第3話

 芸術は、疑念に満ちた俗世界を豊かで幻想的な世界に変化させる魔法の力だった。俺が絵筆を走らせると、美的空間を切り取って再現して見せたり、華麗な想像の世界を出現させたりできた。俺の画力は、見目麗しい女性たちの着古した衣類を脱ぎ捨てさせて、新しい魅惑的な衣装に着替えさせる力でもあった。

 俺は、佐々の事件では、村芝がもっとも怪しいと睨むと、動向に注視した。村芝は、横暴な男だった。自分のものにするためには、うぶな女を無理やり脱がせて傷を負わせても平気な男だった。村芝のそばにいても心の距離感を埋められなかった。それでいて、ビジネス・パートナーとして優秀な村芝を切り捨てるわけにはいかなかった。

 画家の俺には、柔和な表情で臨み、来訪時には必ず茶菓子を用意し、絵を絶賛していたが、自社の社員には、辛く当たっていた。俺のアトリエに来た時も、同行していた女子社員を「声が小さい」「丁寧にお辞儀をしろ」「先に出されたお茶を飲むな」「お前に絵を見る目があるのか」と、怒鳴りながら指導していた。

 見てはいられない気分にさせられた。村芝は部下に対して――空気が読めない奴だ――と、叱声を浴びせるが……、俺の見立てでは、村芝こそがもっとも、空気を読めない男だった。

 仕事のパートナーとしての村芝は、俺の絵を正当に評価し、多くの紙面を割いて紹介してくれていた。が、夜になって酒場に出向くと、俺が村芝の口から出る愚痴や悪口を嫌と言うほど聞かされる羽目になった。

「世の中、馬鹿と悪ばかりがのさばっています。皆、どす黒い本心をうまく隠して世渡りしているんでしょう。だから、他人を褒めるなんて偽善ですよ」臆面もなく、村芝は俺に同意を求めた。

「俺はずっと、人は褒めて育てるべきだと思っている」

「私には、賛成できませんね」

「村芝さんに褒められるのは嬉しいよ。むしろ、善意を感じる」口がうまい村芝に褒められると、まんざらでもない気にさせられた。

「だから、あんたはお人好しだと言いたい。今時、珍しいよ。けどな、あんたのそういうところが好きだ。実は、俺こそが大友小六の真の理解者だと自負している。けど、おだてられて舞い上がるようじゃ、本物とは言えない。死んだ佐々は、心にもないお世辞ばかり言う男だった。あいつは死んでよかったと思います」

「それは、言い過ぎだ。村芝さん、まさかあんたが佐々を殺したのではないよな」

「物騒だな。あいつは、自業自得です。多分、一緒に釣りをしていた同僚二人にやられたんですよ」

 最も疑わしいと思っていた村芝は、事件への関与を否定し、独自の推理を俺に示した。俺の頭の中では、混乱が生じていた。村芝には佐々を憎む理由があり、殺人の動機にもなりえると考えていた。それが本人の口から、言下に否定された。

 犯人が「俺が犯人だ」と唐突に明かすとは思っていなかったものの、村芝の説明にも一理あった。殺人では、現場にいたものが最も怪しい――と、考えるのは常識的な判断でもあった。だが、村芝の応答は、予め用意された答えのように不自然だった。

       ※

 事件が影響し、村芝がマスコミで話題になると、中津企画でも素行を問題視して内部調査が行われた。村芝の部下の女子社員が、性的強要を訴え名乗り出た。中津企画の幹部たちは、企業の風評悪化を恐れてもみ消そうとしたが。女子社員は納得せず、警察署に被害届を出したため、事件が表面化した。

 中津企画での村芝の立場は、美術を中心に、歴史、宗教、文学など幅広く、企画立案から、校了までの一連の編集業務の責任者をしていた。画家の他に、大学教授、研究者、文芸評論家、学芸員などとの打ち合わせにも関わっていた。

