第7話

 

 俺は、深い悲しみに打ちのめされ伊達の葬儀には出席する気がしなかった。重い気分を抱えながら、俺は喪服に着替えると、葬儀場までフェアレディ・Zを走らせた。伊達の葬儀は、佐々の葬儀に比較して、大きな会館に大勢の参列者が来ていた。参列者の多くは、伊達が経営していた工務店の取引先関係者だった。

 毒殺という死因から、親族は家族葬を希望していたが、工務店の従業員や取引先に「故人を送るために、葬儀は盛大にやりましょう」とすすめられて、やむを得ず大きな会館を借りた――と、奥さんから聞かされていた。

 葬儀の女性司会者は「伊達一志さんは、企業の経営に辣腕を振るいながらも、社員たちのことをいつも考えてくれる優しいお人柄でした。いつも周りを和ませ、常に大勢の人に囲まれていたご様子が瞼に浮かびます。お仕事のお休みの日には、奥様と旅行に出かけられて、数多くの素敵な思い出をつくられてきました」と、涙を誘うエピソードを紹介していた。俺には、酷く無神経な言葉に聞こえていた。

 はたして、伊達は――優しい人柄――だったか? 俺の前では、いつも毒舌で臨み、男らしさを強調する男だった。司会者の月並みな言葉の羅列は、俺には違和感しかもたらさなかった。

       ※

 警察は当初、伊達の事件を自殺・他殺の両面で捜査していたが、奥さんの「自殺する原因が思い当たらない」との言葉を受けて、他殺に絞って捜査を再開していた。さらに、佐々の事件と合わせて、連続殺人事件の疑いを強めていた。

 二人の親友が死んだ事件で、疑いの目が自分に向けられているのを実感した。が、俺は周囲の目とは逆に、見えざる殺人者が命を狙い撃つのは、自分ではないかと恐れていた。火急的な速やかさで、三人の共通項と他人から恨まれる原因と、犯人が殺人までしでかす理由を見つける必要があった。

 俺は闇の中の獣の眼光の鋭さで、見えざるところから命を狙う魔物を想像した。魔物は、俺の身近にいて、凶悪で頭脳の優れた人物だろう――と、想像した。

 三人を恨みそうな人物を思い浮かべているうちに、高校の同級生だった各務葉子を思い出した。葉子は、大学時代の俺のガール・フレンドだった。童女的な顔立ちが内面までうぶで恥じらいある女性に見えつつも、対照的に肉感的な身体つきの少女だった。

 俺と葉子の交際は、大学入学後に始まった。俺は、葉子の壊れそうな雰囲気を傷つけたくなかったので、交際中ずっと身体に触れなかった。交際期間が長くなるにつれて、葉子は俺の煮え切らない態度を嫌い、別れると、佐々と付き合い始めていた。

「葉子と寝た。彼女、処女だったよ。てっきりお前と……」俺は、胸に痛みを覚えると同時に、激しい怒りを感じて佐々を殴りつけていた。

 男女の仲になった後、関係がぎくしゃくし始め、佐々と葉子は別れていた。佐々と別れた後で、葉子と交際したのが伊達だった。伊達は葉子と付き合ってから、肉体関係だけを求め、彼女が妊娠すると「俺は、お前みたいな女と結婚するつもりはない」と告げて、中絶を命じていた。

 伊達とも別れた葉子は、三人と距離を置こうとしたが、俺は彼女の状況を理解し、電話や手紙で何度も慰め続けていた。俺は葉子の内実が純粋な人間であるのを知っていた。ある日、俺は「葉子の実情が不憫になった。もとはと言えば、俺の煮え切らなさが原因だと思う。佐々や伊達を憎まないでくれ。よければ、俺と結婚しないか?  俺なら君の心の傷を癒してやれる気がする」と願い出た。言葉に偽りはなかったが、葉子は涙ぐみながらも

「あなたのような偽善者が一番、嫌いなの」と、俺を詰った。

 俺は、自分自身を偽善者ではなく、善者だと信じていた。だが、葉子に疑いの目を向けて、周辺を調べようとする自分は、紛れもなく偽善者かもしれなかった。

 各務葉子は、大手商社に勤めていた。若くして男に翻弄され傷心している葉子を俺は、追いつめたくはなかった。自分の疑いを晴らすために、誰かを犠牲にする考えは俺には毛頭もなかった。

 綾香が葉子の周辺を調査したところ、警察が容疑者としなかったのは、明確なアリバイがあったからだった。

 二つの事件が原因となって生じた最大の不都合は――不信感――という魔物だった。家族以外のすべての存在が自分の敵のごとく感じられた。犯人の最大の狙いも――俺が周囲の人間を信用できなくなる点――に、ありそうな気がしていた。

