第12話


 夜になって寝床に着くと、長い夢を見た。鏡に映る俺は、随分幸せそうに絵筆を握り、思うに任せて絵を描いていた。が、手元を見ると画材道具などはなく、周囲を見回すと無機質なコンクリートで囲まれた牢獄に居て、黴臭い匂いを嗅いでいた。鏡の中は異空間につながっていた。中に映る世界に憧れて見とれていると「ガシャン」と大きな音を立てて鏡は粉々に砕け散っていた。

 俺は悪党どもと一緒に牢獄に閉じ込められていると思っていたが、気が付くとそこは潜水艦の中で、外にはサメや毒針を持つアカエイや電気ウナギなどの危険な魚がいるのを肌で感じていた。

 しばらくすると、艦内の空気が薄くなり、息苦しく感じた。さらに、船体には亀裂が生じており、外の水が流れ込んできた。俺は潜水艦を浮上させるため、気蓄層からバラスト・タンクに空気を注入する操作をしてみたが、故障しているのかうまく反応しなかった。最早、絶体絶命となっていた。

 船員たちは艦長の俺の責任だと詰り、責め立ててきた。険悪なムードに俺は苛立ちを覚えていた。元はと言えば、潜水艦の整備工の責任であり、彼らの点検ミスに起因していると思っていた。俺は自分の不注意を棚に上げ、船員たちと激しく口論した。このままだと、体力を消耗し命を削るのは必至だと考えられた。

 美しい女性の船員が苦しむ様子を見て、俺は手を差し伸べたが船体が激しく揺れると、彼女の姿が視界から消えた。同時に、不吉な予感で心臓が高鳴り、哀切な気分になった。空気がいっそう薄くなり、死を覚悟するしか選択肢がなくなった。不思議にも、艦内には船員の数と同じだけのしゃぼん玉が浮かんでいた。

 しゃぼん玉は、虹の光彩を宿しており美しく目に映っていたが、俺は一つ破裂するとともに、船員の一つの命が消えていくのを直感で知っていた。しゃぼん玉は最後の一つになり、それが俺のものと分かった。俺は息苦しい艦内にいて、もがき苦しんでいた。最後のしゃぼん玉が破裂するのを予感したタイミングで、眠りから目覚めた。

 夢の中にいて、リアルな展開を経験し、夢だとは思えなかった。焦りと戦慄に支配されていた。眠りから目覚めたときは、汗をびっしょりとかいていた。

       ※

――女の裸を描いて渡せ――という、大男の要求をはねつけると、再び攻撃対象が俺になり、以前にも増して激しくなった。脇腹を小突かれたり、足をかけて転ばされたり、風呂場で熱湯を浴びせられたりもした。風呂場では、様々な模様をした刺青を鑑賞できた。大男の背中には、画家の鑑識眼で見ても見事な昇竜の絵が描かれていた。俺は、大男の乱暴狼藉を恐れながらも、昇竜の美麗さに見とれていた。

 風呂に入るのは週に二日と決まっていたが、大男は手下に命じて俺に嫌がらせするようにさせていた。裸の俺は、文字通り無防備だった。一つのあざが薄くなるころに、新しいあざができる繰り返しとなり、俺はいつも心と体に痛みを感じながら、刑務所で生き延びてきた。

「俺が欲しいのは、女のマンコだ。お前のケツを差し出せと、言っているわけじゃない。できるだけリアルに描け。無事に過ごしたければ、俺の命令を聞け」大男の要求は執拗に続いた。

 大男が臆面もなく「マンコ」と言葉にするたびに、心臓の動悸は激しくなり、皮肉にもペニスが硬くなるのを実感した。俺自身が、女に飢えて渇きを覚えているのに気づかされると、赤面しつつも、空虚感と孤独が胸の内を支配しつつあるのが理解できた。世界は吐きそうな猥雑さの塊であり、俺はそこにいる珍獣に他ならなかった。

 予測不能の恐怖に支配されていた。刑務所内でも、望めば外部から成人雑誌を差し入れてもらうのは可能だった。抜け目のない大男が、そんな事実を知らないとは考えられなかった。