 俺は、村芝の性的強要事件が表面化する以前から――村芝は、どこか変だ。何か心に深い闇を抱えているのではないか――と、感じていた。

 村芝賢太が女子社員への性的強要で逮捕されたので、俺は佐々の事件の真相も解明されると信じていた。マスコミ各社は、佐々の――凶器なき殺人事件――の真犯人として村芝を名指しし、当局も疑いを強めて、慎重な捜査を進めていた。やっと佐々の事件から解放され、画家としてアトリエでキャンバスに向き合い、亜美とのデートを存分に楽しめる状況が戻っていた。

 アトリエに入ると、油絵の具の揮発性の匂いを鼻に感じた。毎日、アトリエで作業していた日には感じなかった匂いや雰囲気を俺は心地よく、味わっていた。

 絵のテーマとして――闇夜――を選んだ。難しいテーマだが、晴れやかな世界を描く心境にはなれなかった。俺の神経を回復するには、しばらく時間を必要とした。経験的に言って、暗い気分の時に明るく振舞えば、気持ちが明るくなるものではないのを知っていた。俺の傷ついた神経を慰撫するには、暗いテーマこそ相応しく思えていた。

 闇夜と題した絵では、夜の底に沈む都会の街並みと煌びやかに輝く明かりを描くため、六甲山に登り夜景を写真に撮っていた。俺は、写真に映る夢幻的なムードに勝る絵が描けるか否か、不安になっていた。失敗作は絵画ではなく、塵くずと同然に扱われるので神経を研ぎ澄ました。

 俺は美しい夜景に情趣を添えるため、絵筆を手にすると闇を鋭く切り裂く稲妻を走らせた。一瞬の閃光は、肉眼で見たものではなく、写真にも映っていなかったが、俺の気分を象徴していた。

 稲妻のエッジの効いたラインを描くのに、俺はペインティング・ナイフを手にして雰囲気を作り出した。さながら、それは現実の暗部を切り裂き、白日の下に曝すための儀式にも感じられた。

 愛車のフェアレディ・Zは、V6・ツイン・ターボを搭載しており、流麗なスタイリングが魅力的だ。俺は、フェアレディ・Zの助手席に亜美を乗せると、アクセルを踏み込んだ。

 ドライブを楽しんだあと、ホテルのワイン・バーに出向いた。ホテルには、宿泊予約をしていたので二人でいる時間は十分にあった。

 バーのカウンター越しに棚があり、赤、白、ロゼ、スパークリング、フォーティファイド、フレーヴァードなど、多彩なワインの瓶が並んでいた。温かみのある照明が部屋中を包んでいた。都会の喧騒や猥雑さを離れた異空間で、俺は亜美と共にいてワインのフルーティーな味を堪能していた。

 亜美とワイン・バーにいると、自分が一流の人間なのを実感した。気品のある顔立ちに優雅なムードは、殺伐とした生活に彩を添え、潤いをもたらしてくれた。

 高級ブランドのスーツにネクタイを着こなし、年代物のワインを味わえるのも、画家として高く評価されている俺の特権に思えていた。店内は、何人ものカップルが楽しげに会話を交していた。ジョン・コルトレーンのムードあるバラード曲が流されていた。

 俺は、上着を脱ぐとワイシャツを腕まくりし、ネクタイを弛めた。亜美の腕は、細くてしなやかな曲線をしていて、指のかたちも愛おしく思えた。

「綺麗な指をしているね」俺は、亜美の指に軽く触れてみた。

「どうなのかしら?」亜美は小首を傾げた。

「気障に聞こえるだろうけど……、今日は君の可憐な姿に乾杯したい」俺がグラスを手に持ちながら思いを告げると、亜美は恥ずかしそうな顔をした。はにかんでいる時の亜美は、花のように美しく見えた。

