第9話


 刑事は顔の前に「捜査差押許可状」を広げ、「令状は取ってある。今から家宅捜索を行うので、しばらく家の外で待機していただきたい」と、俺と綾香を見て命じた。 

  俺は、来るべき時が来たものと観念した。が、俺が犯人である証拠は、何一つ見つからないだろう――と思うと、心の置き所をどこにすべきかで迷いが生じていた。

 平穏無事で満ち足りた暮らしは、ガラス細工の生活に僅かに生じたひび割れが拡大し、安全と安心とを粉々に打ち砕いた。画家としての輝かしい栄光が、くすんで見え始めていた。俺は――何者かに無念にも殺害された二人の親友に比べると、まだ自分には命が残されているだけましだ――と考える構えで、苦しい状況に光明を見出そうとしていた。

「何も、出てこないから大丈夫だ」

「私もそう思う」

「だけど随分、強引なやり方だな」

「悲しいけど、それが警察の捜査の限界なのかな」

 携帯電話が鳴動したので、慌てて取ると捜査に当たっていた署員が「家に戻っていただいて結構です」と告げた。

 家に戻ってから、重苦しい時間が流れていた。俺は、いわゆる悪党ではなかった。それは、誰よりも俺自身がもっともよく知っていた。

 落ち込んだ俺の様子を気遣い、綾香は「今夜は豪華な夕食を作るから、二人でしっかりと食べましょう。おいしいお肉を食べれば気分も変わると思うの」と、笑顔を見せた。俺は、気遣いが嬉しかった。いつまでも子どもだと思っていた妹が、自分よりも大人のしっかりとした自覚を持つ、優れた女性になっていた。妹の成長ぶりが眩いような、寂しいような……、複雑で繊細な気分につながっていた。

 数日後、刑事が訪ねてきたときは逮捕状を手にしていた。二件の殺人事件容疑だと、告げられると、俺は生まれて初めて手錠をかけられた。家からは何も証拠らしきものは出なかったのは確信できた。――いったい俺が何をしたというのか――と、戸惑うと同時に、俺の内面の善良さが相手に伝わらないのが悔しくなった。

 刑事の説明では、伊達の飲んだグラスには、本人の他に奥さんと俺の指紋がついていたのが、決め手となった――と告げた。

 家を出た途端、新聞社のカメラマンたちが一斉にフラッシュを焚いたので、目がくらんだ。まるで、現実味のない夢の中の出来事のごとく思えた。思考が廻らず――これから、俺はどうなるのか――と、ぼんやりと考えていた。

「馬鹿野郎。死んじまえ」「地獄に落ちろ」と、口々に誰かが叫んでいた。男たちにとっては、間違いなく正義の叫びだろう――と感じられたが、自分に向けられたものなので、やるせなかった。――いったい彼らに、俺の本当の姿が見えているのか?  心の中の思いが伝わらないのか?――と、考えずにはいられなかった。

 死刑を声高に希求する群衆から、警官たちは身を挺して守りながら道を開いていた。俺には、群衆が勇敢な運動家ではなく、暴徒にしか見えなかった。正義の鉄槌は、自分にではなく暴徒たちが受けるべきだ――という奇妙な感覚にとらわれていた。

 手錠をかけられた俺は、警察車両の後部座席に座らされると、首をうなだれていた。他から見れば、ニュース番組で見たような光景があり、間違いなく犯罪者に見えているだろうと、如実に感じていた。信頼回復のために尽力し、希望に向かって走り続けた俺が得たものは、失望と落胆でしかなかった。両手を組み合わせながら、正気を失うまいとしながらも、全身からすべての気力が抜け落ちてゆくのが分かった。

 俺は逮捕され、指紋と写真をとられた。指紋は両手の掌紋までとられ、写真は正面の他、真横と左斜め前からの三種類のものを撮影された。刑事は「念のため、DNAもとらせてくれないかな?」と尋ねた。ただし、任意――なので、俺は言下に断った。