 醜悪で不条理な現実は、俺の心の垣根を越えて侵入し、内奥部まで蝕むのではないかと危ぶんでいた。俺は、あまりのおぞましさで身震いした。大男は欲望でできた巨大な塊であり、羞恥心を感じない魯鈍な化け物のごとく、俺の上で君臨していた。だが、恐怖感は大男の醜悪で貪欲な口に放り込むための餌にしかならなかった。俺が声を大きくして叫び、いくら恐れを示したとしても、誰も助けてはくれなかった。

 刑務所には、ヌード写真などの猥褻写真を持ち込むのは可能だったが、当然ながら無修正写真を持ち込むのは禁止されていた。大男は、明らかに欲望のはけ口に、画家の俺を利用しようとしていた。

 男にとって女は、恋愛対象になるだけではなく、玩具にも成り得た。風俗産業が成り立つのは、男の多情な側面の支えとして、女が用いられていたのを俺は知っていた。だが、男の要求は、理不尽としか考えられなかった。俺には、俗悪さと恐怖が……、同じ種類のものに感じられた。

 ヴァレリーは『芸術論』で「人間の姿態を対象とする芸術家にとって、裸体は作家や詩人たちの場合における恋愛のようなものである」と、主張していた。ヴァレリーの言葉と同様に、俺は裸婦画に『トリスタンとイゾルデ』や、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』と同質の――恋愛の美――を投影していた。それは、必ずいやらしいものではなく、可憐なものであらねばならなかった。

 目で見た世界を紙や布地に写し取る作業で生計を立てるのは、俺には滑稽に思えていた。写実的な絵を描く時でも、自分のマインドやハートを投影しないで味わいのある絵画は完成しないと考えていた。絵画の本質を理解していたのは、刑務所の中では俺だけだろうと思っていた。大男は身勝手に、絵を描くよう求めてきた。

 一度でも承諾すれば、何度でも同じものを求められるのは目に見えていた。俺は、大男に要求されるたびに断り、殴られ続けた。画家としてのプライドは粉々に打ち砕かれようとしていた。 一枚の絵画は、一話完結の物語だった。見る者の想像をかき立てる深みが必要だ――と、俺は考えていた。裸婦画であっても、単に猥褻なだけのものに美術的価値を見出すのは不可能だった。

 俺は、独房に戻って大男の要求を思い出すと、亜美の身体のラインを思い出した。さらに、鉛筆で絵にしてみた。大男がマンコと言っていた部分も、予想以上にリアルに描けた。が、亜美の全体像は、どうみても卑猥には見えず、花のごとく美しい鉛筆画が、特別な霊力を秘めているかに思えた。

 自分にとっては、紛れもなく秘宝の価値があった。しかしながら、他人の目に触れるのが恐ろしくなり、細かくなるまで破るとゴミ箱に捨てた。俺は、背徳の虚しさを感じていた。香しい亜美の胸元に顔を埋めて泣きじゃくりたかった。悪臭を放つ肥溜めの世界から、一刻も早く抜け出したいと念じていた。

 俺は――本物の悟り――とは、純粋な童貞の美であり、旺盛な知的探求心を持ちながらも、肉欲の愉楽に対する飢えを感じない心構えだと知っていた。それなのに、無欲恬淡としてはいられず、女の尻に憧憬の念を抱く、自分という存在が酷くみっともなく思えていた。俺は――通底部分では、大男と同類ではないか――そう思うと、自分自身に恐怖心を感じた。

 無実で収監される――という、過酷な現実を俺は抱え込んでいた。それが酷い深手であるのは、自覚できていた。鉛筆画を描き続けるのが、傷を癒してくれると考えていたのに、いくら絵を描いても傷口は塞がらず、痛みを感じ続けていた。

 独房のコンクリート打ち放しの無機質な壁は、いつ触れても冷たい感触がした。俺は、人の温もりを欲して求めていたが、冷たい壁に阻まれ続けていた。小さな机の上には、空き缶に造花を挿していた。

 俺は、平積みに重ねた本の一番上にあるジャン・コクトーの『ぼく自身あるいは困難な存在』を開いて読んだ。本には、同時代の芸術家の人物論や、コクトー自身の死生観が書かれていた。死について、深く考えてみよう――と思った。

