18日目 智香

 角を曲がり自転車を少し走らせたところで前方に立つ人物に気付き、手を振った。

 コンビニの駐車場に立つ人物も手を振り返す。自転車のブレーキをかけ、その人物の隣に停まった。

「ごめん、待った?」

 首を振り、はにかんだ笑顔を作りながら日和があいさつした。

「あの…お、おはよ、ともちゃん」


 朝、待ち合わせをして日和と登校するようになってから今日は金曜日。

 あの雨の日から数日が経っていた。

 日和が私のことを『ともちゃん』と呼ぶ声音の響きも自然に感じ始めていた。

 私たちはお互いの関係を少しずつ受け入れつつあった。

 それは喜ぶべきことなんだろうけど、その反面、彼女のキョドり気味なあいさつとか、新鮮な反応が失われてしまうのがちょっとだけ寂しくも思う。初めの頃はウザいと思っていたのに、我ながら現金なものだ。

 ちらりと横目で日和を見ると目が合い、彼女が慌てて顔を背けてしまう。

 こんな仕草も、きっと……。

 ため息をつき、しかしすぐに首を振った。

 やめやめ、こんな感傷にめいた考えをするなんて、私のキャラじゃない。

「あの…ともちゃん……どうかした?」

 心配そうな顔でこちらを見つめてくる。

「え? ああ、たいしたことじゃないよ」

 できるだけ平静を装い、笑いかける。

 日和は小首を傾げながらもそれ以上追求してくることはなく、自転車にまたがると、私たちは黙々と自転車を漕ぎ続けた。

 交差点に差し掛かると信号はタッチの差で赤に変わる。

 交差点とはいえ、周囲の景色は土と草の匂い漂う田園風景。車なんかほとんど通らない。

 ぐるりを見渡しても車らしき影はなく、せいぜい田畑を耕す耕作機らしき物体がアリンコ

大のサイズで農道をのそのそと進むだけだ。

 ピヨ…ピヨ……信号の上部に設置された目の不自由な人向けの装置が平和な電子音を響

かせる中、ペダルに足を掛けたままぼうっとしていた。私ひとりのときなら、さっさと通過してしまうところだが、日和は律儀にも交通マナーを守る人で、それを私にまで強要してきた。

 これがまたやっかいなんだ。


 彼女はその件に関していえばどこまでも頑なで、私が何を言っても「ダメ、ゼッタイ!」とまるで麻薬のポスターのスローガンみたいなことを言うだけだった。

 一度、私が無視をして渡ったときなどは、まるで一昔前の消費者金融のCMに出てくる小型犬の如く『くぅーん』と今にも泣き出しかねない、つぶらなうるうるアイでこちらをじっと見つめてきた。しかもそれがマジか冗談か、判断がつかないというのだから、まったく手に負えない。

