第10話


 面会室に行くと、透明のアクリル板越しに綾香が座っていた。部屋は、コンクリート打ち放しの無機質な壁に囲まれていた。綾香と向かい合うと、アクリル板に開けられた幾つもの穴が、こちらとあちらとをつなぐ命綱に思えた。手を延ばせば届く距離に居ながらも、透明の遮蔽物が邪魔をし、俺は妹に触れられなかった。

 綾香は、刑務所の雰囲気に合った灰色を基調にした洋服に身を包み、悲しそうな表情をしていた。面会室の隅には刑務官が一人、背中を向けたままデスクの前に座り、ノートを広げて何やら書き込んでいた。

 俺は、今更ながら受刑者の悲哀を実感した。しかし――いったい何をしてこんな場所に居て、こんな時間を過ごしているのか――という気分が抜けず、外にいる人間との接触によって、いっそうの理不尽を感じていた。

 綾香は差し入れとして、現金の他に、切手や数冊の本、タオル、シャンプー、タバコを持参してくれた。さらに、茶封筒に入っていた五万円の金も有難かった。理由は判然としないが、タオル、シャンプー、タバコの持ち込みは禁止されているので、俺の手には届かなかった。

 受刑者の毎日の生活は、思い描いていたほど退屈なものではなく、刑務作業に一日の内七時間内外が割り当てられていたので、のんびりとしたものではなかった。娑婆の暮らしと異なり行動半径は狭く、終日に及ぶ監視の目が気になった。

 刑務所では、朝昼晩の三食とも麦飯が出された。白米を食べ慣れていた自分には、食感がパサついているかに思えた。学食の日替わり定食を想像させるメニューは、可もなく不可もなしといったところだった。ただし――臭い飯――というほど、不味くはなかった。麦三分、米三分の配合は、意外にも醬油をかけた焼き魚との相性が良かった。

 食堂で隣り合わせになった男に「お前は何をしでかした?」と尋ねられたとき「俺は何もしていない。冤罪だ。信用してくれ」と咄嗟に返答すると、男は

「冤罪だって? なるほどなあ。殺人か? 放火か? そうとう重罪を犯したみたいだな。そういう奴ほど――俺は無実だ――と、言い張るもんだ」と、俺を睨んだ。

 刑務所内での主張は誰の耳にも、真実を伝える言葉としては届かない様子だった。無実なのに重罪に問われる――という展開は、明らかに司法システムの不備を示していた。

 俺は牛の反芻みたいに、何度も二つの事件を思い出し、アリバイになりそうな出来事を記憶の中から探し出そうとした。それと同時に、真犯人らしき人物を探し当てようともがいていた。

 アリバイが見つかったとしても、当局が刑事事件の一事不再理の原則に従って、実体審理が行われそうもない状況だ。俺は最悪の状況下で――何としても無実を証明し、再び画家としての栄光を取り戻したい――と考えていた。刑務所の壁以上に、司法の分厚い壁に阻まれないかと思うと、気が変になるのを予感していた。

 俺は、敗北感にまみれて苦しんでいた。佐々を救えず、伊達を救えず、自分自身を救えない――俺――に、何の価値があるのか? 生ける屍――のごとく、無目的に生きるのは、誰か他人の人生であるかのように思えていた。

 どうしても二人を殺害した犯人の正体を突き止めたい。自分の無実を証明し、輝かしい画壇に戻りたい――と、念じながらも、監獄の呪縛に囚われた俺は、身動き一つできなかった。

       ※

 受刑者に課される刑務作業は、木工、印刷、洋裁、金属、革工などの各業種から、適性に応じて職種が割り当てられた。俺は画家で彫刻家でもあるので、木工が指定作業となった。大男は印刷作業を割り当てられていたので、作業中は気を休められた。

 箪笥の製作では、難しい木彫部分は俺が担当した。芸術作品に必要な創造性とは皆無に思えつつも、腕が鈍るのを遅らせる効果ぐらいはありそうな気がした。俺は作業に取り掛かると集中し、誰よりも精緻なものを作ろうとした。