 死が、単なる観念ではなくリアルな現実に感じられた。自由を求めながらも叶えられない今の自分は、肉体は生きていても魂は死んでいる気がしていた。俺は真昼の亡霊であり、生ける屍にしか思えなかった。

       ※

 時間は、俺の味方をしてくれなかった。醜悪と害意の存在する場所で、冷たい空間に胸が圧し潰されるのは必至だった。大男の獣性を感じさせる声が、放心状態の俺を我に返らせた。俺の耳には、大男の筋肉質な肉体と同様に、獰猛かつ狡猾に鳴り響いていた。

 俺はいくら殴られても、画家としてのプライドだけは手放したくなかった。が、理不尽に殴られ続ける状況からは逃れたかった。そこで一計を案じた。俺は、刺激的な女の絵ではなく、心の安らぐ風景画を描いた。鉛筆画は、自分でも納得できる出来栄えだった。

「この絵を大事に持っていると、必ず金になる。それに、自然を描写した絵を見ると、心を癒す効果が得られるよ」

「馬鹿にしているのか、お前は? そんな保証はどこにもないだろう。なめた口をきくとどうなるか、お前に思い知らせてやろう」と、大男は迫って来た。胸の動悸が激しくなった。俺は、こんなところで心臓を酷使したくなかった。

 大男から、顔面を殴られた経験がなかったが、このときばかりは力任せに顔面に痛打を浴びた。痛みを我慢し、立ち上がろうともがきながら、霞んだ目で見ると、大男は仁王立ちになり俺の顔を見下ろしていた。内耳に、血液が煮えたぎる音が響き、顔面を激痛が走った。反撃するよりほかに自分を救う手立てがないのを悟った。

 俺は立ち上がると、怒りに任せて大男に突進した。再び大男は、難なく俺を叩きのめすと

「俺に楯突くのは、百年は早い。身の程をわきまえろ」と怒鳴りつけてきた。

 俺の胸は、強い恐怖心で圧し潰されていた。大男から攻撃された時に、いつも絵を描くのに必要な両目と右腕を庇っていた。が、よりによって目を負傷したため、周囲の光景が片目でしか見えなくなっていた。

 そばにいた他の男たちの顔には、俺の苦境を察する様子は見受けられなかった。彼らは、とばっちりを恐れて大男に手出しできなかったのが真相だった。

 途方もない屈辱と失敗に呆然とし、打撃を受けたため、俺は正気を失っていた。俺は忌まわしくも汚らわしい檻の中の獣に向かって怒りを吐き出した。「お前なんか、ろくでなしの馬鹿に過ぎない。惨めな落伍者に他人を殴る権利はない」

 俺は今まで、侮辱されたときには冷静に振舞い、自暴自棄な気分のときでも耐え忍べる人間こそが人格者だ――と、考えてきた。だが、我慢の限界に達すると、理性のダムは脆くも決壊していた。

 大男は「お前の吠え面を見てもつまらない。ここじゃあ、強がりは通用しない。よく覚えておけ」と、捨て台詞を吐いた。

 俺が、ケガを医務室で診察してもらうと、医師は、柔和な表情で俺を見ると「眼窩底骨折なので、手術が必要です。しばらく医療刑務所でケガを治すのに専念してもらう必要がありそうです」と告げた。部屋の隅では、人相の悪い刑務官が見張っていた。

 大男は他の受刑者を脅して暴行の罪を擦り付け、身代わりの男が懲罰房に入れられたのが伝わって来た。身代わりは、懲罰房に入れられると、他の受刑者との接触が完全に断たれていた。俺は、懲罰房に入れられた男を考えると、刑務作業が受刑者の更生に役立つだけではなく、働くという営為が人を救うものなのか――と、思弁していた。

 大男は受刑者たちに「罰を恐れるのは臆病者だ」と。嘯いていたが、――鋼鉄の鎧を身に纏っているかのごとく――大胆な言動ができるのは、他人を身代わりにしていたのが原因だった。見た目以上に奸智に長けていて、手ごわい存在だった。