 逮捕容疑は――佐々元親と伊達一志の連続殺人――だった。私物はすべて警察官に取りあげられ、施設側に預けた。警察署内にある留置場には調理施設がないため、食事は刑事たちが購入する弁当やパンが出された。量も少なく、初日から空腹を感じ続けていた。鉄枠に金網のついた留置場は、映画で見た情景にそっくりだった。

 嫌疑をかけられてから、心のどこかで覚悟していたものの、強いショックを感じて胸が痛くなった。俺は、手錠を外されると、刑事の向かい側の席に腰かけるように命令された。

 刑事は黙秘する権利があるのを告げながらも、巧妙な心理戦を仕掛けてきた。

「どうだ? お前は二人の男との間で葉子という女をめぐって三角関係にあったのが、分かっている。今でも、その件で憎んでいたんだろ?」

「黙秘します」明らかな邪推だったので、内心ではうろたえながらも、淡々と答えた。

「おい、妹のヌードを描くのがそんなに楽しいのか?」

「黙秘します」明らかな誤解だ――と、声を大きくして伝えたかったが、芸術を理解できない捜査官に何を言っても、ハートに届かない気がした。

「二つの事件の証拠は出そろっている。お前に良識があるのなら、今更申し開きできないのは分かるだろう? 二人も殺しているんだ。死刑か求刑される可能性もある。が、今すぐに罪を認めれば、十年前後の求刑に減刑できるだろう」

「その件でも、黙秘権を行使します」

 二つの事件の内、伊達の事件では現場で直に見ていたので、様子を知っていた。が、佐々の事件現場でのイメージは、漠然と頭の中で組み立てたものでしかなかった。事件現場の写真を取り調べにあたる刑事が目の前に見せた。俺は吐き気を催すと同時に、涙が溢れ出ていた。

 写真の中の佐々の死体の下には血だまりができ、髪には小石が付着し、首筋にある傷口から血液が流れ出した跡がついていた。顔色は、青ざめていたが、目は大きく見開かれていた。

「我々に、下手な演技は通用しない。仏さんを気の毒に思う感情があるのなら、罪を認めるのが救いになる。さもないと、仏さんが浮かばれない」

 黙っていると、激高した深沢刑事は、机をドンと叩き「おい、白状しろ。どう考えても、お前しか犯人はいない。俺には分かっている」と、迫って来た。

 火野刑事は「深沢さん、落ち着いてください。決めつけるのではなく、言い分を聞いてあげるべきですよ」と、横から口を挟んだ。

 俺は、火野刑事の穏やかな視線が演技によるものとは思えなかった。深沢刑事は、俺から目をそらすと、火野刑事の頭をゴツンと殴り「俺の方針に従えないのなら、お前には刑事をやる資格はない。署長に言って、左遷してもらう。黙っていられないのなら、ここを出ていけ」と凄んだ。

 取り調べの時間は八時間以内と決められていたが、一回目は時間ぎりぎりまで粘られて、俺は気分が悪くなった。火野刑事は好感が持てたものの、深沢刑事は悪鬼の形相で俺を追いつめた。――正義とは、他人を責める構えではなく、理解しようと努める胸の内にあるのではないか――と、漠然と感じながらも、声に出せなくなっていた。

 二回目の取り調べでも、意地でも罪を認めないつもりでいた。が、執拗な追い込みに疲れると、いくら粘っても、結局のところ有罪にされ、最悪の場合には死刑が求刑されそうな気がしてきた。減刑の誘惑に抗えずに、よりによって二十日間の拘留の最終日に「俺がやりました。動機は、刑事さんが先ほど言われていた通りです」と、言葉にしていた。取調室で話した内容は、供述調書にまとめられていた。

 パニックが焦燥感につながり自責感情を呼び起こした。俺は取り乱し、罪悪感の後に恐怖心を覚えていた。取調室を出た時は、ほっとしつつも無感動状態になっていた。歯車は変化し、ぎしぎしと不快な音を立て始めていた。