「本当は、あなたが二人を殺したのでしょ?」葉子は電話口の向こうで、俺を詰っていた。

「どういう意味だ? 君は俺がどんな人間かを知っていると思っていた」

「私には、あなたは謎が多すぎて理解できなかった。少なくとも、二人は私を愛してくれた。あなたは、私を汚いものを扱うように、遠ざけたじゃない?」

「そうじゃない。君を傷つけたくなかっただけだ。あの頃は、誰よりも君を大切にしたかった。それだけだ」

 俺は怒りが込み上げてきたが、葉子の言動を無視した。嫉妬心のせいかもしれなかった。万一、俺が犯人なら、自分の仕出かした事実を記憶していない多重人格者だ。が、俺には記憶の空白がなく、自分の行動に矛盾がなかった。誰が犯人であっても不思議ではないが……、自分が犯人ではない事実だけは確信が持てた。葉子は厳しい口調で俺を詰問し続けた。俺は、気分を害したまま電話を切った。

 俺は、火のついていないパイプを口に咥え、しばらく考え事をした。顎がだるくなったタイミングで気づき、パイプに煙草の葉を詰めると着火した。俺は無理をしてでも、公衆の面前では画家らしく振舞おうとしてきた。それが、ダンディズムであるとともに、ファン・サービスでもあった。

 俺はいつもバーでは、高級酒をボトル・キープし、公式の場所ではブランドもののスーツを着こなしていたので、年輩の画家から生意気な男だと見られていた。画壇の長老の中には「二五歳の若造のくせに……」と、あからさまに罵る者も存在した。

 それでいて、外車を乗り回さず、クルマだけはフェアレディ・Zにこだわって乗り続けてきた。洗練されたスタイリングや性能の良さに加え、国産スポーツ・カーに魅力を感じていた。俺は、誰に批判されようと、反論せず同じスタイルを貫いてきた。 ライフスタイルは人それぞれだと考えていたし、干渉したくもされたくもなかった。

       ※

 二つの殺人事件は、未解決のままだった。捜査線上に何人もの人間が浮上し、マスコミの報道も過熱し、注目を集めているにもかかわらず、進展が見られなかった。警察当局が、二人に接点のある人物として、再び俺を疑い始めたのは、ナンセンス・ジョークにも思えていた。

 二人の男と仲が良く、社会的地位の高い俺が、どんな動機で人を殺したりできるのか?――と考えると、捜査関係者の想像力のなさに呆れていた。

 俺は二五才で、美術界ではもっとも注目されていた。輝かしい光に照らされて、すべての作品の持つ絶大な力が、俺を永遠不死の存在にするのは目に見えていた。ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチや現代絵画の巨匠パブロ・ピカソがたどり着いた画境に、日本人画家の俺が一歩一歩と近づいているのは、愉快だった。

 捜査が停滞し、しばらく迷走するのは――ありがちだと思った。冤罪に対する世の中の目は、随分と厳しくなっていた。俺の常識では、無実の人間を誤認逮捕する確率はかなり低かった。

 浴室に行くと、俺はスイッチを押した。混合水栓から適温の湯が勢いよく流れ出した。

「先に、風呂に入るからな」綾香に声をかけて、脱衣室に向かった。

 俺は衣服を全部脱ぐと、丸めて洗濯籠に突っ込んだ。シャワー・ルームで身体を隅々まで洗った。バスタブに浸かりながら――二つの事件が解決し、俺の嫌疑が晴れて再び活躍できるよう――に、念じていた。身体を沐浴で清めれば、再出発が可能だ――と信じようとした。俺の考えでは、ありあまる才能のある画家を葬り去るほど、世の中は酷薄にできてはいなかった。バスルームの窓には、マジック・ミラーを貼っていたので、外の景色が見渡せた。

 警察やマスコミに、裸の背中を酷く鞭打たれて、自尊心は深く傷つきながら、自分の猛り狂う気持ちを俺は抑えつけていた。バスルームを出ると幾分、気が楽になった。世界は聖なる空間になる日もあれば、狂気の坩堝と化す日もあった。俺は一つ一つの狂気を暴き、正体を明かす営為によって、すべてを満ち足りたものにしたかった。

       ※

 今日訪ねてきた記者は、少しびくびくしているように見えた。記者は玄関口に立ちながら、後ろを振り返り、質問しながらも、俺が一歩近づくと一歩退いた。それが、俺にはすぐにでも逃げ出せる体勢を維持しているかに見えた。俺は、長身ではあるものの、優男に見えるタイプだ。今まで自分の風貌が脅威を感じさせて、相手を恐れさせたためしがなかった。