 野生のサルは縄張り意識が強く、自分の領域を侵害されると、すぐに喧嘩し抗争にまで発展するのは、本で読んだ経験があるので知っていた。俺は大男の態度を恐れると同時に――理性が機能しない素のままの状態だと、人間でも闘争本能の赴くままに他者を攻撃したくなるものなのか?――と首を傾げていた。

 人間はサルより進化しているが、同様の問題がありはしないかと、漠然とイメージしていた。――大男――ではなく、――俺――の方が異常だとしたら? いくら考えても、そんな現実はない気がした。

       ※

 医療刑務所に移送が決まった時は、仲間にケガをさせられて、動物病院に保護された哀れなチンパンジーのような気がしていた。

 ケガの功名とでも言うべきか、医療刑務所では誰も俺に嫌がらせをするものがいなかった。しかしながら、環境が変化して周囲の顔ぶれも違ったため、塀の中の孤独を強く感じさせられた。刑務所は、冷暖房の利きが甘く体調にも悪影響があったが、移送先の医療刑務所は、空調機器が正常に作動していて過ごしやすかった。

 医療刑務所は、外観や建物の内部が刑務所というよりも病院に似ていた。医療刑務所の中は、天井も壁も床も見渡す限り真っ白で、診察室も内科、外科、精神科、泌尿器科などが分かれており、総合病院にいるような印象を受けた。一般の病院と同様に、医師は白衣を身に纏い、カルテを見ながら診察した。

 受刑者の中で、ケガや内臓疾患のある者の他にも、精神障害者や薬物中毒者、アルコール依存症の者なども、医療刑務所に収容されていた。監視の目は張り巡らされていたものの、ここでは医師や看護師、刑務官まで親切に接してくれた。

 医療刑務所の独房で、テレビの教養番組『大宇宙の中の美しい星・地球』を見た。第一回目は『神秘なる宇宙~ビッグ・バンから地球誕生まで』と題して放映された。宇宙物理学者は「私たちの宇宙は、およそ百三十八億年前に誕生して以来、爆発的膨張を続けています」と説明すると、ビッグ・バンから始まり、数多くの銀河が形成されるのが映像で流された。

 物理学者によると、地球のある太陽系は四五億六八〇〇万年前に、一酸化炭素、シアン化水素、アンモニアなどでできた分子雲の重力崩壊が原因で形成された――と、説明されていた。地球は、原始太陽系の星雲内でミニ惑星が衝突を繰り返し、四五億四〇〇〇万年前に誕生している。

 第二回目の放送が待ち遠しくなりながら一週間が経過した。第二回は『生物の誕生と進化~人類はいかにして登場したか』と題されていた。

 生物学者は「地球上の最初の生物は三五億年前の海で発生しました」と告げると、画像を指し示した。さらに「生物は……、有機化合物のアミノ酸が火山活動による熱や落雷によって生じる電気の作用で長い年月をかけて生物に変化したのです」と。続けて説明した。

 画面には、生物進化を表すイラストが大きく示された。人類の先祖は、単細胞生物→多細胞生物→無脊椎動物→脊椎動物→魚類→両生類→哺乳類と進化していた。哺乳類では、ネズミのような小動物からサルへと進化し、やがて人類が登場している。説明によると、人間の先祖は、爬虫類や鳥類であった時期がないので「人類には、遺伝的にトカゲやカラスであった記憶の痕跡がない」との内容だった。

 生物学者は、番組の最後に「生物進化は完全に解明されたわけではありませんが、私たち人類が原初的な生物から生成変化を遂げて、今日生きているのは間違いありません。生物は単独で生存できるものではなく、他に生かされて存在しています」とコメントしていた。

 俺とは、何者なのか? 今、自分を認識する主体が、俺という存在なのか?――俺は、真剣に考えているうちに、存在自体が……、絵画と同様に脳が描き出すイリュージョンではないかと、イメージしていた。

 芸術の創造性は、世界のすべてを包み込むほどに壮大で、未来を望ましく変化させる強力なものであって欲しかった。俺は現状の不具合に悩みながらも、大宇宙や生物や人類について想像をめぐらした。深く考える営為が、俺のプライドを支えていた。そうして、あれこれと考えながら一週間が過ぎていた。

