第11話


 面会室に、思わぬ人物が訪ねてきた。俺が部屋に入ると、アクリル板越しに、真正面に座っていたのは、画壇の実力者・西山大膳だった。家族以外では、面会が必要か否かの事情が勘案されるので、許可が下りるまで時間がかかった――と、西山は説明した。西山の厚情に頭が下がる思いだった。

「どうだ? 元気にしているか?」俺は西山に励まされた感動で、胸が打ち震えていた。知人の多くは、厄介ごとに巻き込まれたくないのか、刑務所に訪ねて来てはくれなかった。

「絵は、描いているかね? 画家にとっては、描き続けるのが命綱だ。――人生いたるところに青山あり――という言葉を君なら知っているだろう。君は、今の場所に居てそれを見つけられたのかな。私は、君の豊かな才能が枯れるのだけを案じている。君の身の上に何があったにせよ、君を心から信じている。君の絵は、悪人が描ける絵ではない。私は、君が絶望して、心の目を曇らせやしないか、それを心配している」

「西山先生の言葉の一つ一つが、重たく感じられます」俺は、西山大膳と言う尊敬する巨匠が、打算のない真実の言葉で、励まそうとして必死な様子に気付くと、落涙していた。

 西山に勇気づけられた俺は、鉛筆を手に取るとデッサンを続けた。独房の様子や、刑務所の樹木や、監視塔など、目につくものを描いていると心を落ち着けられた。画家の本分は、目で見て描写するという習慣にあった。

 ゴッホとゴーギャン、モネとルノワール、ユトリロとモディリアーニなど、高名な画家同士で仲が良かったというのは知っていた。彼らはお互いを認め合い、競争する構えで高め合っていた。が、俺には同年代で仲の良い画家はいなかった。俺が声をかけても、向こうが恐縮してしまい対等な付き合いにならなかった。

 俺には、西山大膳という大先輩で尊敬できる人物が、何かと気にかけてくれていた。西山は「天才は天才を知るという。だから、いずれ君にも同年代のライバルが現れて、親友とも呼べる存在になるだろう。私がこの世を去っても、今辛抱していれば、真の理解者に出会えるだろう」と、予言めいた話をしていた。

 西山大膳が若い頃から、親友の本郷龍治と競い合っているのは知っていた。俺には、お互いに影響を与え、高め合う二人のライバル関係が羨ましく感じられていた。

       ※

 人間同士の喧嘩は、他愛ない諍いが原因になるケースが大半だ。価値観の相違、他人との比較、相手への強要、人格への批判、裏切り等々が、原因となり埋めようがない溝を作り出してしまう。俺は、佐々や伊達との間に、同様の軋轢はないと考えていた。

 俺には、二人の人間を殺害する動機はなかったにもかかわらず、警察は証拠を捏造し自白を強要すると、凶悪犯人として痛罵を浴びていた。――一寸先は闇――と言うが、視界が効かない現実に、何度も唖然とさせられていた。

 地獄の深い階層にどんどん落ちていくのは、俺の善良さに見合わない対価だった。今は誰よりも、自分自身を救わなければならない――俺は、自分の中心にある何者かに、何度も呼びかけてみた。

 刑務所の通路を歩きながら、俺は佐々が死ぬ前に告げていた話を思い出した。佐々は

「俺たち三人でよく遊び歩いたが……、もしお前が伊達と友だちでなかったら、俺はあいつとは付き合わなかったよ。お前がいたから、三人の関係がうまく行っていた」と明かしていた。

 俺は、揉め事を嫌い、伊達が乱暴な口調で佐々をやり込めている時は、宥めてばかりいた。正直なところ、周囲に配慮せずに言いたい放題の伊達には呆れる日も多かったが、反面で羨ましく思っていた。

       ※

 地獄の狂態に思えていた刑務所暮らしに一条の明かりが差していた。牢名主のごとく振る舞い受刑者たちに恐れられていた大男が、俺に手出しをしなくなったので、余暇時間に読書したり、ノートに絵をスケッチしたりする心の余裕ができていた。