 テーブルの上をペンダント・ライトの明かりが照らし、鈍く反射していた。

「君は誰よりも、美しい女性だ」

「嘘でしょ? お世辞がうまいのね」

「それに、こうして近くでよく見ると、君はとても澄んだ瞳をしている。どうして気づかなかったのかな?」

「どうしてかしら?」亜美は、茶目っ気を感じさせる問いを発した。

「きっと、君の瞳の美しさは、絵にできないからだ」

「そうなのかな」

「ああ、心から滲み出ている輝きを見逃していた」

「これからは、見逃さないでね」

「俺は画家としては、他人が羨むほど成功している。だから、審美眼には自信がある。君といると心が豊かになる。創作のインスピレーションをくれるのも、君だ」

 カウンター席の俺の右側に腰かけていた亜美が、自分の左手を右手に絡めてきた。俺は、スーツのネクタイを絞り、背筋を伸ばすと、肩を寄せながら思いを伝えた。

「ずっとそばにいて欲しい。君を逃したくない」俺は、少し前屈みになって、亜美の顔を覗き込んだ。

「ええ、いいわ」亜美は、目を潤ませていた。亜美は、俺の顔を上目づかいで見つめていた。肩に右手を回し、そっと抱き寄せると亜美の唇に、自分の唇を重ねた。柔らかい感触を味わうとともに、彼女の甘い吐息が、俺の鼻腔をくすぐった。

 亜美は紛れもなく最愛の女性だった。俺は悲しむべき事件の直後なので、プロポーズの言葉を失念していた。それでいて、至福の時間を身に纏うと、恍惚な気分に浸っていた。この日の夜は、俺の人生の中でもっとも長く魅惑的なものとなった。ベッドの上で、亜美と愛し合う甘い時間こそが、この世のすべてのごとくイメージしていた。永遠の価値を持つ時間があるとしたら――最愛の人と過ごすひとときこそ――がそれに値すると、俺は一晩中考え続けていた。

       ※

 ビジネス街の一角にある画廊の一室を借り切り、絵の個展を開催した。俺はプロとして認められる前の二〇歳から、毎年同じ場所で個展を開いてきた。最初の個展は、大学の同級生、親類などが訪れるだけのもので反響は感じられなかったが、徐々に俺の絵は注目され始め、近年では個展で展示した何枚もの絵が高額で買い取られている。

 俺は、友人・知人のすべてにDMを送付し、テーマを伝え、作品解説やあいさつ文にも頭を絞って来た。知人以外の集客を増やすためにブログや、SNSの告知も行ってきた。メル・マガのファンも増えていたが、個展が立錐の余地がないほど大盛況なのは、毎年マスコミで取り上げられてきた成果でもあった。

 会場の外には――大友小六油絵展~大いなる世界――の大きな看板が立てられており、通行人の目を引いている様子だった。個展を開催するたびに、何度経験しても、誇らしい気分になった。

 従来の個展のテーマでは、~美しい女~、~光と影のコントラスト~、~自然美との戯れ~などとしてきたが、今回は集大成として、肖像画、風景画、静物画など、あらゆる作品を投入して開催した。

 画廊の洗面所に入って、鏡に映る自分を見た時、髪のセットが乱れているのに気づいた。櫛で髪をとかし、ネクタイを喉元まで締め上げると、にこやかにほほ笑んでみた。有能なアーチストに見えるのを目視で確認後に会場に戻った。

 今回の個展では、目玉作品は会場入り口付近に展示する一〇〇号の大作で、他の絵は三〇号が一枚、三から二〇号が二三枚、サムホール以下のサイズのものが二五枚の計五〇枚を展示した。裸婦画、肖像画、風景画、静物画など様々な絵をテーマごとに並べた。一〇〇号の絵は、フランスのパリを旅行した際に描いた『サクレクール寺院の遠景』と題した風景画だった。

 俺が見たところ、個展会場で客が足を止めて長い時間見ていたのは、亜美の三〇号の肖像画の前だった。誇らしい気分だったが――自分の宝物が奪われてしまわないか――という、相反する感情が芽生えると――売れてほしくない――と思っていた。が、一五〇万円の値段をつけていたにもかかわらず、学者風の男に買われていた。

 画家と呼ばれる職業には、日本画家、洋画家、版画家、イラストレーターなど様々なものがある。俺は、限られたジャンルに縛られない――美術家――を目指してきた。絵の他に、ブロンズ彫刻も手掛けている。亜美の肖像画は三次元化して、いずれブロンズ彫刻にするつもりだ。

 一方で、綾香の裸婦画は、本人が嫌がるので出品を控え、裸像は愛着があるので手元に置いていた。俺は、あくまでも兄として出品していなかった動静にほっとしつつも、自分を……まだ本物の画家になり切れていない青臭い人間のごとく感じ、情けなくなった。

