男は

「おい、画家さんよ。ケガは治ったのか? 御大層な事だな」と、嘲笑った。

 相変わらず、愚かで乱暴な男だった。俺の心臓は、早鐘のように鼓動を響かせていた。冷や汗が流れ出し、喉に渇きを覚えた。もう、殴られてケガをさせられるのはこりごりだった。俺の憂鬱は、大男にとっては狂喜に相違なかった。

「お陰様で……」俺は、大男に向かって弱弱しい声で答えた。

 朝から晩まで規律を求められ、監視の目にさらされていると、気ままに振舞える生活の有難味が身に染みて分かった。逮捕される前は、ゆっくりと起床し遅めの朝食をとり、作務衣に着替えて、近くの公園をウォーキングした。締め切りが決まっていない限りは、絵を描くのも気分次第だった。夜遅く酒を飲む日もあった。

 人間らしい生活とは――、刑務所暮らしではなく、画家の奔放な日々とも違うのではないか……と、想像していた。サラリーマン経験がないため、満員電車に揺られて通勤し、夜遅くまで残業し、取引先の接待で酒を飲むのがどんなものなのかリアルには理解できなかった。刑務所はあらゆる面で異空間だった。

       ※

 世界は絵筆で切り取れるほど小さくなかった。俺は自分の認識の甘さを知り、日常を乖離した空間で――理想とは何だろう――と、書生じみた考えに囚われていた。周囲にいる凶悪犯とは違い、拳を握り締めて暴力で問題を解決した経験がなかった。今でも、世界は世界を愛する者のために輝き、魅力の所在を教えてくれる――と信じていた。

 自由は、文明社会では当然だと考えられているが、本当の価値は自由を失ったものにしか分からない。監視と束縛による不自由な暮らしが、俺に自由の真価を教えてくれた。

 刑務官たちは、俺が有名画家だと知っていても「大友」と苗字を呼び捨てにするか、称呼番号で命令されるケースもあった。逆に刑務官同士では、受刑者に名前がバレないように「担当さん」と呼び合っていた。受刑者の多くは刑務官を「おやじ」と呼んでいた。

 憲法三十六条で――公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる――と記されているので、刑務官による司法体罰は禁じられていた。それでも、受刑者の大半は刑務官の目を恐れていた。刑務所暮らしが長くなると、すべての社会的規範が囚人のものとなり、常識になっていった。俺は自分を本物の罪人だと思いそうで、心底恐ろしくなっていた。

 死刑を求刑されたのを口実にして、塀の中で自堕落な生活を送りたくはなかった。だが、先の見通しの付かない現実に疲労困憊し、釈放されようとされまいとどうでも良い気分になる日もあった。俺の前に用意されている迷路は、想像していたよりも複雑にできていた。

 塀の中では、娑婆と異なり、喉が渇いてもコーヒーなどのソフト・ドリンクは飲めず、水道水が飲めるだけだった。俺はいつの間にか、月に三度、食事の際に出される紙パックのコーヒー牛乳が楽しみになっていた。

 時折、俺は自分の状況を考えると、溝を徘徊するネズミのごとく感じ、惨めな心境になる日があった。そんなときでも、綾香が慰問に来て話し込み、西山の手紙を再読すると勇気づけられた。希望の灯火は、周囲の人間の厚情にあった。

 土日祝日などの刑務所の休日は、作業が免除されていたので自由時間が多くなった。俺が釈放されて画家としての再スタートが切れるか否かは、休日の過ごし方にあると考えていた。独房内でノートやスケッチブックに描いた鉛筆画は、かなりの数になっていた。女に飢え、自由に飢えていたので、人物画は若い女性ばかりとなり、風景画は自然を描いたものが大半となった。心の渇きを癒すために、記憶の宮殿の鉛筆画は中断せざるを得なかった。

       ※

 刑務所に綾香が面会に来るたびに、俺を心配して励ましてくれた。自分や家族の現状を話したあとで、二つの事件の真犯人について、何か心あたりがないかと再三にわたり尋ねた。綾香が面接に来るたびに、シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐり、外の世界が恋しくなった。刑務所の受刑者たちは、全員が丸坊主にされており洗髪はトニック・シャンプーを使用していたので、面会時の他に優しい匂いに触れるケースは皆無だった。

 綾香は「伊達さんの奥さんが怪しいと思う。何か隠している気がする」と、俺の心を見透かすように、目をじっと見つめた。

「二つの殺人事件に、彼女は関与していないだろうな。奥さんが、佐々を憎むような原因が見当たらない」

「犯人が、それぞれの事件で別人だったとしたら、どうかしら?」

「どういう意味だ?」

「伊達さんの事件では、殺害現場に兄貴の他に、奥さんしかいなかったでしょ? 消去法で考えると、あの事件では奥さんがもっとも怪しい」

「俺も当初は、奥さんとの不倫を疑われ、関係を問い詰められたよ。もちろん、考えもつかない。それと、夫婦仲は悪くなかった。伊達が死んだときのうろたえぶりも、俺には演技には見えなかった」