 逮捕されて三日後には、送検されたため、葛飾区小菅にある東京拘置所に拘留される身となった。何人もの警察官に囲まれて、護送バスに乗せられると検察庁に連行された。しばらく「同行室」で待機させられた後で、検事の執務室に通された。取り調べでは警察と、まったく同じ話を聞かれ、俺は、力なく「間違いありません」と答えていた。

 俺は自分が犯人ではないにもかかわらず、警察との神経戦に負けていた。凶悪事件を起こすのが罪なら、無実の人間を罪に問うのは、いかほどの罪なのか――と、想像していた。法律上の罪を上回る魂の罪を誰が犯し、何を問おうとしているのか――と、頭の中で何度も考えていた。

 悲しいかな俺は、今まで犯罪が発生し犯人が逮捕される報道にふれるたびに、警察の側に立って考えていた。当局がミスをするとは思っていなかったので、犯人の悪人面を見ると警察のお手柄を称賛し、凶悪犯罪の場合、重罪が申し渡さればいいと考えていた。が、自分が犯罪者扱いされるうちに、犯罪以上に錯誤の恐ろしさを痛感した。

 警察が仕掛けた心理戦に負けた俺は、起訴されて刑事裁判の日程まで決められた。弁護士を解任すべきがどうか迷ったものの、綾香の意見を聞き入れて続投してもらった。綾香は

「今の状況なら、誰が弁護士になっても同じ結果にしかならない」と、後ろ向きの意見を伝えつつ「私に任せて……」と、付け足すのを忘れなかった。

 俺は心のどこかで、無実の人間が逮捕されて苦しんでいるのを真犯人が知れば、胸に痛みを覚えて、名乗り出てくるのを期待していた。だが、現実は甘くはなかった。犯人がサイコパスなら、良心の呵責などとは無縁の存在で、むしろ俺の苦悩を面白がり、自分の身の安全を確保できた事実に歓喜しているのが想像できた。それでなくても、現代人は驚くほど計算高く、奸智に長けていた。

 収監、労苦、刑罰、不自由などについて、思い浮かべるだけでもぞっとした。あまりの不快感に胃液が込み上げて吐き気を催すぐらい、そんな展開を思うのは辛かった。

 裁判所では、陰鬱なまでの静寂に支配され、無実が証明できないままに、この場に立たされている状況への憤りを感じずにはいられなかった。裁判所の正面の壇上には、三人の裁判官が腰かけて、俺を見下ろしていた。胃液が込み上げてくるのを感じた。俺は、裁判所の威圧感や、独特の雰囲気に呑まれていた。

「主文、被告人・大友小六を死刑に処する」裁判官は、厳かな口調で主文を読み上げた。裁判は終始、厳粛な雰囲気の中で行われたものの、俺の頭の中では茶番芝居の違和感が生じていた。時間が経過するほど、刑を申し渡された事実が真実味を帯び、胸の中は悲壮な気分に包まれていた。俺の運命は、風前の灯にも思えていた。

 俺は只々、愕然として腰が抜けそうになった。日本では、二人の人間を殺害すれば、死刑が求刑されると考えられていた。俺の周辺では、弁護士の手腕を評価する者も存在したが、納得できなかった。警察が、無実の人間を犯人に仕立て、真犯人を見逃すのが正義なら、他のあらゆる人間には善悪の分別ができなくなるのは当然とも思えた。

 最悪の状況に直面しながらも、頭の中だけは目まぐるしく働き、絶望の向こう側に何が待ち受けているのかと、想像していた。死刑が、終わりのない地獄への旅路に思えると、俺は気が遠くなっていた。

 俺の脳裏には、十字架を担わされたうえで鞭打たれ、ゴルゴダの丘に追い立てられるイエス・キリストの姿が思い浮かんだ。愚かな人間には、正邪の区別がつかないのか――と、同じイメージが何度も旋回していた。

