雨 その3 日和

 雨の音をぼんやりと聞きながらふと、ミシンの音が聞こえないことに気付いた。

 そうだ、今日はお母さん、バイトだったっけ。

 昼間にひとり、室内で横になっている。それだけで主不在の家はどこかよそよそしく感じられた。

 例えばそれは、今自分を包み込んでいる白い壁だったり、整理の行き届いた部屋の様子だったり。窓ガラスの外は一面灰色の世界。 閉ざされたドアは外界と自分との間を隔てる境界のようだ。

 天井の隅にあるクモの巣には、やはり主はいない。捕らわれた虫たちの残骸がエアコンの風に小さく揺れている。

 そんな光景を見て、おもむろにサイドボードに置かれたスマホと黒猫のキーホルダーを手に取る。着信履歴も留守電も新着メールの有無も、わざわざ確認するまでもない。ロック画面には首に真っ赤なリボンを結ぶ黒猫のイラストが映し出されていた。  

 黒猫のキーホルダー。人差し指でその背中を撫でる。つるりとした表面は心地よく、同時にあっさりとしすぎているその手触りが、ふいに寂しく思う。だから、時々何度も撫でてしまう。撫でながら自然、つぶやいていた。

「奈月ちゃん……」

 雨に濡れる窓を見上げながら、遠い彼女を想う。

 奈月ちゃん、どうして連絡をくれないの?

 奈月ちゃん、もうわたしのこと、忘れてしまったの? 奈月ちゃん、もうわたしたちは友達じゃないの?

「これで、ずっと一緒だよ……」

 はにかんだ笑顔で、奈月ちゃんはそう言ったのに……。

 ずるいよ、奈月ちゃん。そんなことを言われたらあなたを責めることもできない。

 ねえ、奈月ちゃん、どうしてあんなことを言ったの? どうして、わたしにキーホルダーをくれたの? ねえ、どうして?  どうしてどうしてどうして……。

 頭がぼおっとして、胸が熱い。鼻がつぅんとして、 顔が引きつってくるのがわかる。視界がぼやけ、歪む。肩が小刻みに震え出し、瞳を閉じた。いつの間にか溢れた寂しさの雫が頬をすぅっと湿らせていた。

 私は声を殺して静かに泣いた。


 サアアアアアアアア――――。


 耳もとで雨音がいつまでも続いていた。どれくらいの時間がたったのだろう。意識は確かにあったのに、でも同時に失われていて、気が付くと白い壁を眺めていた。

 と、何かの音が聞こえる。その音は断続的に繰り返し、耳もとで響いた。

 チャイムだ。

 そう、来客を告げる玄関のチャイム。

 意識がしっかりしてくるとより鮮明に聞こえる。

 …お母さん、いないのかな……あ、そっか、今日はバイトだったっけ。それにしても、さっきからずいぶん鳴らしている気がする。一体、誰なんだろう? 

 正直無視を決め込んでこのまま横になっていたい気持ちもあったが、雨の中、わざわざ訪問して何度もインターホンを鳴らしていると思うと申し訳ない気持ちがわずかに勝ってくる。このまま放っておくわけにもいかないし、それに大事な用なのかもしれない。

 わたしは布団から起き上がると自室を出て階段を下りる。

 とんとんとん――少しひやりとした床板を足の裏に感じながら、リビングに備え付けのインターホンで声を確認しようか考え、でもすぐに却下した。

 こんな田舎町だし、怪しい人なんかいないよね。そう高をくくって玄関のロックを解除して取っ手を押した――――まま、わたしは固まった。

 ドアロに立つ相手もまた、固まっている。

 予想外の展開に、しばし見つめ合うわたしたち。

 先に我に返って沈黙を破ったのは、相手のほうだった。

「こ、こんにちは……」

 片手を上げ、相手がぎこちない笑みと共にあいさつをしてくる。混乱の中、かろうじて声に反応して小さく頷いた。そのままわたしたちはまた、黙り込んでしまう。

 その沈黙がわたしに少しずつ冷静さを取り戻させていった。

 取っ手から手を離し、ドアを肩で支えながら相手の全身をまじまじと見つめる。

 黒くツヤのある短い前髪は雨に濡れ、額に貼りついている。髪の先端からはときおり水滴が落ち、泥だらけのローファーの足下に小さな水たまりを作っていた。

 横殴りの雨に濡れた制服からは雨と汗の混ざった独特な匂いが立ち昇る。片手にはビニール傘、別の手には学校指定の通学カバンを持ち、その人物は戸口につっ立ったまま少し気恥ずかしそうに視線を落としていた。

 …朝倉さん……だ。でも、どうしてわたしの家に朝倉さんが来るんだろう……。

 もしかしてこれは夢なのかな? そうだ、きっとそうに違いない……。

 試しに左の頬をつねってみる……痛い……あれ……?

 今度は右の頬をつねってみる……やっぱり、痛い……。あれ、あれ?