 会場を閉鎖する三〇分前になって、火野刑事が訪ねてきた。俺は――嫌な奴が来たな――と思うと同時に視線をそらした。が、俺を見つけると真っ直ぐにこちらに来て、火野刑事は「随分、盛況ですね。安心しました。実は、捜査の影響が大友さんに及んでいないか、気になっていました」と、小声で明かした。

 火野刑事は綾香と目が合うと、ちょこんと頭を下げて親しそうにほほ笑んだ。――油断も隙も無い男だ――と考えると、俺は火野刑事を見て、不愉快な気持ちになった。

「申し訳ありませんが、警察の方に来られると、個展の良いムードが損なわれてしまいます。早々にお引き取りください」俺が無慈悲に告げると、火野刑事は困惑の表情を浮かべていた。

「お兄ちゃん。あんまりでしょう? 火野刑事は私たちを心配して、様子を見に来てくれたのよ」

「私は、これで失礼します。でも、見に来て良かったです。どれも、素晴らしい作品ですね」

「素人に、判るものじゃない」

 火野刑事は、想像した以上に明るい表情のまま、会場を立ち去って行った。俺は、少し拍子抜けした気分になった。

       ※

 個展が終わると、祝祭の後の余韻が、心に寂寥を感じさせた。会場には、花火大会が終わった後の静けさが戻り、さっきまでは気づかなかった空調機器の音が耳に届いた。親友を事件で失ったにもかかわらず、事件が未解決なまま進展がないのも、心から喜べない一因でもあった。

 思い起こせば、佐々は律儀な男で、毎年個展に足を運び、何点もの絵画を求めていた。ドライな性格の伊達とは異なり、佐々は昨年までは、会場設営を率先して手伝ってくれていた。

 駆け出しのころの画家の収入は、アルバイトしないと生活できないレベルだ。そのころから俺を応援し「お前こそが本物の天才だ」と、惜しみなく称賛してくれた佐々は、かけがえのない親友だった。佐々の訃報を知らされた時ほど、不存在の空虚を強く感じた経験はなかった。

 気鬱な状況で開催した個展だったが、出品作品は完売し、懐に十分な収入が入って来た。今回も、個展は成功だった。来場者の大半は、俺の実力を認めて称賛を惜しまなかった。芸術家にどれほどの敬意が払われているのか再認識すると、自尊感情でくすぐったくなった。

       ※

 村芝賢太は、女子社員への性的強要では有罪となったものの、凶器なき殺人事件では当日のアリバイが見つかり、嫌疑不十分とされた。綾香が入手した情報では――客観的に見て、村芝のアリバイは、複数の利害関係のない他者からの証言があるため、崩れそうにない――のが明白だった。

 事件が振り出しに戻ると、家の中に再び陰鬱な空気が入り込み、絵を描くのが億劫になった。亜美と会っている時も、会話が上の空になり、何度も「ねえ、私の話だけど……。ちゃんと聞いているの?」と咎められた。

 最愛の恋人の言葉が一つとして頭の中に入らず、生返事を繰り返していると、亜美は不機嫌そうに振舞った。

「私は……。空気や壁に向かって、話しているのかしら?」亜美はとうとう不満を漏らした。

「この間、オーディションに合格してね。雑誌のアパレル・メーカーの広告に、掲載されるのが決まったの。大手メーカーなのよ。腕の良いカメラマンでね。写真も、すごく綺麗に撮影してくれたの」

「ふうん、良かったな」

「それだけ?」

「何が?」

「他に言いたい話はないの?」

 生返事が増えると、痺れを切らしたように、亜美は「もう、帰りましょうか? 疲れているのでしょ?」と気遣った。

 俺は、気を取り直し、亜美の前では明るく振舞うように心がけた。亜美が姿を消すと、寂寥と孤独と不安が押し寄せてくる日があった。

 考え事をしていると、絵筆が進まなくなり、創造性を阻害した。油絵の構図を考えるのに時間がかかり、絵を描く営為とは、無関係の想念にも悩まされていた。

 俺は、佐々の家族の現状が心配になり、何度か家を訪ねたものの「気を落とさないで」とか「交通事故にあったと思えばいい」とか「犯人は必ず見つかるから、佐々の無念は晴らせるだろう」といったありきたりな言葉しか、見つけられなかった。