 かくして私は彼女といるときには彼女のルールに従うことにしたのだった。


 交差点を通過して、しばらく進むと学校へと向かう最後の坂道に入る。

 高校生たちは地域住民の迷惑なんか顧みず、仲良しグループで好き勝手に大声で叫んだり、おしゃべりしながら好き勝手な陣形を組み、坂道を登ってゆく。

 朝から妙にハイテンションな男子生徒たちはガッシャガッシャと前かごを左右に揺らしながら立ち漕ぎで一気に坂を駆け上る。どうせ昼飯か何かを賭けているんだろう。

 その後ろ姿はどこまでも真剣で故に滑稽こっけいだ。

 それに比べ、大抵の女子生徒たちは自転車を引きながら徒歩でだらだらとおしゃべりをして坂を登っていく。

 サラリーマンの人々が朝、出勤途中の僅かな余暇を喫茶店で過ごすように、私たちにとって仲のよい友達と坂道を一緒に登る時間は、ささやかなものだけど、貴重なものなんだ。

 日和は黙って自転車を降り、歩道の方に向かう。私もそれに従う。彼女は坂道を自転車で登り切るのに時間がかかるうえ、ふらふらと左右に車体を揺らし、危険極まりない。


 坂道を歩き始めてしばらく経った頃、日和がひとりごとのようにぼそりとつぶやいた。

「あの…ゆ、由花ちゃんの、あの呼び方、恥ずかしいなぁ」

 日和のいきなりの話題内容についていけず、黙って考えてみる。

 彼女が少し照れくさそうにしていることから、彼女が言いたいことがわかった。

 くすりと笑いながら応じる。

「そうだね、ひよりん♪」

 わざとゆっこの声真似をしてみる。

「や、やめてよぉ……」

 すぐに彼女が頬を赤らめて照れ笑いする。もちろん、そんなことを聞き入れてやる私ではな

い。構わずに何度も。ひよりん♪ と呼びまくった。

 しまいには日和が「も、もうっ! と、ともちゃんのい、いじわる!」といってぷいっとそっぽを向いてしまう。けど、私はスルーしてやる。だって、そんなかわいい反応をされたら何度だって言いたくなるよ。

 こっちがまったくもうっ! だよ。


 昼休みになると由花が私の席に来る。私が立ち上がったあと、ワンテンポの遅れで隣の席の彼女が立ち上がる。

 そんな光景を見ても、もはや不思議がるクラスメイトはいない。

 日和もいちいち心配そうに周囲の視線を気にすることは無くなっていた。

「じゃあ、飲み物を買いに自販機まで行こっか、ひよりん♪」

 別にそんなことを言わなくてもわかっているのに、ゆっこはことあるごとに『ひよりん♪』と呼ぶ。そこには日和を友達として認めているという意味もあるのだろうけど、それとは別の理由もあったりする。

 彼女は気に入ったネーミングをことあるごとごとに連呼しまくるクセがあった。

 他にはかえるちゃん。(薬局の前によくあるアレだ)とかがある。

 私たちが飲み物を購入してクラスに戻ると由花の席に集まる。日和も私たちと同じ『弁当部・教室食事科」の一員になっていた。(由花が認定)

 なお、この命名においての一切合切の責任は由花が負うところであり、わたしは一ミリの関与だってないということをここに全力で宣言させていただく。しつこくたって、何度でも。

 

 放課後になると昼休みのときに見つけた本を日和が借りたいというので図書室に付き合うことになった。なぜ昼休みの時間内に本を借りなかったのかと聞くと、本の内容に夢中になっていて予鈴が鳴ってしまい、急いで図書室を後にしたという。

 由花は「ああ、わかるわかる」何て言ってたけど、生まれてこの方、掃除以外で図書室を訪れたことのない私にはさっぱりだった。

 

 3人で図書室に寄るため由花が私たちのところに来る。

 日和が立ち、私もならおうとしたとき、ふいに視界の端で鋭い光を捉えた。

「ごめん、少し寄るところがあるから、先に行っててくれるかな」

 普段通りの口調でふたりにそう伝えた。

 ふたりは少し不思議そうに顔を見合せて、でもすぐにこくんと頷き廊下へと出ていった。数歩後には由花が『ひよりん♪』と呼ぶ声が聞こえていた。

 

 私は机の表面に刻まれたM.S. というイニシャルを指先の表面でなぞったり、スマホでTwitterの動物写真家が撮影した猫の写真を眺めたりしながらしてしばらく待っているとクラスに残る生徒は私以外、ひとりだけになる。

 

 私は軽く息を吐き、席を立つ。

 リノリウムの床とイスが擦過さっかする音が教室の静謐せいひつを乱す。

 窓際に向かうと掃除当番が忘れたのか、もしくは今ここにいるもうひとりのクラスメイトが開けたのか、窓が半分ほど開いている。

 窓辺に立つと湿った風が教室内に滑り込み、私の前髪を軽くもてあそんだ。

「それで、何が聞きたいの?」

 開かれた窓から少し離れたところ、掃除用具入れのロッカーの近く。

 腕を組み、曲げた右の足の裏を壁に乗せ寄りかかるもうひとりのクラスメイトがいた。

「別に」

 つまらなさそうにそれだけ言って、もうひとりのクラスメイト――夏目旭はを指先で耳の後ろにすく。びんはしかしすぐに元の位置に戻ってしまう。彼女がびんをすいたとき、漆黒の髪の中に覗かせた形のよい耳が、シルエットのように目に映えて、残像のように私の記憶に残った。