 驚いて相手を見る。目の前にいる朝倉さんもなぜか不思議そうな顔でこちらを見ていた。

 わたしは言葉を選びながら、慎重にたずねる。

「……その……朝倉さんは…えっと… 朝倉さん……ですよね……?」

 そう言ってから頭を抱えた。

 何を言ってるんだろう、わたしは。

「え?」

 目の前の朝倉さんがそのまま絶句してしまう。そりゃそうだろう。

 わたしはひとつ息を吐き出してなんとか気持ちを切り替える。

 と、新しい考えが頭に浮かんだ。顔を上げて頬が赤いのも構わずに、ゆっくりと彼女に手を伸ばす。

 風邪のせいで少し呼吸が荒いのは、彼女も理解してくれている…と、思う。手元がふらふら揺れてしまっていることも、たぶん…きっと…大丈夫だと思う……思いたい――そんな希望的観測……。

「な、な、な……」

 掌の先で朝倉さんが少し身を引き、そして……パシン! はたかれた。だめだった。

「あ、ご、ごめんなさい…」

 意識より先にわたしは条件反射で謝っていた。

「いや、こっちこそごめん。ただ、な、なんか動きが怪しかったから…つい」

 ちょっとショックだった。そんなにわたしは怪しい動きをしていたんだろうか。

 でも、これではっきりした。

「…あの…その……朝倉さんは、本当の、朝倉さんなんですね?」

 …もう穴に入りたい。今度こそ確実に呆れられる。そう思い、ため息をつこうとしたとき……。

「うん」

 朝倉さんが素でうなづいていた。

 目を見開いて彼女を見つめる。

 わたしの反応に「あれ?」という顔をしてたずねる。

「もしかして私、何か変なこといった?」

 無言で首を振った。振りながら、でもやっぱり朝倉さんの反応がおかしくて、俯いてちょっとだけ笑った。

「あ、笑った。やっぱり、何か変だったんだ」

 朝倉さん、すごい地獄耳。

「ねえ、教えてよ」

 わたしは顔を上げると笑いながらやっぱり首を振った。むっつりとし始めた朝倉さんを見ながら、わたしはこころの中でちょっと謝った。  

 ごめんね、朝倉さん。

 でも、この気持ちはわたしだけのものにしておきたいんだ。それに、このことを朝倉さんに説明するにはわたしではちょっと難し過ぎる。

 朝倉さんはしばらく「むうぅ…」と唸っていたけど、すぐに「ま、いっか」と言った。

 そっけない言葉だったけど、その声はどこか笑っているようだった。

 だからきっと、彼女にも何かが伝わったんだと思う。


 朝倉さんはカバンからプリント用紙の束を取り出すと手渡してくれた。

 プリントは学校の今後のスケジュールなどの連絡事項とわたしが休んでいた間、授業で配られた宿題のプリントのようだった。

「それを届けるように頼まれたんだ」

 朝倉さんはわざと視線を外してくれる。そんな小さな気遣いがうれしかった。

「あの雨の中、わざわざプリントを持って来てくれて、ありがとう。それと、迷惑かけて、ごめん…」

 最後の言葉は尻すぼみだった。

「え? 別にそんなこといいって」

 朝倉さんが気にしてないというように手を振る。そんな様子が申しわけなくて、わたしは更に俯いて謝罪する。

「ううん。ほんとに、本当にごめんなさい…」

 今度は朝倉さんの返事はなかった。

 ああ、まただ……。

 目を閉じると体の奥底からじわじわと苦い思い出が浮き上がってくるのがわかる。


「瀬川ってさ、なんかメンドクない?」

「ほんとほんと、たいしたことじゃないのにマジで謝ってきたりしてさ、そういうのウザイっつーのわかんないのかね?」

「ウザイっていうか、ちょっとキモくな~い?」

「ああ、言えてる言えてる」

「つーかもうシカトでよくね?メンドイじゃん」

「うん、決定」

 そうして、周りからクラスメイトたちは去っていった。誰かに対してマジメに謝れば謝るほど、なぜか空気は沈んでいった。

 だから声が尻すぼみになる。でもそんな言葉は誰にも伝わらない。今度は感謝も謝罪もしない人間だと陰口を言われる。

 気が付くと人と接するのが怖くなっていた。

 そんな日和の日々を救ったのが、奈月だった。

 でも、彼女は…もう……。

 口をつぐむ。これ以上は、言ってはいけない。言ってしまったら、それが現実になってしまいそうで、言いたくなかった。


 わたしは朝倉さんに最後にと、黙礼をしてドアの取っ手を掴んだ。

 そのとき、朝倉さんが何かを言った気がした。

 わたしの喉はカラカラに乾いていて、首筋にはうっすらと汗がにじんでいる。頬はやはり熱い。肩が大きく震え、感覚の不確かな指先で気持ちだけは取っ手を強く握り込む。

 そうやって自分の意識をしっかりと保とうとしてもなお、今の言葉が信じられず、でもその言葉を信じたくて……。



 だからわたしはおずおずと……ゆっくりと時間をかけて――――顔を、上げた。

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