第2話


 俺は、画家としては国内外で評価されているので異性の友人は多く、モデルの一人とも恋愛関係にある。恋人でモデルの苗村亜美は、妹の綾香とは真逆の大人びたムードの漂う女だった。毎日、電話で連絡を取り合い、週に一度はデートし、絵のモデルにも何度もなってもらっていた。

 亜美は、綾香と同い年で俺より二歳年下だ。目は黒目勝ちで深い色をしていて、少し吊り上がっていたものの、見開くとひときわ大きくなった。鼻は目立たないが、唇は外側に僅かにめくれており、濡れていると色っぽく感じた。

 俺には、腰のラインのくびれが、亜美の女性らしい本質を現しているかに見えていた。綾香とも仲が良く、三人で食卓を囲むと、俺だけが会話から取り残される時もあった。

 亜美と商店街のアーケードの下を歩いて、レストランへと向かった。店内のインテリアは洗練されていて、ピアノ曲が流れていた。ステーキ肉を焼く匂いや、ガーリック、ブーケ・ガルニ、シナモン、ペッパー、ローズマリーの食欲をそそる匂いが漂っていた。

 俺はスーツの上着を脱ぐとレストランのスタッフに預け、ワイシャツを腕まくりした。普段は絵筆しか握らない腕だったが、盛り上がった前腕筋に血管が浮き出ているのが目についた。亜美は正面の席でほほ笑んでいた。

 グランド・ピアノの前に腰かけていたピアニストがパッヘルベルの『カノン』を演奏し始めたタイミングで、ウエイターが席に来て、メニューを手渡された。

 臍の辺りに、大きなリボンをあしらったチャコール・グレーのワン・ピースを着た亜美は、俺の目には女性らしくしなやかに見えていた。

 コース料理を注文したので、前菜のサラダからスープ、舌平目のムニエルと順にテーブルに並べ置かれた。

「今度、ヌード・モデルに挑戦しないか?」俺は亜美の目をじっと見つめて話しかけた。

「自信がないし、すごく抵抗感がある」

「誰にも見せないからいいだろう? 俺の個人的なコレクションに君の裸婦画を一枚、加えさせてくれないか?」芸術への熱情からというよりも、話の流れから懇願口調になっていた。

 亜美の美しさは、俺の誇りでもあった。反面、エロティシズムは芸術に欠かせないテーマだと考えながらも、恋人のヌードを衆目にさらすのに抵抗を感じていた。

 さらに、今のタイミングで恋人にそんな提案をするのは、亜美に対するよりも、幽霊になって自分を見ている佐々に対して、不謹慎な気がしてきた。佐々と亜美は面識がなかったので、可憐な彼女の姿を見て――妬かないか――という、奇妙な印象が胸の内から湧いていた。

「あくまでも、私的なコレクションにするつもりだ」俺は、亜美の変心を願って粘ってみた。

「それなら意味がないでしょ」亜美は、抗議の気持ちを示すつもりなのか、俺の提案に対して口を尖らせて見せた。 

 正面にいる亜美から視線をそらすと、レストランの奥にあるアクアリウムの中で、十数匹の水クラゲがふわふわと浮沈しながら、漂っているのが目についた。

 俺の視線の変化に気づいたのか、亜美は振り向くと「子どもの頃に、お盆明けに海に出現するクラゲを死者の霊魂だと思っていた」と、言葉にした。が、言い終わった後で「あっ」と、口を押えた。

 親友を失ったばかりの俺を前にして、口にすべきではなかったと、亜美は後悔しているかに見えた。

「俺も、そんな風に思っていた。クラゲは、幽霊みたいだ」

 事件以来、佐々がいつも自分のそばにいて、一挙手一投足をすべて観察していそうな――存在――を身近に感じる日が多くなった。映画館にいるときも、隣の空席に佐々が腰かけている気がした。

 俺は、今の平凡だがそれなりに幸福な日常が、凶悪事件によって中断されたとしたら、どんなにか無念だろうと考えて、口がだんだんと重くなった。

 テーブルには、メイン・ディッシュの黒毛和牛のフィレ肉の皿と、ワインの入ったグラスが置かれていた。亜美がワイン・グラスを持ち上げた。俺はワイン・グラスを亜美の方に動かし「乾杯」と大きな声で告げると、口元に運び少しだけ飲んだ。亜美も「乾杯」と声にして、上品にほほ笑んだ。

