ダーク・ナイト

美池蘭十郎

第1話

 二人の刑事は突然のごとく、休日の夜に訪ねてきた。俺は刑事の険しい表情を見ると、胸騒ぎを感じた。背の低い方の刑事が一歩前に出ると、警察手帳をこちらから見える位置に翳し「大友小六さんですね。あなたにお尋ねしたい件がありまして……。少し、時間をいただいてよろしいですか?」と家の奥に目をやった。

「どうぞ」俺は、刑事たちに玄関から応接室に入るよう案内した。もう一人の刑事は、後ろから鋭い目つきで見ていたので、嫌な予感がしていた。

 応接室に入ると二人の刑事は「申し遅れまして」と言葉にし「捜査第一課、課長の深沢勇作です」「同じく係長の火野健一です」と改めて名乗った。

「どうぞ、おかけください」二人に席をすすめながらも、胸騒ぎを感じていた。

 同居している妹の綾香が応接室に来ると、火野刑事は慌てて立ち上がり「奥さんですか? お邪魔しています」と、ちょこんと頭を下げた。

 綾香は、顔の前で手を振ると「実は、私たち兄妹なんです」と答えた。俺は火野刑事が一瞬、ほっとしたような表情に変化したのを見逃さなかった。

 テーブルの上にお茶の入った湯呑が三つ並べられたが、二人の刑事はいつまでも口をつけようとしなかった。湯呑からは、玉露の甘い香りが漂い出していた。

 深沢刑事は「佐々元親さんとお知り合いだとお聞きしたのですが……。間違いないでしょうか?」

「大学時代からの友人で、今も付き合いがあります。あいつが、何かしでかしたのですか?」俺が尋ねると、年輩の深沢刑事は身を乗り出し、若い火野刑事の視線が再び鋭くなった。

「何らかの事件に巻き込まれた可能性があります。事件か事故か、他殺か自殺かについて慎重に調べた結果、故人を殺人事件の被害者として捜査する方針が決まりました」

「えっ?」自分の耳を疑った。「佐々が死んだのですか?」

「検視の結果によると、過失致死の可能性は低いです」

 深沢刑事は、話を手で遮ると「その件で、あなたにご質問したい点があります。よろしいですか?」と落ち着いた様子で付け足した。

 頭の中が様々な想念で溢れ返り、即答できなかった。佐々とは長年の付き合いになるものの、二週間連絡が途絶えていた。特段、気にも留めなかったが、死んでいたと聞いて背筋が凍り付いた。

 俺と佐々は、芸術大学の美術課程の同級生で四年生の時には同じゼミを受けていた。卒業後は、俺は画家の道を選び、佐々は美術系の出版社に勤めていた。大学卒業後、絵が一枚も売れずに苦しんでいた時期でも、佐々は「お前は、間違いなく天才だ。本来なら、絵は高く売れる。画才を理解できない周りの連中が馬鹿だ」と、俺を励ましてくれていた。

「事件は六月九日の午後五時頃に発生して、直後に被害者の佐々さんは死亡したと見ています」俺は、刑事の口から、親友の佐々が二五歳の若さでこの世を去ったのを聞くと、言葉を失った。