「大丈夫ですよ。俺は、少なくとも罪のない人間を殺めたりしないし、取材に来た記者を取って食ったりはしない」

 俺が宥めたにもかかわらず、若い記者はおどおどしながら「それなら、大友さんは事件の真犯人が誰だか、分かりますか? それと……、事件の動機について、何か思い当たる話がありそうでしょうか?」

「今回のような突撃取材ではなくて、共同記者会見ができれば、身の潔白を証明できそうです。個別対応は、仕事の邪魔になるだけで何一つ、メリットがありません。分かりますか?」

「そうですか。社に持ち帰って上司に相談してみます」

「ぜひ、そうしてもらいたい」

「私の一存で決められません。できるだけ、先生の名声が傷つかないように配慮します」

「ですが、今まで伏せ字だった報道が、実名に変わると悪目立ちするし、俺にとっては困ります。営業妨害ですよ。画家としても、死活問題になる。できれば、取材をやめていただきたい」

 俺がまともに質問に答えないでいると、記者は突撃取材で何も収穫がなかったのが不満なのか、冴えない表情をして帰って行った。

 記者が帰った後で、俺はパイプに詰めるハーフ・アンド・ハーフの煙草を求めて外出した。帰る途中に、歩道上を盲人が白杖をついて点字ブロックの上を用心深く歩行するのを見かけた。視覚芸術としての美術は、残念ながら彼らのハートを射止められない。俺は盲人の姿に自分を重ねて、真犯人を突き止められないで暗中模索している自分を憐れんでいた。網膜症で視覚障害を持つ、スティービー・ワンダーの豊かな想像力と明朗さから学びたかった。

       ※

「このままでは、兄貴が疑われて、無責任な報道に潰されてしまう。事件が二つに増えたのは、証拠探しもそれだけ可能性が増えたでしょ。まずは、二つの事件の共通点を調べましょう」と、俺を促した。

「俺の頭の中には、混乱があるだけだ。誰が何の目的で、俺の二人の友人を殺したのか? 俺自身に危険はないのか? 何一つ思い当たらない。俺は無実だから、放置していても時間が解決してくれるよ」

「兄貴が動かない限り、事件は解決しない。そんな弱腰でどうするの?」

「日本の優秀な警察が、犯人に欺かれて、何度もミスを続けるとは考えられないだろう?」

「多分、当局は思い込みに動かされて、犯人の幻影を追い続けている。彼らと同じ事をしなければ事件は解決できるわ」

 仏教では、因果応報という理法が解かれているが、俺のどんな因縁が今の結果を招いたのか、皆目のところ見当がつかなかった。思い上がり? 他者への不信感? 欲心? 俺は、様々な想念と感情をチェックしてみたものの、不条理な、非業な……何かの罠に絡めとられたとしか、考えられなかった。

       ※

 パイプを口に咥えながら、俺は立ち上る紫煙を眺めていた。ベレー帽を被り、パイプを燻らせ、絵筆をピンと立てて構図を考える。一連の動作は、画家らしい振る舞いに見える。テレビに出演した時に、演出家に指示されて格好つけたものの、後で映り具合を確認したところ、ぎこちなかったので、カットして貰っていた。

 俺は、普段ベレー帽は被らないし、構図を決めるときに絵筆をピンと立てて確かめたりはしなかった。ただし、考え事をするときに、パイプ煙草を吸うのを習慣化していた。

 昼過ぎに書斎で、エリック・サティの『ジムノペディ』を聴きながら、物思いに耽っていると、高齢の有名画家・西山大膳が俺の家を訪ねてきた。西山は玄関口で「君は随分と大変な事態になっている。が、私は君の人格を信じている。君の画風には――清らかな愛――がある。私にできる事があれば何なりと言って欲しい」と、俺を励ましてくれた。

「ありがとうございます。西山先生に、そんな風に言われると、励みになります」俺は画壇では、若くして成功したためなのか――アンチ大友小六――ともいうべき画家たちの誹謗中傷に悩まされてきた。

 西山は、濃紺の上等のスーツに身を包み、地味なネクタイを締めていた。生真面目な表情で俺をじっと見ると「君はこれが好きだっただろう?」と、手土産のマロン・グラッセの入った紙袋を手に握らせた。

 画壇では西山大膳は、俺の理解者として面倒を見たり、絵の出来栄えを見てアドバイスしたりしてくれた恩人と言って良い人物だ。西山は、俺と同様に二〇歳で才能を認められて以来、七〇歳の現在に至るまで、画壇のトップを疾走してきた人物だった。それゆえ、立場をよく理解してくれていた。