 目で見たものをデッサンするのをやめて、心の中に浮かぶ情景を描くと、鈍っていた勘が戻って来た。見たものを自身のフィルターを通して描画していると、豊かな気持ちになれた。俺は、胸の内で西山のアドバイスに改めて感謝していた。

 画家を職業にしている以上は、仕事の依頼の有無にかかわらず、絵を毎日描かなければ技量は落ちると考えていた。画家の筋トレは絵を描き続ける営為で、能力を維持できるというのだ。俺は亜美の顔立ちを思い出し、何枚も絵を描き続けた。絵に思いを込めれば、別れた恋人を取り戻せる気がして、丹念に描いた。

 心を込めて絵を描いていると、刑務官が近づいてきて「見事だな。よく観察して、雰囲気が出ている。とても、美しい女性だ」と褒めてくれた。

 読書は、実存主義、構造主義の哲学書から、小説が主体に変化していた。余暇時間にテレビを見る心の余裕もできていた。

 テレビの視聴でも、教養番組からバラエティー番組に見るものが変化していた。入所当時はバラエティー番組を見ても笑う気力がなかった。が、今は難しい事柄を考える気がしなかった。俺は、――一日一日を有意義に過ごす――という方針にも、遊び心の必要性を感じていた。

 刑務所では月に一度、芸能人の慰問があり、映画鑑賞会が催された。慰問に来たタレントの中には、知人がいたので、目と目が合うと屈辱的な気分にさせられた。映画鑑賞は、息抜きにはなったものの、心から喜べなかった。

 その日も講堂には、座り心地の悪いパイプ椅子が整然と並べられており、受刑者たちは肩が触れ合う近さで席に着いた。刑務官が視線を光らせる中で、背筋を伸ばし、タレントの慰問公演が始まるのを待った。

 俺は、あまり期待していなかった。正直なところ、どうせ腰が痛くなるだけだ――と、気が重かった。が、予想に反して、ファニーズの珍太・奔太の漫才は、鬱屈とした気分を忘れさせてくれた。動きの細部や声の出し方まで、ファニーズの芸は、細やかな計算で割り出しているかに思えた。彼らは、観客の心を魅了する天才だった。

 ファニーズの二人は、マイクの前に立った途端、滑稽なムードを醸し出していた。珍太が蟹股でのっそりと動くと、奔太は内股で周りを素早く歩き回った。俺が横に顔を向けると、日頃は気難しい表情しかしない受刑者たちの顔が明るくなっているのが分かった。――皆、笑いに飢えている――と、俺は思った。

 俺が刑務所に入ってから声を出して笑ったのは、ファニーズの漫才ぐらいだった。舞台に立つ二人は堂々としていて、テレビで見るよりも面白かった。

「おい、お前は落ち込んだ時にはどうしている?」珍太が問いかけると、奔太は口を尖らせながら、キョロキョロする様子を見せて

「落ち込んだ穴倉から、こんな風に這い上がっているよ」と、頭の上の空気を平泳ぎのように両手でかき寄せた。

「へこんだ時はどうだ?」

 奔太は、器用な手つきで裏側から金槌でへこみを修理する素振りをした。

「暗くなった時は?」

「明かりを灯せばいい」奔太は、部屋の電灯を点ける仕草をした。今度は、強く引っぱり過ぎて、照明紐が千切れて確認する動作に滑稽味があった。

「じゃあ、最悪の気分の時は?」

「最高の日の出来事を思い出して、そこに近づければいい」

 最後に、二人の漫才師は、声を合わせて「どんな状態でも、気の持ちようで改善できるのさ」と叫ぶと、肩と肩を鉢合わせた反動で、左右にぴょんと飛んで見せた。奔太が大袈裟に転んで、舞台の上をゴロゴロと身体を回転させると、会場は爆笑に包まれていた。

 ファニーズの――暗い気分の二人――と題する漫才は、刑務所では微妙なテーマなので、野次が飛び交うのではないかと、俺は危惧していた。が、会場は笑いと拍手に包まれて、和やかな雰囲気になっていた。