「失礼ですが、事件の当日あなたはどこで何をしていたのですか?」

「あなたを疑っているのではないのです。あくまでも、参考までに皆さんに同じ質問をしています」

「覚えていません」記憶をたどったが、すぐに思い出せなかった。「失礼ですが、佐々が死んだなんてすぐには信じられません」

「お気持ちは分かります。ですが、少し考えてみてください」

「分かりません。何も特別な出来事はなかった気がします」

「困ったなあ。何か思い出せないですか?」

「何でも良いのですが……。どうでしょう?」

「九日の午後五時頃ですと、絵を描いていました。それ以外は、特に何もなかったと思います」

「妹さんは、どうでしょう?」深沢刑事は、お盆を手にして様子を窺っていた綾香に座るよう促すと、問いかけた。

「兄は、普段と同様にアトリエにいました」

「なるほど、なるほど」火野刑事がメモを取りながら顔を上げると同時に、深沢刑事が口を開いた。

「本題に移りますが……。佐々さんの最近の様子で、何か普段と違う状況はありませんでしたか? 些細な内容でも構いません」

「ひと月ほど前に会って話をしました。仕事の件ではなく、久しぶりに酒を飲みました。ですが、特に変わった様子はなかったです」

「何かに追いつめられたり、悩みを抱えていたりする感じはなかったですか?」

「思い当たるものはないですね」

「ところで、飲み会の参加者は、あなたと佐々さんのお二人だけでしたか?」

「えっ? 何ですか?」

「さっき、久しぶりに佐々さんに会ってお酒を飲んだ話をしたじゃないですか。その件ですよ」

「あの時は伊達一志という、高校時代の同級生が来ていました。三人は高校の同級生ですが、伊達だけ別の大学に進学し、今は家業の工務店に勤めています」

 二人の刑事は伊達の名前を出すと、お互いの顔を見合わせベテランの深沢刑事が火野刑事に耳打ちした。火野刑事はペンを走らせメモをとっていた。

「居酒屋では、どんな話をしました?」

「今までも、何度も会っているのに昔話に花を咲かせましたよ。高校時代に失恋した苦い経験や、部活で顧問の先生に叱られた話とか、他愛ない話ばかりです」

「昔話ですか?」

「長年の付き合いになるのに、その時だけですよ。過去の出来事で話が、盛り上がったのは……」俺は、佐々が過去を振り返らずに、前だけを見て無謀に道路上を走行したために、後方から追突されたのと同じ印象を受けていた。

「佐々さんの様子は、普段と違いませんでしたか? 特に変に思われた様子は、何かありませんでしたか?」深沢刑事が質問を重ねた。

「ええ、勿論です。佐々は楽しそうにしていましたよ」

「伊達さんはどうでした?」

「あいつも、昔話に花が咲き、随分楽しそうでした」

「そうでしたか」と深沢刑事は頷くと、席から立ち上がり火野刑事にも立ち上がるように促した。

「あくまでも、捜査ではなく個人的興味に過ぎませんが、あなたのアトリエを拝見してもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ。普段通りなので、散らかっていますが……」

「是非、拝見したい。画家のアトリエには興味がありましてね」

 階段を上ってアトリエに入ると、二人の刑事は、好奇心よりも獲物を追う猟師の本能を露にして、視線を走らせているかに見えた。部屋の中には十二枚の絵があり、大きな二枚の絵は床に置き、他の絵は壁にかけていた。

 大きな絵の内の一枚は裸婦画で、綾香をモデルにしていた。綾香が十七歳のときにモデルになってもらったものなので、あどけなさと繊細さが滲み出た美しい絵画だった。画商はこの絵を高額で求めようとしたが、綾香が猛反発したのでアトリエに置いたままになっていた。

 アトリエには、妹をモデルにした裸像もあったが、綾香は彫刻が他人の目に触れるのは気にもしなかった。俺が質問すると「私に似ていないし、これを見ても誰も私だとは気が付かない」と答えた。

 俺は綾香をモデルにすると、エロティシズムではなく、フェアリー・テイルの中の妖精を造形する構えで臨んだので、裸像にはトンボのような翅をつけていた。机上にのる小さな妖精の裸像は、妹に似ていたずらっぽい存在感を示していた。

 火野刑事は、妖精の彫刻のモデルを綾香だとは気づかなかった。俺は、刑事の目にも盲点が存在するのか――と案じていた。火野刑事は、裸婦画に目が釘付けになったように立ち止まり、目を心地よさそうに細めると「先ほどの妹さんですね。こんなに可憐な少女の絵を見た経験がないです」と、俺の顔を見た。

 深沢刑事は抑揚のない口調で「美しい」と褒めつつも、ポーカー・フェイスを貫いていた。が、対照的に火野刑事の表情には裸婦画への強い関心と、俺に対する不快感が現われていた。