 指導員は「初めからは、うまく行かないが、慣れれば今よりも上達してくる。それまでの辛抱だと思えば良い。ただし、手を抜くなよ」と、俺を励ました。が、作業が始まると「たいしたもんだ。どこで覚えた?」と、質問してきた。

「子どもの頃から、図工が得意でした。粘土を捏ねたり、大工仕事をしたりするは、今でも好きです」と、俺が答えると、指導員は驚いたように

「手つきといい、仕上がり具合といい、とても素人とは思えないよ」と、俺を褒め称えた。

 刑務作業には作業報奨金が支払われるものの、一ヶ月に一〇〇〇円から三〇〇〇円なので、何かの足しにはならない。技術のないものでも、長く入所している者は三〇〇〇円支払われていた。俺の刑務報奨金は、入所時の一〇〇〇円から、二〇〇〇円に増えていた。報奨金を有難いと思うほど、感覚がおかしくなっていた。

 俺は、自らに課した苦役の理不尽さに気付かないまま作業に勤しんでいた。自分はどこを目指し、何を求めて進んでいるのか自覚しないと、満たされないのは自明でありながらも、薄ぼんやりとした小さな明かりを見つめて生きていた。

 刑務所では、必要なものは無料で支給されるが、文房具、石鹸、タオル、下着、書籍などは売店で購入できた。ただし、刑務所の売店で売られているものは、スーパーマーケットやコンビニエンス・ストアとは、比較にならないほど高額で、受刑者が直接購入できないので不便だった。日用品や飲食品の購入希望商品をマーク・シートに記入し、刑務官に手渡すと、後日になって商品が届けられるシステムだった。書籍は刑務所図書館を利用すると、一週間に三冊まで借りられた。

 手紙に関しては、受発信が可能だったものの、外部と共謀して逃亡や、証拠の改ざん、隠滅などを防ぐため、検閲が行われた。無論、手紙の内容に暗号が書かれていると、発信できなかった。とはいえ、世話になった企業や画商、画家などの知人には、無実である真相を手紙の中で切々と訴え続けていた。

 逮捕される以前は、刑務所を動物園のように考えていた。檻の中の耐え難い退屈と、人間らしからぬ糞尿にまみれた屈辱の生活を予想していた。刑務所暮らしは、俺の想像していた状況よりも自由があった。正確に言うと、不自由と自由とが混在する世界だった。監視の目は至る所にあり神経を消耗させたし、いじめは陰湿だったが、ここは地獄ではなく、煉獄の試練が課される場所だった。

 俺は寺で見た地獄絵図を思い出した。死後に悪人が裁きを受けるという、地獄の有様は戦慄しかなかった。頭の中では、無実にもかかわらず――改心しなければ叫喚地獄で猛火に焼かれて苦しむ羽目になるのか――と思うと、背筋が凍り付いていた。

 刑務所図書館では、ほとんど同じメンバーが出入りしていた。大男の支配下から逃れるのに、俺は図書館を活用し、出所後に知力が衰えないように備えた。受刑者たちの大半は、図書館でも漫画か週刊誌を熱心に読んでいた。が、哲学書や宗教書を熟読しているのは、皮肉にも死刑囚たちだった。

 図書館で見つけた本に、刑罰に関する――応報刑論――の考え方が書かれていた。本には、犯罪に対する刑罰としての「絶対的応報刑論」、犯罪防止のための刑罰と考える「相対的応報刑論」、悪事を法律的に処罰すべしと捉える「法律的応報刑論」の三つの立場が論じられていた。

 俺は罪を犯していないので、そもそも罰を受ける立場ではなく、真犯人や罪に陥れた者こそ処罰を受けるべき対象ではないか――と考え、――姦計の罪、誣告の罪はどうなるのか――と、思量していた。

 刑務官たちは、俺が考え事をしてもたついていると「早くしろ」「もたもたするな」「聞こえているのか?」「返事をしろよ」と、命令口調で指示した。高圧的な態度は、ひどく失望させた。