「事件は、単純なものじゃなかった。兄貴は、複雑に張り巡らされた蜘蛛の巣にかけられたのね。警察の目は節穴ね。天才画家の大友小六先生に、人が殺せますかね」

 俺は、伊達が几帳面に日記をつけていたのを思い出した。俺が高校時代、伊達の家に遊びに行くと、彼は日記帳を取り出し読み始めた。俺は、およそ内省的ではない 淡々とした記述に驚いた。伊達はたいていの者がするように、一日の反省を綴るのではなく、自分の存在の証として日記をつけていた――と、俺は考えていた。

「伊達は日記をつけていた。事件解決の糸口になりそうな出来事が書かれていないかな。周囲との関係も分かるだろう。日記帳のどこかに、犯人の影が見つかると思う」

「日記帳に書くのは、他愛ない出来事ばかりでしょ。犯行につながる出来事が、何か書かれているかしら」

「どこで、誰と会ったとか……、何を考えたとか……。どんな事態に異変を感じたとか……。そんな内容が書かれていれば、助かるけどな」

「佐々さんの事件で、警察が家宅捜索したときに、調べていると思う。見落としはないでしょうね」

「上手の手から水が漏る――という言葉もあるだろう? 見落としがなければ、俺は誤認逮捕されていなかった。捜査に不備があったから、そこを調べなおしてほしい」  俺は斜め後ろの席に腰かけ、熱心にノートにペンを走らせている刑務官に聞こえるように――誤認逮捕――の部分を大きな声で言った。

 私立探偵の行動は、依頼人によって制約を受ける。依頼人が承諾しないと、調査したり証拠を集めたり、他人に質問したりできなかった。俺は、探偵業界の暗黙のルールは兄妹にも当てはまると考えていた。

「綾香に正式に依頼するよ。探偵として、俺がお前に任せるという意味だ」声に出して依頼したので、綾香は俺が許容する限り、あらゆる調査が可能となった。

「やっと、兄貴に認められた気がする」綾香は、ほっとしたような表情をした。

「お前は、満足できるのか?」

「探偵の仕事の六割は、男女関係のトラブルなのよ。しかも、大半は浮気や不倫の調査なの。正直言って、痴情沙汰には飽き飽きしていた。やっと探偵らしい仕事ができる。兄貴の無実は私が証明して見せる」

 俺は妹の綾香を事件に巻き込みたくなかったが、今となっては背に腹は代えられなかった。綾香以上に、親身になってくれる存在も見つからなかった。佐々や伊達を殺害した真犯人は、今もどこかに身を潜めていて、次の獲物を狙いすませているのではないか――という、恐怖心が薄ぼんやりとしたものになっていた。それに、知的水準も身体能力も高い綾香なら、見事に事件を解決してくれそうな期待を感じていた。

       ※

 逮捕される前の俺は、自分を体制側の人間だと考えていた。テレビで報道されるニュースや週刊誌に書かれた内容は、間違いない事実だと信じていたし、選挙の時は与党に投票し続けてきた。が、刑務所で過酷な毎日を送るうちに、信念が揺らいでいた。俺は体制側でも、反体制側でもなく、一部の人間以外には誰も信じられなくなった。他人を信頼するのが愚かな営為に思えていた。

 西山大膳は、何度も手紙で「絵を描き続けなさい」「大きなテーマを考えてみるのです」「苦境こそ、人間を成長させます」「あなたのために毎日、神棚に祈りを捧げています」と、俺の状況を察してくれた。中には――刑務所の実情を知らないから、書いているのでは――と、思わせる内容もあったが、有難かった。俺は両手を合わせて、西山のために祈った。出口なし――の不安の中にいて、知人の手紙と面会だけが、救いになっていた。

 刑務所に、綾香が面会に来ると、調査内容を説明した。俺は、刑務所に囚われの身となり、自分で動けないのを歯がゆく思っていた。

 綾香は、探偵捜査を始めるとともに、かつての重要参考人と伊達が経営する工場の従業員周辺で、聞き込み調査をしていた。公開されている情報をもとにして、尾行や張り込みもしていた。だが、個人情報保護法の壁に阻まれて、データーベースを十分に活用できなかった――と告げた。