 この日以来、俺はファニーズのファンになり、テレビでも楽しみに見るようになった。彼らの漫才は、いつも教訓めいていたが、嫌味は感じられなかった。

       ※

 運動時間に、二チームに分かれてソフト・ボールをやった。俺は、ピッチャーで打順は九番バッターだ。キャッチャーの構えるミットに正確にボールを投げ込んだ。俺なりに速い球、重い球を使い分けて打者を打ち取った。が、相手チームの四番バッターにツー・ラン・ホーム・ランを打たれ二対一に逆転された。

 キャッチャーは野球経験者なので誘導が上手く、俺はミットにめがけて大きなボールを放り込むだけで良かった。周囲は、俺に「打たせて捕れ」と指示した。八回裏になって敗色が濃厚になった。攻撃側に転じ、俺の打順が回って来た時に焦りが生じて、空振り三振に倒れたため、逆転の可能性を潰してしまった。

 試合は膠着状態が続き、俺たちのチームは負けた。チームメイトは敗因をピッチャーのせいにした。俺はチームメイトに責められると、呼吸が荒くなり、喉に激しい渇きを感じていた。胸の鼓動は激しくなり、腕や脚がぶるぶると震え出した。自分を失った感覚になり、身体の至る所にぴりぴりと痺れを感じていた。

 俺は恐れを感じると、たいていの場合、寒気を感じていた。が、このときは何故か、誰にともなく怒りを感じ、徐々に身体が熱くなり始め、大汗を流し、言葉が人間の放つ言葉ではないかに思えてくると、気が遠くなった。――いつまで、こんな日が続くのかと案じていた。怒りの声を発する彼らは、野生に戻ると、爪と牙を剥き出しにして、俺の身体を深く刺し貫きそうに見えていた。

 受刑者の生活に、隠遁者の暮らしをイメージしていた俺には、すべてが驚きの連続だった。ここでは、絵の技量や知識は意味を持たず、すべての空間が恐怖や不安や焦燥感を集めて造形したパッチワークでできていた。刑罰に欠かせない要素が、無実の俺には心身にダメージを与えていた。

 刑務所の個室には、洗面所や寝具やテーブルに加えて、テレビが一台置かれていた。テレビの報道番組を見ると、二つの殺人事件の謎解きが行われ、元刑事や犯罪心理学者、芸能人らが推理し、――犯人の心の闇を解明する――として分析が行われていた。

 彼らに言わせると、犯人の俺は……、究極のサイコパスなので、他人とは異なる尺度で世の中を見渡している――と指摘していた。俺は、唖然とせざるを得なかった。

 番組には、芦原美術出版の殺された佐々の同僚として、保坂と小山田の二人がインタビューされていた。

 保坂が「私は、大友小六という画家の佐々さんへの思い入れの強さを不審に思っていました。どこかよそよそしくて、不自然でしたね」と答えると、小山田も同調し

「よく、うちの社員にお菓子の差し入れをしてくれましたが、疚しさがあるから、余計な気遣いをしていたのかと思うとぞっとしますね。あれも、当社の女子社員が目当てだったのかもしれません」と話し、二人で視線を合わせていた。

 俺は、芦原美術出版を訪れて応接室に通された時に、二人と話した経験があった。佐々と打ち合わせをする前に雑談しただけだったが、二人とも有名画家の俺にひたすらぺこぺこしていたのを覚えていた。

 テレビに出演中の彼らは、売名のためというよりも、本気で俺を疑ったうえで、正義感から憤りの言葉を口にしているかに見えた。俺にはそれが余計に辛く感じられた。

 世界は数多くの不条理に支配されていて、簡単には動かせない重い鉄の扉で閉ざされているため、非力な人間には何一つ改善できなかった。俺は、悪事をしでかしていないにもかかわらず、衆人の監視にさらされ、笑いものにされていた。

 テレビに出演していた芸能人の男は「こういう男が世の中にのさばると、不安で仕方がないですね。僕は遺族感情を慮って、死刑にするのは当然と考えています」と、堂々と主張していた。出演者のほぼ全員が男の主張に同調し、俺好みの美人タレントまで「恐ろしい」と肩を震わせた。俺は、事件の恐ろしさもさるものながら、報道の横暴さに慄然としていた。