 殺人事件の犯人のレッテルを貼られていたので、出所後に――俺の描く絵は売れるのか――と、考えると不安が頭をよぎった。

 俺は大学時代に興味本位でアルバイトをした経験があった。金属加工場での軽作業や、コール・センターでの電話セールス、植木の剪定、喫茶店のウエイターなどをして、稼いだ金を画材の購入に充てていた。だが、何一つとして、絵を描く以上にはうまくできなかった。

 金属加工場では「もたもたするな」と怒鳴られ、コール・センターでは「声に張りがない」と叱られた。俺は、自分を根っからの芸術家で、絵や彫刻でしか成功できないと考えていた。自分のしでかした悪事の報いを受けるのは、自業自得だが他人の罠にはまって喘ぐのは、不条理でしかなかった。

 画家の生活は、自己管理で成り立っていたので、夜更かししたり、朝寝坊したりの不規則な暮らしをしていても、誰からも咎められなかった。それが逮捕されて以来、学生時代のような生活に規則正しさが戻っていた。今まで不規則な生活をどこか間違っている――と、心の中で感じながらも惰性で続けていたので、この点だけは有難かった。

 図書館で絵のアイディアを考えている時に、『記憶の宮殿』について書かれたものを見つけた。記憶の宮殿――の表現に美術的なイメージを見つけると、俺は本を貪るように読んだ。内容は、記憶術について記されていた。

 記憶術は、古代ギリシャの抒情詩人・シモーニデスを開祖としている。シモーニデスは、宮殿で詩を朗読した後、外に出た時に大地震が発生し、建物の屋根が落下して中にいた貴族たちが大勢死ぬ事故に遭遇する。

 遺族たちが故人を埋葬するのに、死体の損傷が激しく身元を判別できないで困惑していたところ、貴族たちが座っていた位置を正確に記憶していたシモーニデスが個々の死体が誰のものか言い当てる。

 シモーニデスは、それぞれの場所と貴族の特徴を結び付けて覚える――記憶術――を使っていたとされている。

 俺は『記憶の宮殿』について知るうちに、シモーニデスの記憶術を使ったミステリアスな絵画を創作してみたくなった。レオナルド・ダ・ヴィンチは『モナリザ』『最後の晩餐』『受胎告知』などの絵の中に、メッセージを暗号として残している。

 場所とイメージを結び付けて覚えるシモーニデスの記憶術は、創作意欲をかき立てた。ただし、一枚の絵画に一冊の本を結び付けるのは、単語の数量を計算すると、絵で表現するのに物理的な困難を伴うのが予想できた。

 俺には――観音経や般若心経などの短い経文とゆかりの寺――や、日本国憲法の条文と最高裁判所――などの限られた組み合わせしか想定できなかった。それでも、自分のアイディアを面白く感じ、誰も絵を見て記憶に役立つ魔法を仕掛けている事実に気づかないだろう――と、内心で得意げになっていた。

 文章のイメージと場所を結び付けるので、俺がミステリアスな記憶の宮殿を描いても、説明なしには、すぐに意味を解読できないだろう――と、想像するのは愉快だった。あらゆる作家は、創作に伴う愉楽によってしか救われない孤独な存在ともいえた。

 記憶の宮殿をイメージした絵画の鉛筆画は、スケッチブックに幾つも描いていた。場所に結び付けるので建造物の敷地図や間取り図が必要なため、図書館で閲覧可能なものしか精細には描けなかった。ただし、言葉から沸き起こるイメージを絵にするのは、童心に戻れるので苦にならなかった。

       ※

 塀の中の孤独は、人間の本質とは異質だった。冤罪で刑務所に入っている人間が何人いるのだろう? 同じ刑務所で無実なのに収監されているのは俺だけではないか――と、考えていた。他の受刑者は、何らかの罪を犯し刑罰を受けるために、ここに来ていた。そう考えると、周囲に大勢の受刑者がいても、俺の孤独感は消えそうもなかった。

 受刑者は、常に意識を研ぎ澄ませている必要があった。敵は塀の内側の至る所に存在していた。不躾な態度、不用意な言葉、自分を破壊させかねない些細な過ち。自分の行動を律し、本心を読まれないようにし、沈黙を守らなければならない。だが……、沈黙は芸術家の本性に反し、沈黙こそが非創造的な恐怖でもあった。孤独も、沈黙の内懐にでんとして居座り続ける魔物だった。