 私は彼女に礼を述べた。

「あのさ…ありがとう……」

 軽く頭を下げる。

「何が?」

「いや……なんとなくだけど、日和と仲良くになれたのは旭のおかげかなって」

 照れ隠しに俯き加減で頭をかきながら応える。

 旭は向かい側の出入り口を無感情に見ている。熱気をはらんだ風が吹くと背中を汗が伝った。先ほどまで聞こえてきていたはずの他クラスから聞こえてくるおしゃべりや騒音が消えている。

 それと同時に夕陽が強くなった感じがして、私はゆっくりと窓の外へと視線を投じた。

 太陽が雲を抜けたのかもしれない。夕陽が一際強く、教室に差し込んでいた。

 壁を擦る音が聞こえ、旭が両足で立つ。

 刹那、彼女を風が包んだ。

 彼女の長い髪がさらりと流れ、スカートがふわりとひるがえり、すらりとした白い足が見えた。

 黒板のほうへ、ゆっくり、ゆっくりと、音を立てることなく、一歩、一歩、歩んでゆく。

 彼女が私の横をすり抜けるとき、花の匂いをかいだ気がした。

 さわさわ……彼女が一歩踏み出すたび、髪が揺れ、靴音がひそやかで親密な響きを耳元に届けてくる。彼女の垂らした白い掌が机の上をするすると滑ってゆく。

 

 りん――と、鈴の音が鳴った。

 そう思ったものは、彼女の声音だった。


「私はただ、落ちていたピースを拾い、おさめるべきところへおさめようとしただけ」

 彼女が何を言っているのか、わからなかった。ただ、その雰囲気や声の温度から、それは旭の中にある。『ほんとう』だということだけはわかった。

 夕陽を半身に注がれる彼女の背中を見つめていると、ふいにある想いが脳裏をよぎった。

 じゃあ、旭はどうなの?  旭は今、ちゃんとおさまるべきところにおさまっているの?

