雨 その4 智香

「あの…これ、どうぞ…」

 瀬川がおずおずと差し出した湯飲みからはうっすらと湯気が立ち昇っていた。

 軽く礼を言い受け取る。

 瀬川は湯飲みを片手にしたまま困ったように座る場所を決めかねていたが、結局私のはす向かいの無難な位置に納まった。

 内心苦笑しながらお茶を一口飲む。一番茶ということもあってか味は薄かったが、冷えた体には十分だった。

 ほうっと息を吐き、周囲に視線を巡らせた。

 私たちは今、リビングにいた。

 木目テーブル、あずき色のソファとその上に転がるペアクッション、舌をぺろりと出した猫のカレンダー、観葉植物――その他雑多なものがリビングに満ちている。


 きっかけは、私の一言だった。

「あのさ、瀬川さん。ちょっと上がっていってもいいかな?」

 なぜ私が彼女に執着しゅうちゃくしているのか、その理由が知りたくて、このまま帰ったらまたもやもやとした思いを抱えると思ったから。

 気が付くと私はそう言っていた。

 瀬川を見るとやはり私のほうを見つめたまま固まっていた。まあ、わからないでもない。


「会いに行ってみなよ……。瀬川さんに、会いたいんでしょう?  会って、何か伝えたいことがあるんでしょう?」

 旭の言葉が思い起こされる。そうだ、瀬川と会って私は確かめなくてはならない。彼女が私に何を求めているのか。そして、それに対して私自身どう応えるべきなのか。

 あの日、図書館掃除の帰り道に視た、澄んだ瞳の中に映っていた煌めき――――そのあかりを知るために、私は今、ここにいる。

 目を閉じて、眼前に立つ少女に思いを巡らせた。

 

 転校初日、まるで母親に手を引かれる幼子のように担任の背に隠れるみたいに入ってきた瀬川。ささいなことに狼狽ろうばいし、恥ずかしそうに頬を染めて俯く瀬川。一呼吸置かないとまともに話せない瀬川。そして、クラスメイトの前でいきなり泣き出した瀬川。とぼとぼ歩く丸い背中、蚊の鳴くような声音。ビクついて、鈍くさくて、グズで、泣き虫で、病弱で、気軽な謝り方すら知らないで、かえって相手を嫌な気分にさせてしまう不器用過ぎる彼女。そんな子が、転校生の瀬川だった。

 何というか、本当にどうしようもない奴だと思う。考えるだけでここまで気が滅入る子ってのも、なかなかいない。


 一種の才能かもしれないな……まったくうらやましくないけど。

 そんな瀬川が数学の授業中、私の肩を揺すって起こした。(正確には睡眠を妨げたん

だけど……)その行為はきっとすごく勇気のいることではなかっただろうか。


 彼女のことを、旭はいい子だという。

 でも私は勝手な奴だと思う。

 

 勝手に泣いて、勝手にへこんで、勝手に悩んで、勝手にマジになって謝ってくる。

 まったくもって、勝手放題だ。

 ある意味、由花以上の妄想家なのかもな。それにしても、何で私にはこういう変な子ばかり集まってくるんだろう……。

 でも、まあいいや。

 私自身嫌いじゃないし、そういう子。

 私は、瀬川に笑っていて欲しかった。 

 一歩身を引いたところではなく、私のすぐ隣に立ち、笑っていて欲しかったんだ。


 彼女が笑うと、私の胸の奥底でぽうっとあかりがともる気がする。それはちいさな、本当にちいさなあかりだったけど、だからこそ私の琴線きんせんに触れるのだった。


 目を開き、彼女を見た。瀬川も無言のままこちらを見つめていたが、すぐに肩は小刻みに震え始める。あまり時間はかけられない。

 私は手を伸ばし、テーブルの上で湯飲みを包んでいる瀬川の両手に、そっと自らの手を重ねた。

 彼女がびくんと一度、大きく肩を震わせる。彼女の掌は温かくて、重ねたふたりの掌はすぐに汗ばみ始めた。

 自分の頬が熱くなるのを感じる。これから言うセリフは私を耳まで真っ赤に染めることだろう。それでも言うんだ。

 この気持ちを、はっきりと瀬川に伝える為に……。


 言葉はいつだって曖昧あいまいで、人のこころを癒しも傷つけもするけど、私たちは言葉と共に歩み続けなければならない。

 だからせめて、想いを込めて、私はつづろう。


「瀬川、風邪が治ったら一緒に登校しよう」

 瀬川が眉根を寄せ、困惑気味に首を傾げる。  

 構わず、続けた。

 一緒に昼食を食べよう。一緒に下校しよう。休日は一緒に買い物や映画館に行こう。一緒に都内に出かけたときはおしゃれな喫茶店とか、おいしいパスタのお店とかの場所、教えてね。それから、それから……。

 私はとにかく思いつけるものを片っ端から上げ連ねてゆき、そのすべてで『一緒に』を強調して言った。


 いつだってはじまりはこんなもんなんだ。そう――友達の始まりは……。


 私はすっかりぬるくなり始めたお茶を一気に飲み干すとうつむいて瀬川の返事を待った。

 今までで一番長い時間だった気がする。

「…あの…その……えっと……」

 どもりながら、瀬川が言葉を紡いでゆく。顔を下げたまま、じっと待った。

「……わたし……なんかでいいの……?」

 弱々しく、不安に満ちた声。

 その声を落ち着かせるため、やさしい声で告げた。

「もちろん。瀬川さんだから、だよ」

「ほん…とう、に?」

「うん」

 沈黙。沈黙は苦手だ。特にこんなときは嫌なことばかり考えてしまうから。私は彼女の指先がもじもじする様を見ていたが、ついに沈黙に耐えかねておそるおそる、顔を上げ――目を見開いた。








 瀬川の瞳の端に光が溜まっていた。瞳から零れた光は瀬川の輪郭りんかくに寄り添うように、ゆるやかな曲線を描き、顎の下へと伝い、落ちる。







 気が付いてしまえば何のことはない、ただの涙だった。


 でもそれは、瀬川にとって、きっと特別なものであるはずだった……。







「あ、あれあれ? どうして、こんな……うれしいのに……」


 ふいにあるセリフが浮かぶ。それは結構恥ずかしいセリフだったけど、さっきのに比べたらたいしたことなかった。


「大丈夫だよ、瀬川……」


 大丈夫だよと、まるで幼子に言い含めるように何度も伝える…。

 瀬川がそのセリフにハッと驚いて、こちらをまじまじと見つめてくる。そして小さく何度も頷くと、余計に泣き出してしまった。

 やばっ、何か余計に泣き始めちゃったよ!

「うあ、ご、ごめん瀬川っ! 本当にごめんっ!」

 私はわたわたと前に突き出した手を上下に振り、瀬川は違うの、違うのと言いながらぶんぶん首を振り続けた。

 


 後から思い出すと、それはすごくおかしな光景だったけど、このときの私たちは本当に、本当に必死だったんだ……。

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