 ウエイターは、注ぎ終わったワインのボトルを氷の入ったステンレス製のバケツに戻すと、肩の部分をナプキンでくるみ、持ち去っていった。

 食事が進み、黙って淡々とナイフとフォークを使う俺を見て、亜美は

「何か考え事をしているのでしょ?」と、問いかけた。

 ナイフで切り分けたフィレ肉を口に運ぶと、口内に熱が伝わり、ジューシーな肉の味わいが広がった。とても美味しい絶品だった。

「えっ……?」

「ねえ、どうなの?」

「親友の葬式に出席した。何か、空しくてね」

 亜美は、驚きの表情を見せると「あなたにとって大切な人だったのね」と呟き、しばらくの間、押し黙っていた。

「亜美のそういうとこが好きだよ」

「どういうところ?」

「ちゃんと、気遣いができるところかな」

 亜美は、幸福そうな顔をした。

 料理は、素材の味を生かしつつも、絶妙な味付けがされていたので満足できた。

「ソースがうまい。素材の味を生かして、調和している。素晴らしい料理だ。シェフは、どんな工夫をしているのかな?」俺は、話の方向を変えようとした。

 テーブルの上で、丸底グラスに入れられたキャンドルの炎が、妖しげにゆらゆらと揺れていた。デザートを食べ、コーヒーを口に含みながら窓の外を見ると、街の明かりが煌めき、映画の中のワン・シーンと同様の魅惑の空間が、ワインのほろ酔い気分と合わさって、俺の気分を高揚させた。

 亜美は、ファッション・モデルとして人気が出ると仕事の依頼が殺到し、寝る間も惜しんで東奔西走していた。そんな状況でも、時間をつくって俺に会ってくれていた。

「亜美は真面目だから、けっこう無理しているでしょ? 頑張り過ぎなのじゃない? たまには、息抜きも必要だと思うよ」

 俺が言い終わると、亜美は俺の顔をじっと見つめて優しく微笑んだ。誰よりも、愛情に満ちた表情だった。

 外の景色は、ビルにところどころに灯る明かりや、クルマのヘッドライトが作り出す光の川が目についた。俺はコーヒー・カップを持ち上げながら

「君といられる幸福をいつまで、こうして感じていられるのかな?」と、問いかけた。

「さあ、どうかしらね」亜美は、優しい眼差しを向けてほほ笑んでいた。

 俺は、亜美の肩のラインがしなやかで美しいのに気付いた。亜美は、長かった髪をショート・ヘアーにカットし、今までと雰囲気が違って見えた。髪が艶やかに輝いていた。

「今日の髪形はいいね。亜美の頬のラインが綺麗に見えるよ」

 レストランの中では、情趣のあるジャズ音楽が流れていた。コーヒーの馥郁たる香りが、俺の鼻腔をくすぐった。

「ここのケーキ美味しいね」

 ケーキには、大粒のイチゴに加えてラズベリーやブルーベリーが使われており、まろやかなスポンジ生地の二層構造の中間には、生クリームがふんだんに挟まれていた。フォークを刺して口に運ぶと、とろけるような甘酸っぱさが口の中に広がっていた。俺は、亜美の光沢のある唇が、ケーキ以上に幸福感をもたらしてくれるのを期待していた。

「亜美と一緒にいると、なんでも美味しく思える。今のままだと、舌が馬鹿になる」俺は軽いジャブを繰り出して、相手の反応を窺った。

「どうしたいの?」

 俺は、向かいに座る亜美の方に席を立って近づくと、腰を屈めて耳元に囁くふりをしてから頬にチュッと音を立ててキスした。

「こうしたかった」俺は囁きながら、亜美の目を見つめた。

 自席に戻ろうとして後ろを見ると、ウエイターがこちらを見てから、一歩近づこうとして立ち止まり、驚きを顔に表しているのが分かった。俺は気まずくなり、即座に視線を外し席に戻った。

       ※

 警察の捜査が続く中で、犯人がどんな動機で何を目的にして佐々のような男を殺害したのか、まったく分からずに混迷を深めていた。重要参考人とされる五人とのトラブルの何が引き金になったのか、容易に判明しそうでありながら、不明のまま時間だけが無駄に費やされていた。

 被害者が秘密にしていたプライベートな諸事情があぶり出されるのを知るたびに、俺には殺人事件の報道自体が、遺族に対する二次被害ではないか――と思っていた。佐々の生活のどんな側面が明らかになろうとも、俺の親友であり、理解者であり、信頼できる人物に他ならなかった。