「どうだった? 何かヒントはつかめたのか?」

「まず、念のため伊達さんの事件での兄貴のアリバイを再検証してみたの」

「お前には、苦労をかけてばかりだ」

「今のところ、兄貴のアリバイにつながる事実も、真犯人の残した痕跡も見つかっていない」

 俺は、失望を隠し切れずにため息をついた。アリバイは別名で――現場不存在証明――とも言われ、犯行時間に現場に存在しなかった事実を明確かつ合理的に説明する必要があった。凶器なき殺人事件と呼ばれた佐々の事件では、すでにあらゆる点から、アリバイになりそうなものを調べてみて見つからなかった。

 綾香は「佐々さんの事件では、現場周辺を歩いて防犯・監視カメラの所在を確認したけど、全部死角に入っていたし、事件現場は、細い通路なので走行中のクルマのドライブ・レコーダーに映っている可能性も低い」と、声を落とした。

 俺がうなだれていると、綾香は「伊達さんの事件では、自殺の可能性がないのか、確かめている」と、付け加えた。俺には、毒舌家で強がりしか言葉にしない伊達が、自殺するとは到底考えられなかった。

「可能性はないだろうな」

「言い切れるかしら? 藁にも縋る思いで、調べているのよ」

「あいつの性格だからな」

「強がりを言っていただけかも……」

「それよりも、伊達の家の二階で見た男の人影が誰だか気になる」

「何度も調べなおしたけど、それらしい人物は見当たらない」

 俺よりずっと、怜悧な頭脳の綾香が、困惑しているのが分かった。

       ※

 刑務所の中から、支援者や知人に手紙を書いた。手紙は内容を検閲されたあとで、便箋と封筒に検閲印が捺された。俺は、支援者への謝礼や、知人への思いを綴るのが楽しみでもあった。西山大膳は「あなたのお手紙を拝読しました」と冒頭に記し、「美術への熱情を忘れないでくれ」とか「君の偉大さは、創作によって証明される」と、毎回のように激励の言葉を書き送ってくれた。

 皮肉にも、心の師と仰いでいた人物が、事件後に身近な存在になったのを感じていた。西山は、手紙の余白にいつも果物や花の静物画を描いていた。こうした細やかな配慮が、西山大膳という人物を大きく感じさせていた。

 一方で、支援者の中には「刑務所から手紙が届くと、悪目立ちするので送付しないで欲しい」と告げる者がいたので失望した。支援者は――郵便受けから、刑務所の検閲印の付いた封書を取り出すところを見られそうな気がする――と、最後の手紙に記していた。

――孤独とは一人で端座している状況ではなく、周囲との違和感がもたらしている――と、俺は感じていた。刑務所の馴染めない空間に存在しながら、明日の希望を思う構えが、命をつないでいた。

 囚人服は罪人の紋章ではなく、不安と失望がもたらす孤独の紋章だった。刑務所には、満たされない欲望の残滓や、憤りの気持ち、益体もない思考の残骸が集まり、いつまでも渦巻いていた。

 物事や人間関係には理念や情熱が必要だ――と、俺は考えてきた。人間と動物とを隔てるのは、創造への理念と情熱だとも思っていた。だが、刑務所で出会う受刑者の大半は、生活に理念も情熱も持たず、その日暮らしにしか価値を持っていないかに見えた。

 仮に、外ではどれほど地位や立場があった人物にせよ、俺と同様に――塀の中では、坊主頭の囚人――にしか見られなかった。毎日が、単調な同じ繰り返しに思えるため、誰もが疲弊しているのが分かった。

 刑務作業中は、監視の目が鋭く光っていたので、喧嘩や口論はあまりなかった。刑務官の名前は明かされておらず、所内では「おやじ」と、呼ばれながらも恐れられていた。覚せい剤中毒、窃盗、詐欺、強盗、強制性交などの犯罪者たちが、刑務作業中は黙々と仕事をしている姿は異様に思えたものの、どこか中学校の図画工作の時間に雰囲気が似ていた。

 俺は、いつも通り刑務作業で箪笥の制作をしている時に、抽斗の彫刻部分を図面と異なるものにしたくなった。独断で、図面にある単調な浅浮彫りではなく、ヨーロッパ調のアカンサスの葉の高浮彫りを彫刻刀で刻んだ。

「なんだ、これは……、大友、いったい、どういうつもりだ?」指導員は声を荒げて怒鳴りつけた。

「俺の彫刻で、箪笥を安物の殺風景から、ヨーロッパのアンティーク調に変更してみました」

「勝手な真似はするな。貴重な資材が台無しになっただろう?」

 指導員の声を聞いて、刑務官が数人駆けつけた。どの刑務官も険しい表情をしていた。が、年輩の刑務官は「しかし、見事な彫刻の腕前だな。ここまで彫ったものを捨てるのは勿体ない話だ」と、周囲の同意を求めた。