「とも」

物思いにふけっていた私を旭が呼ぶ。 

 いつもの、鋭利な刃の声。そんな声ですら、 今は少し寂しげに聞こえる。 

「何?」

「早く行ってあげなさいよ。瀬川さん、待ってるんじゃない?」

 ハッとして黒板の上にある丸時計を見上げると、下校時刻はとうに過ぎていた。

「やばっ……」

 たった一言で、現実に引き戻された。

 ふたりのことを想像する。

 日和はきっと、「いいよいいよ」と言って首を振り、優しく微笑むだろう。それが返って私の罪悪感をつのらせるのことも知らずに。

 由花はきっとぷうっと膨れて私は何度も謝りながら彼女の頭を撫でるのだろう。

「じゃあ、またね。瀬川さんと、仲良くね」

 ふふっと、不敵な笑みを浮かべたまま旭はカバンを持つとさっさと教室を去っていった。


 二段飛ばしで階段を駆け上がると息が荒いなのも構わずに図書室のドアに歩み寄る。

 ドアの上部にある長方形のガラス窓から室内を覗くと蛍光灯は消え、色褪せたカーテンが窓を覆っていた。

 もう、帰っちゃったか……。

 ため息をつき落胆していると、かちゃり。

 背後で音がした。

「じゃあ、失礼します」

「クッキー、おいしかったです♪  また今度来てもいいですか?」

 真面目そうな、でも優しさが滲むような声と

かわいらしい、ほわりと丸みを帯びた声。聞き覚えのある声に、私は振り返った。

 そこにはカバンを両手で前に持つ日和と由花が立っていた。


「じ、じゃあ、帰ろうか、ともちゃん」

 日和が頬を染め、ぎこちなく笑う。

「ともっち、おっそ~い!」

 ハコフグよろしく、ぷぅっと膨れる由花。

 ただクッキー効果のためか、機嫌はそれほど損なわれてなさそうだった。

「ごめん、ふたりとも!  帰りに自販機でなんか奢るから」

 と、ドアが開き古河さんが現れた。

「中吉か……。日和ちゃんだね」

 いきなりわけのわからないことをいい出す。

「え?」

「やあ、こんばんは、ともちゃん」

「こんばんは、古河さん。すみません、私のせいでふたりを待たせてしまって」

 ぺこりと頭を下げる。

「ううん。別にいいよ。日和ちゃんも由花ちゃんもいい子だしね。それにどうせ私の従妹いとこが迷惑かけたんでしょう」

「従妹?」

 3人が驚いてたずねると詩織はニコニコしながら頷いた。

「うん、旭は私の従妹だよ」

『ええーーーっ!!』

 私と由花の声が重なり合い、日和は口に手を当てたまま絶句している。

 それでもなお、詩織の完璧な笑みは揺るがなかった。

 この人が、旭の従姉……。

 私たちはしばし眼前に立つ女性を見つめ続けていた。


「……と、いうわけだったんだ」

 最後にそう言って、由花の話は締め括られた。

「なるほどね」

 私は先ほど古河さんが言ったセリフについて、由花から説明を聞いていた。

 要約するとこんな感じだ。

 3人で私を待つ間、初詣の話題になった。そのときにおみくじの話になり、それぞれ何が出たのか、話し合ったという。

 由花が大吉、日和が中吉、古河さんは凶だった。

『待ち人来る、 ただし遅し』

 それが中吉の内容だった。


「じゃあ、また来週~!」

 由花が両手をぶんぶん振りながら自転車を漕いでゆく。私たちは手を振り返しながら内心人にぶつからないか、ハラハラしていた。


 日和が自転車を引きながら歩き出す。

 日和と別れる道まで徒歩で10分くらいの時間、私たちは歩いて帰ることにしていた。

 からからからという、車輪の乾いた音が足下から聞こえてくる。

 私は先ほどの話題を取り出した。

「まさか、旭の従姉が同じ学校にいるなんて思わなかったよ」

「うん。それも古河さんだったなんて、ちょっと想像つかないよね」

「ちょっとどころか、まったくだよ」

「うん、まったくだね」

「どっちよ」

「いや、言われてみると確かにまったくだなって……」

「あ、そう?」

 そのまま会話は途切れ、沈黙が私たちの周囲に降り注いでくる。由花と一緒にいるときと違い、彼女といるとそんな時間ばかりだ。

 初めこそ、「何か話さなきゃ!」と思い、 沈黙の到来を恐れたものだけど、今は「ま、

いっか」で済ますことにしている。

 彼女と一緒に過ごすには「間」という空白の時間が必要だとわかったから。


 別れ道に来ても私たちはその場に立ったまま、なかなか歩きだそうとはしなかった。

 日和はじっと空を見据えている。何かを考え込んでいるようでもあり、何も考えてないような気もする。

 あるいは何かを待っているのだろうか?

  私がたった一言 「また明日」と言えばこの空間は動き出すのだろうか。

『あの』

 私と日和の声が重なる。驚いて、見つめ合い、すぐに日和が俯く。

 私が顔を逸らしたとき、視界の隅で何かが揺れた。そちらへ顔を向け――固まった。

 ピンと張った三角の耳なめらかな背中は長いしっぽへと続いている。ガラス球の透明度を宿したふたつの瞳が微動だにせず、私と視線を交わしていた。

 黒猫、だった。慎重に猫に歩み寄ろうとして、肩をつつかれた。

 日和が小さく首を振っていた。私は黙って頷き、ふたりで遠目に見ることにした。

「かわいいね」

「うん、かわいいね」

 黒猫はこちらに視線を走らせるとちょこんと座り、グルーミングをしながら、私たちが声を発するたび、耳をぴくん、ぴくんとさせる。

 黒猫はグルーミングを終えるとさっさ道を横切り、塀に飛び上がり家と家の影にすっと溶けて消えた。


 いつの間にか西日は大きく傾き、影が身長を超え、長く伸びている。

 夕凪に入ったのだろう、風が無く、握りしめた掌がすぐに湿り気を帯びてくる。口の中が乾いている。それらは夏の日差しのせいか、あるいは自身のこころによるものか、わからなかった。

 すっと息を吐き出すと、少しだけ気持ちを落ち着けることができた。そのまま一拍おいて、口を開いた。

「あのさ、日和……」

 日和は空を見上げていた。夕暮れどきに見る横顔は、いつだってどこか寂しげに映る。

 日和が聞いてるというふうにこくりと頷く。 

 

 私は静かに約束の言葉を紡いだ……。

 

 夕陽が山裾に溶けゆく中、私たちの影は、なかなか動かなかった。

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