 この世に存在しない佐々との過去の思い出や、言動がリアルな印象として、俺の頭にこびりついていて容易に離れそうもなかった。

 テレビのワイド・ショーでは『凶器なき殺人事件』として取り上げられ、世の中の注目を集め始めていた。事件が大きく取り上げられたのは、重要参考人の村芝賢太が有力政治家の愛人の息子と判明したのが原因だった。

 佐々の事件を――凶器なき殺人事件――と、マスコミが呼んだのは、現実に凶器がなかったわけではなく、犯罪に使われたと推定できる凶器が、連日の捜査で見つからなかったとき、警察の広報担当が「川底や藪の中まで捜査しましたが、凶器がありませんでした」とコメントをしたのが発端だ。凶器はなかったのではなく、見つからなかった。

 俺の目には、夫婦円満に見えていた佐々が離婚寸前になっていた事実や、仕事のトラブルで快く思わないものが存在するのが意外だった。さらには、近隣住民に素行不良の人物がいて軋轢が生じていた話など、佐々は親友の俺に何一つとして話してくれなかった。それがテレビ番組では、すべて明かされていた。

 温厚篤実に見える佐々の実情が明らかにされても、俺の彼に対する友情の念は簡単には揺るがなかった。逆に……、俺は――社会生活の中で、佐々がどれだけ他人の無理解に傷つけられてきたのか――と想像すると、気の毒になっていた。

 佐々の死因は、頸動脈の刺創を原因とする失血死と見られていた。俺は犯人が相当の返り血を浴びていながら現場から逃走したとしたら、怨恨によるものと考えていた。新聞報道によると、当局も同様の見解を示していた。

 身の毛がよだつ手口の残酷さを想起すると、邪悪で狡猾な犯人像をイメージせずにはいられなかった。佐々の身近にいる誰かが、悪魔の相貌で躍りかかり、事件後は平然として過ごしていたら、次にも何か起こりそうな予感がした。

 警察署は、俺にまで嫌疑をかけて取り調べを進めていた。事件の直後に訪ねてきた二人の刑事が、再び家に来て、今度は険悪な雰囲気を持ち込んでまき散らして行った。同じ人間が、言葉遣いや、目つきや態度まで別人のように見えた。ただし、令状を持っていなかったので、任意の取り調べに協力するかたちだ。

 俺は、警察に協力する構えで心証を良くしようと努めた。名声も信頼もたった一つの出来事を契機に、脆くも崩れ去るという事実を知っていた。犯罪のような危ない綱渡りをするほど、俺は愚かな男ではなかった。が、刑事たちに、俺の内心の思惑は何一つとして伝わらなかった。

       ※

 檜の無垢階段をきしませながら、綾香が下りてきた。部屋着姿でスリッパを履き、髪の毛を後ろに束ねていた。いつものように俺の顔を見ると、柔和な表情で話しかけてきた。

「兄貴のショックは分かるけど、今までの状況を悔やむより、これからを考えましょう。兄貴みたいに、暗い顔の画家が他にいるのかしら……」

「佐々が死んで、仲の良かった俺まで疑われている。暗い顔にもなるよ」俺は内心では、綾香の気遣いに感謝していた。 

 俺は画家として認められ、順調に仕事をこなしていた。仕事がはかどり、有識者から高く評価されるとともに、イメージが縦横に湧き出し始め、秀作をものにしてきた。今では、画壇の新星として注目され、小説家や芸能人との対談、週刊誌の挿絵、連載のエッセイなどの依頼を受け、毎日が多忙を極めていた。

 アトリエを出て、隣の書斎の椅子に腰かけ、窓外の景色を見た。事件以来、気が滅入る日が続いたものの、周囲の景色には何の変化もなかった。もし、自分に殺人事件の嫌疑がかけられ、世間から注目されたら、今まで築き上げたすべてのものが瓦解しそうに思えた。

 書斎の二つの壁面には、大きな書棚があり、美術書、哲学書、文学書を中心に千冊内外の本を並べていた。読書はマホガニー材のテーブルの前に腰かけ、原稿の執筆の際は小さめのデスクを使っていた。

 俺は書斎でパイプを燻らせながら、事件の全面的な解明を警察に任せきりでいいのか、犯人を見つけ、自分に向けられそうな疑いを晴らすために、積極果敢に動くべきか思い悩んだ。