「実は、私も内心で担当さんと、同じことを思っていました」と、指導員は同意した。

「特例を認めたら、他の受刑者に示しがつかないじゃないですか」若い刑務官は反対した。

「今日のところは、私に任せてくれ。所長には後で報告しておくよ。それより、見て見ろ。面白いものができそうだな」年輩の刑務官は、周囲に促した。

 受刑者たちは、成り行きを見守っていた。が、誰からともなく「大友の自由にさせてやってください」「その方が俺たちもやりがいがある」「大友は、もともと画家で彫刻家と聞いています。おやじさんたちの裁量で、なんとかしてやってくださいよ」と、騒がしくなった。俺は刑務所に入所して初めて喜びを感じていた。

       ※

 図書館に行くと、いつも経済関連の本を熟読しているインテリ風の受刑者に出くわして、俺は話をするようになった。話しているうちに、男が巨額詐欺事件の主犯格であるのが分かった。俺も、テレビや週刊誌の写真で男の顔を見て知っていた。話しながら、有名人と会話している時と同様のイメージが内心に沸き起こり、失笑した。

 詐欺師は人当たりが良く、話術が巧みで他人の話を傾聴するのもうまかった。詐欺師は

「僕が読書にこだわるのは、人生を深く考えたいからではなくてね。広く浅く世の中を見渡す経験でビジネスの勘が養われるからですよ。言葉は悪いが、その方がカモも見つけやすくなる」

「君は、まだ若い。頭もよさそうだし、悪事に時間を費やすのは惜しいと思う」

「アドバイスをありがとうございます。さっきから、気が付いていましたが……。あなたは大友小六画伯ですよね。僕は、あなたが人を殺めたり、騙したりする人ではないのを早くから見抜いていました。ところが警察のぼんくらは、あなたの本質すら見抜けていない。そんな世の中に居て、狡く立ち回る方法を考えなければ、生きていけませんよ」

「若いのに随分、達観しているな」

「僕は二三歳です。大友さんより、二歳だけ若い。童顔なので年下から、ため口を利かれた経験があります。でも、天才詐欺師と呼ばれて、仲間からは尊敬されている」

「高い頭脳をそんな目的に使うのは惜しい。他の何かに生かせないのか?」

「欲深い連中を騙すのは、自転車を漕ぐのより簡単ですよ。他の仕事より、スリルがあって面白いし、やりようによっては破格の収入につながる」

「俺には、分からない感覚だな。絵をどう描くかで、頭がいっぱいになると、他人を騙そうとは思えなくなる」

 雑居房ではトイレに行くときも、刑務官に「今から用便します」「手を洗います」と、毎回報告が義務付けられている。トイレ掃除は自分たちで行なっており、雑巾でとれない汚れは素手で拭き取るように指示されていた。厳しい現状や不自由を考えると、再犯で刑務所に舞い戻る者の心境が理解できなかった。

「犯罪者の烙印を押された者にとっては、出所後の現実の方が過酷ですよ」

「刑務所本来の目的は、感化教育にあると思う。何度もここに舞い戻ってくると、刑罰の用をなさない。犯罪者を更生させ、犯罪をなくすのに必要なのは、感化教育手段だ。それこそ、もっと重視し研究すべき課題だよ」

「大友さんみたいな立派な考えの持ち主は、ここには一人もいませんよ。受刑者にも、刑務官にも……。あなたみたいな人が何故、画家をし続けているのですか?」

「芸術家という者は、世界を写し取って真相を見せつける立派な職業だ――と、考えている。自分の職業を蔑むのは、自己欺瞞にしかならない」

 俺は、詐欺師と話していると自信を取り戻せたので、時間を忘れて話し込んでいた。少なくとも、詐欺師だけは俺を詰ったり、暴力を振るったりせず、人として尊重してくれていた。

 図書館にいる受刑者の大半は、雑誌に目を通すか通俗的な小説を手にしていた。中には、暗い表情をして宗教書を熟読している受刑者もいたが、彼らには一様に近寄りがたい雰囲気が漂っていた。

 俺のように、芸術論や美学関連の本を読む者は珍しかった。同ジャンルの本は僅かしかなかったので、すぐに全部を読破していた。

 図書館の中を鬱屈とした思いで歩き回っていた時、本の中のアントニオ・ガウディの名言が目にとまった。「人間は決して自由な存在ではない。でも、人間の意欲の中には自由が存在する」俺は、この言葉がすべての本質だと気づいた。俺は――芸術家の感性は、事象の本質を一瞬にして洞察できる――と信じていた。ガウディの求めていた――自由――が、俺の今の状況の中にも存在する事実に勇気づけられた。

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