「君は、罠に嵌められたんだろう。だが、詮索するよりも、自分を強く持つ構えが大事だ。負けちゃ、いかん。いずれ疑いは必ず、晴れるだろう」

 西山は「少し、君の絵を拝見しておきたい。今回の件が、画風に影響していなければ良いが……」と希望すると、二階へと上がった。

「君のアトリエは雑然としているが、これはこれで良い。芸術は、カオスの空間だと、私は思っている。整然としている空間こそが、偽りの空間だよ」

 西山はアトリエの中をぐるりと回ると、描きかけの絵を手に取り

「この絵は、死んでいる。君らしさがない。つまり、今の大友小六は、心の中に不安と迷いがある。そういうときに、画家の君がやるべき心構えがある。何か分かるか?」

「自分を鼓舞して、勇気を持ってキャンバスに、臨めというのでしょうか?」

「そんな風に、自分を偽ってはいけない。苦しい時は大いに悩み、悲しい時は泣けばいい。君は――不安――が芸術のテーマになるのを知っているだろう? 今の君なら、不安や苦悩をテーマに絵を描けばいい」

 俺は巨匠・西山大膳でも、所詮――他人事に対しては、たいしたアドバイスができない様子だな――と思い始めていた。

 しかし、そんな俺の思惑が見抜けないのか、西山は

「理屈はどうあれ、試してみると良い。君なら、画境に達すると信じている。君を失うのは、国家にとって貴重な国宝を失うのに等しい。悲しいかな凡人には、何も分からない。君の絵を見て、君を知っている人間なら、人を殺すような人間じゃないのに気付く。いずれ、現状は打開できると信じろ」と、声を大きくした。

 俺は、西山の力強い言葉を聞いて、感動で打ち震えていた。西山大膳こそが、俺の長年の目標であり、憧れていた人物でもあった。憧れの大物が、俺を勇気づけるのに必死になっていた。

 西山のアドバイスを聞いてから、俺は自分を偽らずに――不安な時には不安な心境を素直に描く――姿勢を心掛けた。それ以来、明るい画風に不安を宿らせず、暗い画風に偽りの希望を投影させない――が、俺のモットーとなった。

 西山は、綾香に向かって「今日は、お邪魔をしてしまったね」と丁寧にお辞儀すると、玄関ドアをゆっくりと開けた。俺と綾香は、西山の姿が小さくなり見えなくなるまで見送った。途中で何度も振り返り、西山は二人に手を振ってくれた。俺は、心から尊敬できる人物に褒められ、励まされると嬉しくなっていた。

       ※

 美術雑誌に掲載された批評家たちの文章を読んで、俺は自分の作品への解釈が多様なものであるのを知った。自分で見出した技法なので、秀作であるのは最初から分かっていた。だが、どのような観点があるのか、正確に理解されているか否かが気になっていた。いずれの作品も正当に高く評価されているのに満足した。俺に比べれば、貧しい芸術家たちは何と惨めだろう――と同情を感じてもいた。

 何よりも事件の影響は、月刊の美術雑誌の掲載内容には、今のところまったく影響していないのに、俺はほっとしていた。――まだ汚名は、挽回できる――と、確信していた。

 二階のアトリエから、階段で一階に下りると勝手口から庭に出た。庭の花壇は、綾香が毎日のように水をやり、世話を続けていた。しばらく、庭に置いた床几に腰を下ろし考え事をした。庭から離れの倉庫に入ると、高校時代からの自分の作品を眺めた。

 二科会主催の美術展覧会で絵画部に、初めて入選した作品は俺の宝物として、倉庫に秘蔵していた。俺は幼少の頃から画才を認められ、絵画コンクールには何度も入選していた。入選作や、表彰状、記念品などは、すべて倉庫にあった。

 倉庫の中をうろつき、過去の栄光に酔いしれた。俺は芸術には、美的感覚以上に、心の中の熱い思いやこだわりが大事だと考えていた。どんな絵も、ある意味で作者の自画像ではないか――と、洞観していた。

 二つの事件が発生して以来、人目を避け引きこもりがちになっていたが、ストレスでどうにかなりそうな気分だった。亜美とも、チャットで連絡し合うだけで会えない日が続いていた。俺は我慢の限界に達していた。

 倉庫から戻ると、俺は身支度を整えてクルマのキーを手にした。

「犯人でもない俺が、人目を避けるのは不自然だ。俺にもプライドがある」と主張し、綾香が止めるのを制止して、電話で亜美を誘い出した。家に籠り続けていては、創作に必要なイマジネーションが枯れてしまうのが実感できた。