 佐々の家を何度も訪ねていると、マスコミが嗅ぎつけ――疑惑の画家が、被害者の未亡人と密会――と、無責任に書き立てた。自ずと、俺は佐々の家から足が遠のいた。一方で、被害者家族としての佐々の奥さんや娘の行く末が気がかりで仕方なかった。伊達や村芝のような知人から「人間が甘い」と非難されようと、それが俺の偽らざる心境だった。

 佐々は正体不明の何者に、どんな理由で殺されたのか――、真剣に考え直すしかなかった。

       ※

 郵便ポストに、俺宛の差出人のない封書が入っていた。手紙を開封すると――佐々元親を殺したのはお前だ。事件現場でお前が佐々を殺すのを目撃した。一刻も早く自首しろ――と、新聞紙の切り抜きで、文字が貼り付けられていた。明らかに濡れ衣だった。が、シンプルな文面は、俺の胸の急所を鋭く突き、鼓動を高鳴らせた。俺は息苦しくなった。恐怖、苦痛、混乱、失望の四つのうち、もっとも支配的な感情は混乱による戸惑いだった。

「いったい、何のつもりだろう?」

「犯人を脅迫するほどの正義感があるのなら、警察署に通報すればいいのに……」

「俺は、脅迫状を火野刑事に見せて、調べてもらうよ」

「どうして深沢刑事じゃ、ダメなの」

「火野刑事は、綾香に惚れている」

「お兄ちゃんが、あんな絵をアトリエに置いておくからじゃない」

「お前に色気はない。あの絵を見初めるというのは、お前の本質を見抜いて惚れている」

「そうなのかなあ」綾香は、ポッと頬を赤く染めた。

 俺は、綾香を色気のない小娘だと思っていたが、少しだけ見直した。

       ※

 アトリエで完成間近の絵を仕上げると、ガレージからフェアレディ・Zに乗り、警察署に出向いた。

 警察署で脅迫状を見せると、火野刑事は白い手袋をはめて受け取り

「鑑識に回して、何か出ないか調べてみましょう」と告げた。

「お手間をおかけしますが、捜査の役に立てれば……と、思いました」と俺は、謝意を表するためにお辞儀をして見せた。

「脅迫状の文面には、あなたへの殺意や暴力の意図が読み取れないのですが、くれぐれも用心してください」

 俺は脅迫状の内容に心理的な圧迫を感じると、外に出るたびに何者かに尾行されていそうな気がした。クルマを運転している時でさえ、後方に長い間同じ車種が走行し、右左折しても、後ろに確認できると、冷や汗が流れた。

       ※

 表に出ると、たびたびのごとく尾行されている気配を感じた。家の前にも、同じ車種のセダンにサングラスをかけた男が乗っていて、周囲の様子を窺っている気がした。

 綾香は「意外と、ゆっくり歩いている相手の方が尾行しにくい。クルマも低速走行した方が良い」と、アドバイスした。理屈で分かっていても、背後に気配を感じると素早く立ち去りたくなった。

「単なる尾行が目的ではなく、襲いかかるのが目的なら、人通りの少ないところは避けるべきだと思う」

「俺を襲うつもりなら、とっくにそうしているだろう」

 正体の分からない敵に見張られている状況ほど、恐怖心を感じるものはなかった。再び警察署に出向き、脅迫状の件を問い合わせると「指紋は、あなたのものしか見つかりませんでした。犯人につながりそうな微物も、付着していなかったので、この脅迫状だけでは何も分かりませんでした。相手の次の出方を待ちましょう。ですが、くれぐれも用心してください」と、期待外れな答えしか返ってこなかった。

 脅迫状の差出人はミスを犯さなかった――という事実が、佐々を殺した本人からだと、俺は直感していた。

 犯人は俺の行動パターンを読み、自分の指紋しかついていない脅迫状を警察に持っていくのまで予見していたとしたら……。俺は、蜘蛛の巣に絡めとられ、相手の罠にはまっている蝿と同様の愚か者に過ぎないのではないか――と思うと、凍り付いていた。

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