 二人の様子を見ると、深沢刑事の鋭い視線がテーブルの上のペインティング・ナイフに注がれているのに気づいた。視線の動きから、目測で大きさを判断しているのが分かった。

 刑事たちは帰るときは、そそくさとした様子で玄関に向かって素早く動いた。二人は傘立てから、それぞれ自分の傘を手に取るとドアを開けた。外では、篠突く雨がいやらしいほど長々と、降り続けていた。

 二人の刑事が一階に下りて帰るタイミングで、綾香が玄関に姿を現して頭を下げて見送った。火野刑事は何度も振り返り、綾香を見ていた。綾香は赤面し「酷い」と怒りを見せると「あの絵を置きっぱなしにしていたでしょ」と、俺の胸を叩いて抗議した。

「どう、思われたのかしら?」

「お前の考え方は変だぞ。前にも言ったが……、絵は、人に見てもらうために描く……。誰にも見せないで死蔵するのは惜しい」

「モデルになったのを後悔しているの」

「あの絵は芸術的に美しいが、猥褻なムードは欠片もない。だが……、火野刑事はお前に惚れているよ」

「短い時間で一目ぼれするのかな?」

「男の勘だよ。間違いないな」

 俺は、不謹慎にも長身痩躯で好青年に見える火野刑事なら、綾香とお似合いのカップルになりそうな気がしていた。

 綾香は、俺の親友の佐々が殺された件以上に、二人の刑事に裸婦画を見せたのが気がかりなのか、強く責め立てた。妹は、見かけと異なり勝気な性分だった。子どもの頃から、推理小説の愛読者で名探偵への憧れが高じて、平日は探偵事務所に勤務していた。綾香が勤める横溝探偵事務所は、捜査協力などで警察とのパイプが太いので、俺は事件に関する情報が入るのを期待した。

「いざというときは、お前だけが頼りだ」

「情けないことを言わないで……。私は、事件は早く解決し、犯人は逮捕されると思う。佐々さんを殺した犯人の顔を見てみたい」

「俺はむしろ、犯人を知りたくない心境だ。俺の知り合いが犯人だったとしたら、ぞっとするよ」

 二階のアトリエに戻ると、イーゼルの向きを直し、キャンバスに目をやった。下書きはできていたので、彩色後のイメージも頭の中に完成していた。絵の中の風景は、自然に囲まれて田んぼの中央に佇む案山子の素朴な魅力が際立つ油絵に仕上がる予定だった。が、俺は刑事たちの言葉が気になり、油絵を完成させる意欲が湧かなかった。

 アトリエに入ると、作務衣から汚れてもいいTシャツとジャージ姿に着替えていた。首にはフェイス・タオルを巻き付け、絵筆を握りながらキャンバスに向き合ったものの、筆運びが滞り、仕上がりが荒くなりそうな気がして、しばらく休憩した。

 アトリエの奥の書斎の本棚には、隙間なく本を並べていた。国の内外の様々な画集に加えて、アンドレ・マルローの『空想の美術館』、テオドール・W・アドルノの『美の理論』、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』、ドニ・ユイスマンの『美学』などの本を目の付くところに配置していた。

 俺は行き詰まりを感じると、書斎に籠って、ぼんやりと画集を眺めるのが好きだった。有名画家たちの筆遣いは参考にはなったが……、画集を見て無理やりアイディアを捻りだそうとしたりはしなかった。絵の構想は、自然と沸き起こると、いつの間にか心の中を支配していた。不思議にも、天から降ってくるイメージを描いたものほど、出来栄えが良くなっていた。

       ※

 親友の佐々元親が、何故殺されたのかどう考えても理解できなかった。佐々は人柄が良く、他人から恨みを買う可能性はないと、俺は思っていた。通り魔的な殺人事件に、佐々は巻き込まれた――と、推理していた。刑事の話では、金品を盗まれた形跡がなかったので、強盗殺人ではないと考えられていた。 

 綾香の探偵事務所を通じて、捜査状況を確認したところ俺の予想と違い、怪しい人物が何人も浮上していた。入手した情報では、五人に疑いが向けられていた。

 佐々は、学生結婚をしていて妻との間に二歳になる女の子がいた。だが、夫婦仲は悪く周辺の住民には何度も喧嘩してお互いを罵り合うところを目撃されていた。原因は、佐々が家庭を顧みず、育児に協力しないばかりか浮気までしていた――と、知らされていた。