 第三回目の放送は『未来への可能性』が、テーマとなっていた。第三回では物理学者と哲学者が対談し、今日の地球が抱える問題を指摘する内容となっていた。

 物理学者は、司会者の「人類滅亡の可能性はありますか?」との質問に答え「何もしないでいると、人類が絶滅する可能性は一〇〇パーセントです」と告げると、テレビの出演者たちは驚きを露にしてざわついていた。一転して出演タレントが原因をクイズ形式で答える動きとなった。

 タレントたちは「環境破壊」「戦争」「伝染病」「自然災害」などと回答した。生物学者は出演者の回答を褒めながらも「もっと物凄い事態が、この地球には起こり、人類だけではなくすべての生物が確実に絶滅するでしょう」と断言した。スタジオに女性タレントの悲鳴が響いた。

「ただし……」と、物理学者は続けた。「人類は、確実に絶滅しますが……。時期については明確には分からないのです」

 司会者は、予想外の答えに驚きの表情を浮かべながら「どうして、それが確実だと言えるのですか?」と、問いかけた。

「ウェーゲナーの大陸間移動説によると地球上の陸地は、パンゲアという一つの巨大な大陸でした。つまり、パンゲアの状態から地殻変動を繰り返し、現在に至っています」

「それが、人類滅亡と、どのように関係してくるのでしょうか?」

「実は、地球は再びパンゲア大陸になり、生物の生息できない環境に、変化すると考えられています。パンゲア大陸は、地中の至る所から、マグマが噴出する焦熱地獄ですよ」

「恐ろしいですね。それは、いつごろ起きるのですか?」

「二億年前にパンゲア大陸は分裂し、現在の状態になっています。無論、次に大陸がパンゲアと同様の一つの巨大大陸になるのも、何億年も先になります」

「我々が生きている間に、何かあるのではなさそうですね」

「さらに、私たちの太陽系が属する天の川銀河は、隣にあるアンドロメダ銀河と四〇億年以内には、衝突すると考えられています」

「本当に衝突するのですか? でも、随分先なので安心しました」

「ですが、巨大隕石の衝突や、太陽の黒点運動の活発化などによる被害は、もっと早く起こる可能性があります。時期は分かりませんが……、何も対策しなければ人類は必ず滅亡するでしょう。我々の環境がいつ破綻しても不思議ではない――、いわゆる薄氷を踏むような脆弱な基盤の上に立脚している事実を忘れてはいけないのです」

 スタジオは、重たい空気に包まれて静まり返った。CMの後で、司会者は哲学者にマイクを渡した。

 哲学者は「今や科学が進歩し、あらゆる物事が解明されています。人類同士がいがみ合っている場合ではありません。手と手を合わせて、考えられる限りの難局に向き合い克服する努力こそが未来に可能性を開くのです」と話しながら、物理学者に同意を求めた。

「まさにおっしゃる通りです。科学的にとらえた現実の方が、現実味がなく思えるのは残念ですが……。それが、揺るぎない事実でしょう」

「人間が純粋に生物学的存在なら、人間の限界を超えられないのです。が、人間には神の似姿に例えられる――創造的知性――があります。それが、救いだと思います」

「お二人のお話をお聞きして、人類同士いがみ合ってはいられない。戦争なんかしている場合じゃないと思いました」

 哲学者の問いかけは、人間の生死への問いでもあった。他人の命を奪うのは、許されざる悪事だと思いつつも、存在の不思議を考えずにはいられなかった。テレビを見ながら、俺は――絵画は、純粋に哲学的でありうるのか――と、思弁していた。

 俺は、自然の美しさを知り尽くしていたつもりだった。芸術家こそが、創造の御業を再現できると信じていた。映像で見る宇宙の美しさは――存在の本義や如何に――と、問いかけてくる哲学的で神秘な美しさを感じさせた。大宇宙、生物進化、人類の未来……、これらの稀有壮大なスケールに比べると、自分が矮小な存在に思えた。

 時代は、変化しつつあった。新聞報道では、人工知能がプロ並みの絵画を描いて話題になっていた。人が冷遇される――人間不在の時代――が、世界を飲み干そうとしているかに思えた。医療刑務所にいる間に、俺は事件以外の物事を深く考えていた。世界内存在としての俺は、世界の影響の外側にはいられなかった。

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