 事件は恐ろしいが、俺は恐ろしい男ではなく、彼らの主張するような――狂気の画家――でもなかった。真相は闇に葬られ、虚偽の色に塗り替えられていた。

 俺は、現状以下の最悪の事態はない。おぞましい思いとも決別できるだろう――と考えていた。しかし、世の中は過酷な状況を嫌というほど、見せつけた。髑髏の顔をした死神が、大きな鎌を持って命を刈り取ろうとしていまいか――と考えると、嫌悪と戦慄を覚えていた。

 終わりのない悪夢はないが、俺は自分自身を顧みて、底なし沼に足を踏み入れていながらも気づきもしない愚か者をイメージしていた。

 静寂の内側には神秘があり、喧騒の内側には醜悪と狂乱があった。だが、物音ひとつしない沈黙は、恐怖の空間だった。俺は都会の喧騒に憧れるとともに、愚かしさが懐かしくなっていた。埃の舞う薄暗がりで、独房のベッドに一人で寝ていると、部屋の中が閉所恐怖症を起こしそうに狭く感じる日があった。

       ※

 世界に神が存在するのなら、悪人の存在を見過ごさず、透徹した目ですべてを見抜いている――と、俺はずっと信じていた。が、何の手違いなのか無実の俺が監獄に収容されて、他人の温もりからも隔絶されていた。

 人間の男性は一回の射精で一億~四億個の精子を放出する。一方で女性は、卵巣に二〇〇万個の原始卵胞を蓄えて誕生し、月経が始まる思春期ごろには一八〇万個が自然に消滅する。生殖適齢期には二〇万個の卵子があり、一カ月に千個ずつ無くなっていく。

 誰と出会って生殖行為を行って、受精し出産に至るかは正確には予想できない事実を考えると、俺にはセックスが神秘に満ちたものに思えた。愛し合い生命を宿すのは、無限の可能性を秘めていた。俺の子孫が芸術家になるか、聖職者になるか、政治家になるか、パートナーとの出会いや性行為のタイミングによって時々刻々と変化していた。

 愛も性欲も人類にとっては、疎かにできない生々しくも不可思議な内実を含んでいる。厳粛たる事実を否定できるものが存在するとは、到底思えなかった。俺の世界観では、愛し合う営為と、薄汚れた猥褻行為とは異質だった。

 生殖行為は、生物全般にあてはまる普遍的な法則であり、愛する者同士が結ばれるのは、軽蔑すべきものでもない。むしろ、新しい生命の創造を前提とした場合には、崇高な営みにも考えられた。

 刑務所では、食欲の世話はしてくれるものの、性欲に関しては、欲求が存在しないかのごとく扱われた。二五歳の俺にとって、女っ気のない場所で暮らすのは苦痛でしかなかった。早く出所して、亜美に会いたいと切望し、塀の中の無粋な現状から視線をそらしていた。オナニー以外に性欲の解消手段がない毎日に、俺は苛立ちを感じていた。

 女と酒があれば、恐怖と不安に打ち勝てそうな気がしていた。しかし、高嶺の花と同様に、二つとも俺の手の届かない場所に存在していた。人は欲しても簡単に得られないものに憧れを抱き、何としても手に入れようとする。娑婆では二つとも簡単に手に入れられる代物でありながら、刑務所内ではそうはいかなかった。

 自慰行為は、甘い官能美とは無縁の空疎な営みだった。さらに、自涜による惨めな心境は、俺には耐え難く感じられた。ギリシャ神話では、愛の神・エロスは、美の女神・アフロディーテの息子として描かれているのを思い出した。愛のない性行為は、美しさとは無縁の遠吠えであり、空砲でしかなかった。

 大きく怒張して、どくどくと脈打つペニスは、手ごろな玩具には成り得なかった。射精する都度、愛し合う営為への憧憬の念と、虚しさとで胸が張り裂けそうになっていた。オナニーの快感は、一時のもので、愛の交歓にある余韻はなく、殺伐とした意味合いしかなかった。俺の心には、ぬめぬめとした快感よりも、柔らかな温もりが必要だった。

 刑罰の本質とはどんなもので、効果のほどは如何なものか――と、のんびりと考えている気がしなかった。俺は、芸術家として大所高所からものを言える立場になく、受刑者として罰せられるべき存在だと、周囲から見られていた。無実か否かの真相は、俺の胸の内にあり外側には存在していなかった。