 俺は、俄かには信じられなかった。佐々の周辺情報には、誇張や捏造があるとしか思えなかった。俺も佐々も、男性の社会人が出没するキャバクラや花柳界に出入りした経験ならあるし、酒も飲み歩いた。が、他人から恨みを買って殺されるとは、考えられなかった。

 だが、綾香の勤める横溝探偵事務所の所長から五人の重要参考人の顔ぶれを聞いたときに、俺は人間の闇の深さを知り、恐ろしい気分に包まれていた。殺人事件は釣り堀の近くの場所で起きた犯行で鋭利な刃物で数か所を刺されていた。首の動脈が切断されたのが、致命傷となった――と、知らされていた。

 一人目の重要参考人は、佐々の勤める芦原美術出版の社員で当日、釣りをしていた保坂信夫という男だ。釣り堀では二人が言い争っている姿を目撃されている。

 二人目も、同じ釣り堀にいた佐々の後輩にあたる小山田直樹だ。小山田は、釣り堀にいるときにナイフを使ってリンゴを食べていたのが確認されていた。

 三人目は、芦原美術出版のライバル企業・中津企画の営業部長・村芝賢太という目つきの悪い男だった。俺も、佐々から村芝の悪評を何度も聞いていた。

 四人目はスナックのホステスの畑沼里奈だ。捜査線上に浮上したのは、佐々が里奈と男女の仲にあった点だ。スナックの店員などの周囲からは、里奈が、佐々と結婚できない状況に苛立っている事実が語られていた。

 五人目は、俺が最も驚いた伊達工務店の経営者・伊達一志だった。殺された佐々と伊達は、事件前に頻繁に会っていたので、当局に嫌疑をかけられていた。

 いずれの重要参考人も、当局から容疑者になりうると目されている人物だ。事件当日のアリバイや合理的で納得できる証明がなされないと、疑いが晴れそうもなかった。

 佐々の妻の佳那には、アリバイがあり捜査対象から外され、当局からも被害者の遺族として扱われていた。

 捜査の対象になっている五人のすべてが自分のよく知っている人物だった。俺は、最初から村芝が怪しいと睨んでいた。

 司法解剖が終わり、遺体が家族の元に戻されたので佐々の葬儀が執り行われた。葬儀会場には、重要参考人の五人が全員、出席していた。喪服は未亡人を美しく見せるというが、佐々の奥さんはつつましく上品な良妻に見えた。

「お焼香だけでもさせてください」と、訪ねてきた二人の刑事は、俺が様子を見る限りでは、未亡人に対しても、鋭く目を光らせて観察しているかに見えた。

 俺は佐々が生前に「お前は、独身貴族で良いなあ。気楽だろう? 新婚当時は、俺たちも良かったが、今じゃあ、娘のオムツもまともに替えられないの――とか、生乾きのまま洗濯物を取り込まないでね――とか、家事に協力しても、不満ばかり言われるよ」と、言葉にしていたのを思い出した。

 葬儀会場では、保坂も小山田も悄然としており、俺には自分への疑いを避けるための演技とは思えなかった。

 伊達は「世の中、分からないな。あんなに元気だった男が、このざまだ。俺たちも一寸先は闇だ。怖い世の中だよな」と嘯いた。俺には、いつもの毒舌以上に、伊達が将来を危惧するような目つきで右上にある電灯の明かりを眺めながら話していたのが、奇妙に思えた。