 二人の友人が死亡し、苦悩の内に喘いでいても、俺は画家として学び続ける姿勢は、維持していた。それが自分の矜持でもあった。俺は、亜美を誘い美術館で開催中の『ジョルジョ・デ・キリコ展』を見学した。キリコは、ダリやピカソに影響を与えた巨匠で、哲学的な画風に俺も魅了されていた。

 美術館の石段は一つ一つが幅広く、石の表面はざらついていた。亜美と二人で石段を上っていると、周囲の目を引いた。美術鑑賞に来た客たちは、皆こちらを見て何やら囁き合っていた。が、不思議にも、全員遠巻きに俺たちを見ながらも、誰一人近づいて来なかった。俺にとって、美術館は聖域だった。――ここでなら、羽を伸ばせる――と、内心でほっとしていた。

 館内では形而上絵画の代表作と評される『愛の歌』や、ホメロスの『イリアス』の中からトロイ戦争を題材にした『ヘクトルとアンドロマケ』や、不安な心の内を描写した『出発の憂鬱』などの名画を堪能した。俺は今の心境を『出発の憂鬱』に写し見ていた。キリコは、この絵を通じて、薄暗い室内に雑然と置かれた機械的なオブジェが、不安と戸惑いの思考回路をうまく描出していた。

 亜美は、美術館にいる間、真っすぐな視線で絵画を見続けていた。時折、俺が小声で伝える解説を耳にすると「なるほど、そういうものなの」「そう見ればいいのね」「味わいのある深い絵なのよね」と、短い言葉で頷いていた。

 芸術とは、人を感動させる力、記憶に残るイメージ、心を豊かにする情趣であり、単なる日常の愉楽を超えた次元にある――と、俺は考えていた。亜美が絵を見るときの反応は、彼女の感受性の豊かさや、審美眼を気づかせてくれた。

 美術館を出た後で、振り返ると人影がさっと動き、尾行されているのに気づいた。俺は、私服刑事なら危険はなく、邪悪な犯人なら用心しなければならない――と、考えて意図的に人通りの多い道を選んで歩いた。亜美に何かあったら、俺の責任だと思いながらも、彼女には笑顔で臨んだ。

 俺は絵を描いたり彫刻を刻んだりするのが、趣味や実益に適っているだけでなく、ストレスの解消にもなっていたのに気づいた。苦境から自分を救うのは、自分以外にはないと考えてもいた。フェアレディ・Zを走らせると、俺は久しぶりに画材店に行って新しい道具をそろえた。

 モデル事務所に電話して「飛び切り、可愛らしい子を頼む。ヌードを描く気分じゃないから、スタイルよりも、性格が良さそうな子を選んでくれ。予めスリー・サイズと身長……、それと年齢を教えてくれれば、衣装もこちらで用意しておく」と伝えた。数日後に訪ねてきた美術モデルは、予想通りのキュートな少女だった。

 衣装を用意する予定だったが、イメージが湧かなかったので、二人で外出しブティックを訪ねた。結局、少女の希望と俺のイメージが合致する洋服を買い求めた。

「絵が完成したら、服を全部、君にプレゼントするよ」

「ありがとうございます。お気遣いいただいて、嬉しく思っています」

「君は、今時の女子高生と違っていて礼儀正しいし好感が持てる。でも、俺の前では緊張しなくていい。画家の先生に見つめられていると思わないで、優しいお兄ちゃんと、一緒にいて、楽しい時間を過ごしている。そんな気持ちでいてくれればいい。そうすれば、絵の中に君の良さを引き出せると思う。いいかな?」

「はい、分かりました」

 素直な愛くるしい少女だった。少女が家に来ると、毎回ケーキと紅茶でもてなした後で、絵を描いた。俺は、モデルの魅力を全力で引き出すために、あらゆる角度から嘗めるように観察した。頭の天辺から、足の指の先まで眺め終わると、背後に回り両肩の張り具合や丸み、腰や臀部の質感を目視で確認した。鬼気迫る雰囲気に気おされたのか、少女は涙ぐんでいた。外貌の美しさを堪能しつつも、俺は少女の内面の美を洞察する構えで臨んだ。

「君は、素晴らしい。美的価値の権化のように、しなやかさと、繊細さを持ち合わせている。また、モデルになって欲しい。今度は、君の美しさを彫刻で表現したい」

「本当に、楽しい時間を有難うございました」少女は礼儀正しく、お辞儀をすると帰って行った。

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