 俺が一人でいると、いつもの大男を中心に複数の受刑者が周囲を取り囲んで凄んできた。独房から外に出るのを億劫に感じる日が多くなった。

「お前、人並みに人殺しだってなあ。虫も殺さねえ顔をして、相当な悪だ」

「全部、警察の誤解だ。俺は無実だ」

「そういう嘘を言い続けながら、刑務所で死んだ爺さんがいたな」

「酷い話だな」

「お前は、女の色っぽい絵を専門に描く画家だとも聞いた。俺にも、飛び切りエロいのを描いてくれ。お前なら、想像力で会ってもいない美人女優でも、裸にしてアソコまでリアルに描けるよな」

「無茶を言うな」

「俺はあの子が良いな。朝ドラのヒロインをやっていた。えーと、名前は何だったかな」

 俺は、どんなに強要されても、断り続けた。芸術家としてのプライドだけは、捨てたくなかった。それだけは、手放したくない希望であり、命綱でもあった。

 大男には、他人の時間を浪費させるのに何の抵抗も感じない人間に特有の無神経さと、根拠の分からない自惚れがあった。俺は戦慄を感じながらも――魯鈍さではなく、繊細さこそが美の本質だ――と、心の中で叫びたくなっていた。

       ※

 不自由は、間違いなく刑罰だった。自由とは、水や空気と同様に、普段は存在価値に気づかないものの、欠乏すると息苦しさや渇きに気づき、なくてはならない事実に思い至る。自由を奪われるのを欲する者は、自分を見失っている者だけだ。観念で描く世界に比べると、刑務所の現実は恐ろしいほど生々しかった。自由を奪う拘束こそが、最大の刑罰だった。

 刑務所暮らしが長くなると、外で買い物したり、好きなものを食べたり、旅行に出かけたりできるのが、どれだけ素晴らしい日常なのかを痛感させられた。四六時中、監視の目にさらされると、手足を延ばしたり、欠伸をしたりするときにも、周囲が気になった。俺は、狭い塀の中を周回する暮らしに飽き飽きしていた。

 刑務作業後に、独房に戻るときに見る刑務所の廊下は、古い時代の遊郭を連想させた。遊女たちの多くは借金苦が原因で、見知らぬ客への性的サービスを強要されていた。

 他の受刑者たちは、罪の咎めを受けるため、この場所に収監されていたが、俺は不条理によって囚われの身となっていた。

 俺は、自身の境遇を遊女の境遇に当てはめると、人生の悲哀を嫌と言うほど実感していた。俺は――檻の中の獣ではない――と叫びたい心境になる日が多くなった。

 気持ちを強く持たなければ――と思いつつも、現状を受け入れてこのままムショ暮らしをした方が気楽に感じられる日もあった。これ以上、綾香に迷惑をかけたくもなかった。俺は名声を求め、豊かな暮らしを求め、理想の恋人を求めてすべて叶えてきた。随分、欲張りな人生だった――と、老人のごとく達観できれば、気が楽になるのが分かった。

 今まで、綾香と一緒に面会に来ていた亜美が刑務所に来なくなった。俺は亜美が、気の強い綾香に促されて、しぶしぶ面会に来ていたのを見抜いていた。綾香が「自分が兄貴の無実を証明して見せるから、安心しなさい」とでも言葉にして、無理やり亜美を説き伏せていた――と想像ができた。

 亜美が面会に来て、帰り際に目にした臀部の膨らみが、脳裏にいつまでも焼き付いていた。俺は、夜に寝床に入るたびに、後姿を思い出して、胸の中が苦しくなった。無意識の内に、強い渇きを覚えていた。再び、亜美に触れられないのか――と思うと、深い悲しみに襲われた。

 刑務所に来た時の亜美は、小声で「気を落とさないで頑張って……」「体調はどう? 風邪を引いていない?」と、綾香以上に気遣いを示していたが、言葉に感情が籠っていなかった。亜美は、俺が別れを切り出し「理想の相手を見つけてくれ」と、告げるのを内心で期待していたのではないかと勘繰った。

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