 今いる場所には、法を犯し糾弾されて刑罰を受ける者たちばかりだった。社会的には、最底辺の人間の集まりに見えると、それだけで気が滅入った。受刑者に会うたびに、何をしでかした人間なのかが気になった。

 若くして狂気にとらわれる者は散見されるが、狂気を胸に抱いて生まれてくる者は皆無だ。人間は皆、成長プロセスのいずれかの時点で、狂気に支配され、犯罪に手を染める。社会的貧困や、周囲の無理解と疎外感、誤った信念の形成など、要因は様々に論じられていた。

 受刑者は、殺人、強盗、詐欺、強制性交など、何か悪事をしなければ、この場所に存在しないものたちだ。俺は、二人の男を殺した殺人犯として周囲に知られると、一部の者からは警戒されているのが分かった。が、他人を脅迫、恫喝などまったくした経験のない優男の俺は、迫力が滲み出ておらず、受刑者に対して潰しが利かなかった。

 新人の刑務官は、俺の耳元に口を寄せると敬語で「大友先生ですね。私は、あなたの絵やエッセイ集のファンでした。あなたが何に巻き込まれたにせよ、ある意味、尊敬しています。頑張ってください」と励ました。が、その場を離れると、周囲を意識し始めたのか、鋭い目つきに変わっていた。

 俺は、一冊だけ挿絵入りのエッセイ集を出版していた。が、絵や彫刻ではなく、エッセイを褒められたのは初体験だった。エッセイには、芸術への思い入れだけに留まらず、俺の人生観や死生観、社会問題への憤りを書いていた。

 狐につままれた心境になり、小声で「俺に関わらず、あなたはあなたの職務を全うすべきだ」と告げた。本心では、藁にも縋りたい気持ちだった。苦渋の決断だったが、新米刑務官に俺の無実を証明するのに協力を求める気がしなかった。

       ※

 女っ気のない刑務所では、夢の中に魅力的な女たちがでてきた。ある日の夢の中では、独房のドアを開いた途端、三人の女が小さなベッドに腰かけていて「あなたがこの部屋に戻るのを待っていたのよ」「抱いて、優しくキスして」「愛しているのよ」と口々に言葉にした。

 目覚めると、幻であるのを知りながらも、翌朝は何かありそうな気がして、明るい気分になった。だが、それも長くは続かなかった。俺は、現実に気づかされると同時に、酷く落胆し、孤独を味わっていた。群居生活が基本の人間にとっては、孤独に耐える辛さほど過酷なものはなかった。

 外の世界を魅惑的な女の匂いの漂う生の空間とすると、刑務所の中は殺伐とした死の空間に他ならなかった。受刑者には、自由な空気を吸うのも、獣のごとく交尾するのも許されていなかった。この狭い空間に閉じ込められていると、心臓が早鐘のように脈打つひとときや、恋愛の甘いムードや快感などは、何一つとして感じられなかった。

 性犯罪者の受刑者は、周囲から「ピンク野郎」と綽名で呼ばれ「お前のやった女は美人だったか?」「タレントでいうと誰に似ている?」「妊娠させたのか?」「歳は幾つぐらいだ?」等々と、根掘り葉掘りと事件について質問されていた。

 刑務官に気付かれないように、声を落として話していたが、ピンク野郎は俺の近くにいたので自ずと、話の内容が耳に聞こえた。ピンク野郎は、初めは躊躇いがちだったが、徐々に得意げな口調に変化していた。露骨すぎて、聞くに堪えない言葉が飛び交っていた。

 話に耳を傾けていると、俺の美的世界観が崩壊しそうになった。俺は、美しい女性の神秘性に憧れていた。彫刻家が石の中に埋もれた美人を周囲の石を削る作業で取り出そうとするように、絵画でも肉体の美よりも、内面の美に魅力を感じて顕在化しようと考えていた。それを言葉にして「自己欺瞞だ」と、不快感を露にされた経験はある。が、批判されようと、事実は偽れなかった。