 皮肉にも裁判の様子は、法廷画家が一部始終を筆写していた。同業の画家であろうと、手心を加えて体裁よく描いてもらえるわけがなかった。それでも、法廷画家の男は俺の顔を見ると、気の毒そうな表情をしながら、軽く一礼してくれた。

 絵は翌日の朝刊に掲載されるだろう――と、俺は想像した。法廷絵画が大勢の人の目に触れて後世に残るのは耐え難く思えた。裁判を描いた絵は、磔刑に処せられたイエス・キリストの絵とは異なり、神々しさを持たないだろう――と、思った。考えているうちに――死刑――の重さが、何故か絵空事のごとく思えてきた。きっと何かの間違いだろう――誰かがすぐにでも、犯した過誤の大きさに気付いて、救いの手を差し伸べるだろう――と、考えたかった。

       ※

 実刑が確定すると、俺は窓に金網の付いたバスに乗せられ、刑務所に移送された。刑務所の正門は、赤レンガ造りでヨーロッパの古城を連想させる威風堂々とした面構えで、俺の目前に迫って来た。――今日からこの場所で暮らす――という実感が、まったく湧き起らなかった。

 バスを下車すると、刑務官は足を止め、真剣な表情で俺の顔を見ていた。俺は自分が天秤にかけられているのを理解した。顔をよそに向けたり、卑屈になったり、睨み返したりしてはいけない。俺と刑務官は、お互いの心の奥を覗き見ようとしていた。ボクサーが試合前に、対戦相手とフェイス・オフするように――男と男は、顔を見合わせた瞬間に相手の力量が分かる――と、思っていた。

 歩きながら、俺の視野に青空に流れる幾筋もの雲が黒くなり、太陽光を遮り始めていたのが気になった。風が湿気を帯びて、小雨が降って来た。頬を雨が濡らした。俺には亜美の涙雨のように思えた。

 俺は、彼らが役人といっても、侮れない連中であるのをすぐに思い知らされた。刑務官たちは、誰一人として柔和な表情を見せず、背筋を伸ばし威圧的な顔をして、受刑者たちに臨んでいた。俺の視線の先にある護衛官監視塔は、管理する側の威厳の象徴であるとともに、受刑者の自由を奪う恐怖の象徴のごとく聳えていた。

 刑務所の門を潜ると、たちまち刑務官の怒鳴り声が耳に響いた。俺は命令されるままに、講堂に連れていかれ、持ち物検査と身体検査を受けた。身体検査では、威嚇されながら全裸になり、陰茎や睾丸、肛門の中まで検査された。身体を前に屈めながら、肛門を広げて見られるのは屈辱でしかなかった。

 囚人服のうち舎房衣はグレーの上衣とズボンからなり、受刑者全員が同じ服を着ていたので個性が感じられず、垢抜けしない無粋なムードが漂っていた。画家として美的空間を常に意識してきた俺には、刑務所に存在する実情自体が拷問に思えてきた。

刑務官たちは、受刑者に威厳を示し、強い口調で臨んでいた。が、刑務所内では受刑者たちの陰湿ないじめが存在していた。塀の内側の世界では、有名画家だという理由だけで、特別扱いする者は誰一人いなかった。

 名声は愚か、俺のすべての可能性と、すべての高貴な芸術作品が塵くずになってしまった。俺が迎えたであろう家庭生活も、最愛の亜美との間にできる子どもたちも、何もかもが墓に葬り去られたのを実感した。

 刑務所では毎朝六時三〇分に起床し、工場で刑務作業に従事する。午後五時に夕食を終えて消灯の九時までが自由時間となっている。逮捕されるまでは、刑務所暮らしの経験がなかったので、想像していた生活とはかなり違っていた。本来なら、死刑囚には刑務作業の義務は科せられていないのだが、俺は自分から作業に従事できるよう願い出た。

 午前六時十五分に起床し、寝間着から舎房衣に着替えると、敷布団、掛布団、枕、寝間着の順に綺麗に畳んで重ね置き、正座の姿勢で点呼を待った。七時になると開房点検があり、終わってから配食係が朝食を配ってくれた。