 週刊誌では、村芝賢太が美術界や出版業界で幅を利かせ、部下にパワ・ハラ、セク・ハラまがいの行為をしているのをいかにも横暴であるかに掲載していた。実名を出していないものの、俺には村芝なのが一目瞭然に理解できた。

 サラリーマンに似つかわしくない高級車を乗り回し、親類が経営する会社を私物化し、夜の酒場でも我が物顔でのさばる村芝に対して、俺なりの制裁を加えるべきかどうかと迷ってもいた。

 事件の真相がわからないままに、時間だけが経過していくのがもどかしく感じられた。出口の分からない迷路をいつまでも徘徊していると、体力を消耗し、ダウンするのは必至だった。

       ※

 アトリエを出て階下に降りると、俺は駐車場まで駆け出していた。じっくりと、家にいて時間を過ごす気になれなかった。

 俺は愛車のフェアレディ・Zを走らせると、警察署に向かった。正直なところ、捜査協力というよりも、親友の佐々を殺した犯人に復讐してやりたい気分だった。佐々とは幼馴染なので、鬼ごっこやかくれんぼをしただけでなく、草野球やハイキング、ボウリングなど休日になると外出して、楽しんだ仲だった。思春期以降は、読んだ小説や哲学書をもとに議論を戦わせた。

 ビジネスや酒席での付き合いしかない相手とは違い、佐々や伊達との交際は、懐かしくもくすぐったい感じがしていた。

 俺と佐々や伊達とは、異性の好みが似ていたので――誰が先に告白するか――で緊張関係になると、重たいムードが流れた。

 二人の親友とは、意見が合わなくて言い争った日もあったが、思い出すのは楽しい出来事ばかりだった。異性との恋愛が甘美な花の蜜の味だとすると、友情はほろにがいブラック・コーヒーに似ていて、味わい深さでは比較にならなかった。

「佐々の事件で警察署に積極的に協力しようと思う。あいつを殺した犯人に復讐してやりたい」俺が思いを口にすると、伊達は

「まったく、大友らしいよ。お前はいつもそうだ。けどな……、そう熱くなりなさんな。あいつは、お前の愛しい恋人ではないだろ。すんだ話は、悔やんでも仕方がない。思いを寄せても、死者は戻らないよ」と窘めた。

「お前みたいには割り切れない。事件の真相が判明しないと、佐々は浮かばれないよ。あいつの魂を救ってやりたい」

「見えざる暗在系の仕組みが、お前に分かるのか? 俺には分からない。魂なんてないと思う。死後は茫漠たる闇の広がりがあるだけだ。悔やんでも仕方がない」

「佐々のためにしてやれることがあるだろう? 俺は、お前が協力してくれると信じていたよ」

 俺は、伊達に窘められても悪い気がしたためしがなかった。伊達の毒舌や酷薄な態度は、含羞と、屈折した愛情表現だと思っていた。優しさを前面に押し出すのに、照れや躊躇いを感じるタイプだと信じていた。伊達の忠告は、いつもなら俺の熱くなりやすい心情の冷却装置として機能するが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 蒸し暑い一日だった。警察署に着くと、窓口の担当巡査に来訪の意図を告げた。署内では、制服警官が慌ただしく出入りしていた。現場に向かうパト・カーのサイレン音が耳に届いていた。

 担当巡査は、俺の捜査への協力の申し出に感心すると

「殊勝な心掛けですな。しかし、当局から、非公開の捜査情報をあなたにだけ特別にお教えするのは、規則上できません。必要と判断した場合は、広報担当の副署長がマスコミ向けに、事件の進捗状況などを公開するつもりです。申し訳ありませんが、報道機関を通じた公式発表を見ていただきたい」

 巡査は、俺の質問を先回りして答えた。

「さらに言うと……」

 俺は巡査の説明に苛立ち、右手を挙げて言葉を遮ると

「そういう話ではなくて……。捜査に役立つ情報は自分から積極的にお伝えして、事件の解決に役立てたいのです」

「それなら、願ってもないです。何か、あの後でお気づきになった点がありましたか?」

 巡査は内線で、深沢刑事か火野刑事が署内にいるかどうか、在席確認をすると

「残念ながら、二人とも外出していて、戻るのは夕方を予定しています。といっても、仕事柄予定通り戻れるかどうかは分かりません。出直していただくしかないですね」

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