 俺が亜美の容姿を思い浮かべて悶々として暮らしていたとき、ホステスの畑沼里奈が刑務所を訪ねてきた。前屈みになると、里奈の豊満な胸の谷間が目についた。刑務所の面会は家族以外の場合は許可が必要とされていた。

「その格好で、よく面会を許可されたね」

「急用があるからって、頼み込んだの」

 俺は、里奈の出で立ちや雰囲気に驚いていた。

 里奈は面会している間、艶めかしく唇を何度も舐めたり、少女のように舌をペロッと出して見せたりした。

「大友先生は、お店の常連さんだったし、気になったのよ。出所したら、また店に顔を出して欲しい。あなたの絵の大ファンとして、お願いしているの」里奈は、俺が無実であるのを知っている口ぶりで話し、健康状態を案じてくれた。

 里奈の面会は、緊急性がなかったので、後ろの席に座る刑務官の様子が気になっていた。女っ気のない刑務所にいて見ると、里奈が色っぽく見えた。俺は里奈の様子を穴が開くほど見ながら、面会に姿を見せなくなった亜美の容姿を思い出していた。里奈と亜美には、似たところはなかった。が、人気ナンバー・ワンのホステスを正面に見て、癒されていた。

 俺は、亜美に見捨てられても、里奈なら出所後も受け入れてくれそうに思っていた。女の存在によってしか癒されない痛みがあるという事実――について、刑務所に収監されて初めて知った。里奈は、大きくて綺麗な目をしていた。

「視野がね。随分狭くなったと思っていたら、緑内障になっていたの。お医者さんに尋ねると、失明する可能性があるので気をつけてくださいって言われちゃった。視神経は一度ダメージを受けると、現代医学では回復できないの。こんな私でも、明るく生きているのよ。刑務所にいるからって……、気を落としちゃだめよ」と、里奈は打ち明けながらも俺の身を案じてくれた。

 俺には、里奈が孤独と不安を抱えながら懸命に生きているのが伝わって来た。

「両目?」

「そうなの」里奈は明るい表情で、ケロッとして告げた。

「大変だな。でも、元気そうに見えるよ」

「いつまで、大友先生の絵が見られるのかしら?」

 残念にも――ips細胞による再生医療の研究は進んでいるものの、緑内障の視神経の再生は現時点では望みが薄い――と、里奈は落胆していた。

「医学は、格段に進歩し続けているし、いずれ治療できるだろう。それまでの辛抱だよ」

 角膜や黄斑変性症の再生医療は、テレビのニュースで報道されていて知っていたので、俺は里奈を励ました。里奈は目を伏せて、悲しそうな顔をした。

 俺と同様に、恐怖や不安や孤独と闘う者の姿があった。無関心では、いられなかった。まだ若い里奈の行く末を案じると、頬に自然と涙が溢れていた。俺にとっては、視力を失うのは塀の中の暮らし以上に致命的だった。神仏が超越者なら、何故善良な人間に過酷な試練を課すのか――と、考えずにはいられなかった。

 俺はエル・グレコの『盲目を癒すキリストの奇跡』を思い出した。絵は『ヨハネによる福音書 第九章』のイエス・キリストが生まれつきの盲人に出会った時の一場面を描いていた。

 福音書には――イエスは、地につばきをし、そのつばきで、泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って言われた、「シロアムの池に行って洗いなさい」そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。――と記述されている。俺には、奇跡が何一つ起こせなかった。

 花や樹木の美しさを目で見る喜び、小鳥のさえずりや小川のせせらぎに耳を傾ける安らぎ、香しい匂いを堪能できるひとときや、美味しい料理に舌鼓を打てる幸い、愛する人と触れ合う官能等々……を俺は今まで当然のごとく享受してきた。

 だが、視覚や聴覚や嗅覚や味覚や触覚のどの部分も、巨億の富と交換しても良い部分はなかった。不自由を経験してこそ、自由の有難味が嫌というほど実感できた。

 里奈は、面会室を退室するときに笑顔で手を振ってくれていた。俺は周囲の人間の信頼こそが、何にも勝る宝だと思い知らされていた。

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