 朝食と洗顔、歯磨きは、七時二十五分までに済ませ、四〇分に舎房を出る。毎日がこれの繰り返しだった。刑務所では規律が求められ、工場へ向かうときは、黄緑色の工場衣に着替え「一二、一二、一二」と声を大きく張り上げて、両手を肩の位置まで振り上げて行進するように求められた。

 俺はどこにいようと、芸術家で文化人と呼ばれる著名人のつもりでいた。だが、娑婆から持ち込んだ意気軒高とした自惚れは、初日から鼻柱をへし折られていた。刑務所という特別な場所が、自信を強みにして冒険できる世界ではなかった。

 工場までたどり着く途中、刑務官の目を盗むようにして、ガタイの大きな筋肉質な男に脇腹を小突かれた。あばらが折れるほどではないが、激痛が走った。大男の真後ろにいたインテリ風の男が小声で、俺に話しかけてきた。

「お前、あの人に挨拶しなかっただろう? 新入りのくせに生意気だと思われただろうな。せいぜい、気を付けろ。刑務所内のいじめの大半は、なかった事にされている」「どうすれば、あの男とうまくやっていける?」

「挨拶を必ずして、余計な話をしないのが一番だ。それから、あの人の前を歩くな」

「刑務官は何も言わないのか?」

「大ケガをしない限り、関わろうとしない」

「あいつの嫌がらせは……、さっきみたいに小突かれるだけなのか?」

「あの人に、仮に重傷を負わされても、刑務官が見ていなければ証明できない。皆で口裏を合わせて、転んでケガをした事にされてしまうだろうな」

 俺は、自分のいる場所に違和感を覚え、背筋に冷たいものを感じていた。忠告を聞いていたものの、大男は挨拶の声が小さいのや、前を歩いて気づかなかったのを根に持ち、俺を執拗に追い立てた。刑務作業中は私語が禁じられていて、脅されたり、殴られたりもなかったが部屋の移動中にばったり出会ったり、夕食後の余暇時間になったりすると、また殴られないかと不安で怯えていた。

 大男は、すべてが自分の支配下にあるかのごとく振舞っていた。睨まれていたのは、俺だけではなかった。別の男がつかまって痛めつけられていると、自分にすぐさま矛先が向かない状況に安堵して「はっ」とした。俺は、良心の呵責という感情領域を持たない人間を始めて見た気がした。

 観客に想像を絶する恐怖を味合わせるのを目的としたオカルト映画の演出に劣らず、大男は刑務官も手を焼くような怪物であるのが分かった。いったい、この男の内側では、どんな情動に支配され、思考パターンに何があるのか――と思いをめぐらすと、不気味に感じた。

 俺は独房から雑居房に移されてから、大男に何度も殴られ、外からは確認しにくい胸、腹、背中に無数のあざができていた。他人の獣性に対して、これほどまでに何度も戦慄を経験した記憶はなかった。温かい家庭の愛情を注がれてきた飼い犬が、ある日を境にして追い出され、鋭い爪と牙を持つ野犬の群れの中にいるように感じていた。俺にとって睡眠とは、すやすやと安らかに過ごせる憩いの時間だったが、雑居房では何をされるか分からないため、もっとも不安な時間となった。

 大男は、非合法組織の幹部なので、刑務所では幅を利かせ大物ぶっていた。一方、粗暴な振る舞いで受刑者たちから魔王のごとく恐れられていた。すべての言葉は意味を持たず、大男の前では恭順の姿勢だけが求められた。

 刑務官に、大男の素行の悪さを指摘し、俺自身が被害者であるのを証明するためにシャツをまくり、胸や腹にできたあざを見せた。刑務官は

「通常の手順だと、相手にも大友から聞いた件を問いただす必要がある。それで、君に累が及ばないとは限らない。事実が証明できれば、あの男を懲罰房に入れて反省を促せる。どうだ? ケガが、被害によるものと証明できそうか? それで、あの男の態度を改善できそうなのか?」と怪訝そうな表情をした。

