昼休み その1 日和

 4時限目のチャイムが鳴ると数学教師の合図で小テストの終了が告げられクラスに張りつめていた空気がやわらかなものとなる。

 クラスメイトたちはそれぞれにため息をついたり、談笑をしたりしながら答案用紙を前の人にまわしてゆく。

 そんな和やかな雰囲気がクラスに満ちる中、ひとり重いため息をついていた。

 ノートのニアミスに気づいたのは、先生が1番目の生徒の解法をチェックしているときだった。そのとき朝倉さんは席に着き何か考え事をしていた。

 先生が朝倉さんの名を呼び、立つように示した。朝倉さんが驚いてわたしの方へと視線を向ける。わたしは何も言えず、ただ俯くことしか出来なかった。

 小テストのプリントが配られても朝倉さんはプリントには手をつけず、やはりぼんやりと何か考えごとをしているようだった。

 昼休みになると同時に元気な男子生徒の一群が教室を飛び出して行く。わたしは少し時間をおき、カバンを片手に人の出入りがまばらになった戸口から廊下に出た。

 屋上へと続く階段は普段、人が来ることは無い。そのことをわたしは経験上知っていた。

 屋上の扉が施錠してあることを確認し、階段にハンカチを広げて敷くとその上に座る。

 弁当箱を取り出そうとしたとき、 何かを擦るような音が聞こえてきた。カバンを胸に抱き、息を潜める。

 こつり、こつりと聞こえてくるその音は、どうやら階下から響いてくるようだった。

 硬質な音の響き方からそれが上履きやスリッパでないことがわかる。教師であることは確実だ。

 靴音が徐々に近づいていた。背中にじわりと汗が滲む。唾を飲み下すことができず、口内に唾が満ちる。心音が今にも聞こえてきそうだった。

 わたしは片手をポケットに突っ込み、掌に触れたものをきゅっと握る。

 ふいに、音が消えた。目をつむり小さく安堵のため息をつき、再び目を開くと踊り場に人が佇んでいた。音が消えたのは、踊り場に到着したからだった。そして一歩、わたしの視界に現れた。

「やあ、日和ちゃん」

 その人物はわたしへにこやかに笑いかけた。


 図書室の司書、古河さんはわたしがここにいたことについて何も聞かなかった。

 彼女は施錠された屋上への扉に寄りかかり、手に持っていたタバコをおもむろに吸い始めた。

 やがてタバコを吸い終えた古河さんは携帯灰皿にそれをねじ込み、こちらに掌を差し出した。戸惑っているとさっさと手を掴んでわたしを立たせる。

「日和ちゃんをご招待します」

絵本に出てくる貴族の人がするように胸に手を添えて頭を下げると古河さんがニコリした。


 古河さんに案内された場所は図書準備室だった。古河さんは片手で室内を示し、「ようこそ我が城へ!」

 真剣に言って、でもすぐに笑い出した。

 室内の中央には大きな机が置かれデスクトップ型のパソコンが一台。壁際には書類やファイルなどを保管したねずみ色のスチールラックがあり、他に備え付けの簡単なキッチンなどがある。静かな室内に冷蔵庫の重低音がささやかにその存在を主張していた。

 ドアに立つわたしに彼女が声をかけた。

「ぼーっとしてないで、ほら、ここに座って座って!」

「は、はい」

 我に返り、慌ててソファに座り、

「わわっ!」

 慌てて立ち上がる。それを見つめ古河さんがくすりと笑う。わたしは頬を染め、俯き加減にソファを見つめた。

「あはは、驚いた? そのソファ 低反発素材を使っているのよ」

 おずおずとソファに触れてみる。手触りのよいブルーのカバーをかけられた部分がふにゃりと歪む。

 うわぁ………なんか、すごく気持ちいい。

 初めこそ指先でつついていたわたしはいつの間にか掌全体でその感触を味わっていた。

「まあ、けっこうお高いものなんだけどね。どう、クセになるでしょ」

「は、はい。 なんか、すごいです。これ」

 ゆっくりとソファに腰を落ち着けた。やわで頼りない不安感と同時に、全身を優しく包まれているような安堵あんどを覚える、そんな不思議な感覚。

 目を閉じると窓から差し込む午後の日差しが体をぼうと暖めるのがわかる。 古河さんが何かを開けるような音がする。

「日和ちゃん、麦茶飲む?」

「え、そんな……」

 あわてて起きあがろうとするのわたしを手で制しながら古河さんが微笑む。

「学生が遠慮なんかしないしない」

 古河さんが麦茶をグラスに注ぎ、わたしに手渡してくれた。

 透けたグラスに注がれた麦茶は陽光を受けキラリと輝いた。

「す、すみません」

 グラスを受け取る。古河さんは愛想良く頷くと自分の分もグラスに注いだ。

 太陽が雲に隠され、無灯の室内に淡い影を落としている。風がカーテンを静かに揺らしていた。グラスを机に置いた古河さんが伸びをしながら言った。

「私、昼食まだなんだけど、日和ちゃんはもう食べた?」

「え…あ、ま、まだです」

「そっか、じゃ、一緒に食べよっか」

「え?」

 いきなりの提案に呆気にとられる。

「嫌かな?」

 とたんに古河さんが悲しげな表情を浮かべる。

「え、あ、いえ。よ、よろしくお願いします!」

 なぜか深々と頭を下げていた。

「はいはい、よろしくお願いされました」

 古河さんも深々と頭を下げ、顔を上げるといたずらっぽく笑う。

 本当、変わった人だ。思い、口もとがゆるんでいた。

「日和ちゃん日和ちゃん」

 古河さんが手招きするように掌をぱたぱたさせる。

「はい?」

「なんかいいことでもあったの?」

「え?」

「だって、なんか口もとが嬉しそうだよ」

「あ、あはは。な、何でもないです」

「ふうん。ま、いいや、ご飯食べよ」

 頷くと手にしたウーロン茶を飲んだ。口の中をひやりとする液体が潤してゆく。

 そこに小さな幸せを感じながら、わたしは軽く瞳を閉じた。

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