 佐々の二歳の娘は、母親に抱かれながらも、遺影を見て不思議そうに首を傾げると、指を差し「パパ、パパ」と、何度も口に唱えていた。

 俺はいたいけな佐々の娘のあどけない様子を見て、涙の所在を隠し切れなくなった。伊達は、俺の顔を見て不快そうな表情をした。

「お前は、役者だな。なかなかうまいよ。俺にはマネができない」

「何が言いたい?」

「こんな日は、泣かなくていい。男らしく見送ろう」

「気づかなかったよ。俺たちが泣くと、奥さんの悲しみが深くなる」

 葬儀の中ごろに、愛人の畑沼里奈が現われた。様子を見て、伊達は

「財産目当てに、姿だけは見せておこうという算段だろう」と皮肉った。

「佐々はサラリーマンだし、あの年齢だと大して金を残していないだろう。里奈さんは、けじめをつけたくてここに来たんだよ」

「俺やお前なら分かる。サラリーマンの佐々が、あの年齢にしては大きな家に住んでいただろう。

 何かからくりがある。里奈が一番怪しい。俺も、警察に疑われているみたいだけど、刑事には畑沼里奈の周辺を洗うように忠告している」

「随分、大胆な推理だな。もし、間違っていたらどう責任をとるつもりだ」俺は声を荒げていた。

「世界は、大胆な仮説の上に成り立っている。仮説と検証の繰り返しこそが、真相にたどり着く唯一の手段だ。それぐらいでないと、事件の解決にはつながらない。真相を暴きたいだけだ」

 俺は伊達の神経を疑い、彼が事件に何らかの関与をしていて、自分から視線をそらすために里奈を利用しようとしているのではないか――と疑いの目を向けた。が、過去を想起すると、伊達は、俺と佐々の友情をつなぐ架け橋のような存在でもあった。

 伊達は「人間の経済価値は、利用価値で決まる。能力のない人間は、無価値な存在だ」と主張しつつ、仕事の傍らボランティア活動にも従事し、周囲から信頼されていた。

「ボランティア活動は、他人の目を欺くための知恵だよ。社会参加をアピールすると、俺が内心でどんな邪悪な思惑を膨らませていようと、俺を善良な人間だと信じてくれる」

――随分、辛辣な男だな――と、感じると同時に伊達の顔をじっと見た。悪びれた様子は何も見つけられなかった。俺は、伊達の毒舌と独善ぶりは、彼の照れ隠しだと思い直した。毒舌に反して、伊達の気配りと活動中の熱心さが、彼の心根の美しさを証明していた。

 棺に眠る佐々からは、生気が感じられなかった。死は間違いなく、人間の肉体と生命を切り離していた。ある意味で、生存は人間の肉体と生命の躍動を意味していた。俺には、棺の中の遺体が佐々の残骸にしか見えなかった。

 葬儀会場に来た里奈は焼香を済ませると、最後尾の席に座った。俺は伊達の指摘を受けて、後ろを振り返り、しばらく様子を観察した。里奈は佐々の遺影をまっすぐに見つめて手を合わせると、過去を思い出すような表情をしていた。

 俺は、以前から里奈の性格の良さを知っていた。伊達も里奈も、それぞれの立場で佐々の支えとなっていた。様々な想いに、圧倒されそうになった。席の斜め後方にいた里奈と目があうと、彼女は一瞬、迷惑そうな表情をした後で、俺に軽く会釈した。

 里奈の目は、赤く腫れあがっていたが、葬儀の間は涙を見せなかった。俺は、愛人の立場でありながら、葬儀に来て親族に丁寧に挨拶する里奈の姿に憐れみを感じ、胸が痛くなっていた。――佐々は、素晴らしい女たちを愛し、女からも愛されていた――という事実を……、俺は羨望ではなく、他人事ながら誇らしく感じていた。

 会場は、奇妙な雰囲気に包まれていた。出席者の誰もが、会場に佐々を殺した凶悪犯人が平然とした表情で参列しているのを疑っているかに思えた。俺も、重要参考人の五人を中心にして、目を皿のようにして注意深く様子を窺っていた。そう思うと、誰もが挙動不審に見えていた。

 俺が――誰が犯人なのか――と、周囲を注意深く観察していると、村芝と目が合った。村芝は、いつになく鋭い目つきをしていたが、目が合ったとたんに、罰が悪そうに視線をそらした。

 祭壇からは花の蜜や、果物の香気が流れて、鼻腔をくすぐっていた。それにもかかわらず、事件の真相が明らかにならないままの葬儀会場の空気は淀み、黴臭い嫌な匂いを周囲に漂わせているかに思えた。

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