 俺は、被害現場にいた受刑者に、証人になってもらうのが困難なのを知っていた。困惑する俺を横目に見て、刑務官は

「過去のトラブルで自作自演のケースがあった。他の受刑者への裏切りであり、刑務官の目を欺く悪事だったよ。大友が被害者かどうか証明できないと、自分たちは迂闊には動けない」と冷たく告げた。

 どん底を経験すると、上りの坂道しか見えなくなるが……、俺には、明確な道筋の見通しが立たなかった。再び、山の頂に到達できたなら、最高の欣悦に酔いしれただろうが……、現状を考えると、はかない夢の中の出来事にも思えていた。

 だが、ケガを見せておいた甲斐があって、俺は男臭い雑居房から再び独房に移された。俺は、一日中休む間もなく、大男の手下に嫌がらせされる展開がなくなった。

 雑居房では、大の男が六人も同じ部屋で寝起きしていた。何のトラブルもない方が不思議な気がしていた。実際に、新入りや目下の者はカツアゲされる――という噂が俺の耳に入っていた。部屋のボスは、直に金品を要求せず、日用品や新聞、雑誌を購買させて巻き上げる手法だ。俺は、刑務所のレベルの低さに呆れていた。

 六人も同じ部屋にいると、音に神経質な受刑者に気を使わないとトラブルになる可能性があった。寝ている時の鼾は無論、足音や咳やくしゃみまで気にしていると、神経を消耗した。独房に移されると、カツアゲされる心配もなければ「うるさい」と叱声を浴びるのも、当然ながらなくなった。

 しかしながら、独房に移されても、安穏としてはいられなかった。新入りの受刑者は――特洗担当――を命じられると、他の受刑者が失禁して汚物で汚れた洗濯物や布団の洗濯を任された。天才画家と呼ばれてきた俺には、屈辱に思えたものの、刑務官に反発するのは許されなかった。

 真夏の灼熱の太陽は、暴力的な力で受刑者たちを容赦なく罰した。檻の呪縛は、奴隷の手枷、足枷にも似て、無実の画家である俺の有り余る才能を封じ込めて、終わりの見えない苦労を強いていた。刑務所の中には、糞尿や、男の汗や、消毒液の胸糞の悪い匂いが、あちらこちらに漂っていた。

 俺は、ライト・ブルーの空がオレンジ色になり、群青色に包まれ、やがて墨汁を流し込んだような闇の色に染まっていくのを眺め、何の感慨もなく過ごしていた。画家の美的感性が衰えないかと、危ぶんでいた。画家なら誰でも――狭い空間に狭い価値しかないわけではなく、広い空間に広大な価値があるものではない――と、経験的に知っている。

 空間の大小で、美しさを推し量るものではなく、木の葉に宿る朝露の一滴にも、素晴らしい輝きを映しているのを見つけるのが画業だと、考えていた。俺は刑務所の陰鬱なムードに閉ざされながら、美的価値を見つけられないでいた。世界から切り取られて隔絶した刑務所の空間は、殺伐として見えていた。

 刑務官たちは受刑者を指導する立場の職員であり、ホテルのフロント係でもコンシェルジェでも、ルーム・サービス担当でもなかった。彼らは、満面の笑みではなく渋面で臨み、優しい口調ではなく威厳のある言葉と振る舞いで、受刑者に臨んだ。過度のサービスを望むのはできないが、せめて人間らしい暮らしがしたかった。

 夜になると、寝苦しい日が続いた。刑務所のベッドは、弾力があるベッドに慣れた身体には硬すぎて寝付けなかった。朝になって、身体を起こすと、必ず腰や背中に痛みを感じた。ほんの少しずつ、暴力への恐怖、喪失への不安、孤独から来る焦燥感が俺を蝕み始めていた。理由もなく涙を流してしまう心の動きは、高いプライドを持つ――天才画家――と、呼ばれた男のものではなくなりつつあった。

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