3日目 朝 午前中 智香

 平日の朝、いつもの通り道、いつもの時間。   

 私は欠伸をかみ殺しながら自転車で登校していた。

 県立清風けんりつせいふう高等学校。それが私の通う高校の名前だ。この高校は小高い丘の上にあり、坂の勾配こうばいは緩やかで、ふたり乗りをしていてもすいすい進む。ただ丘の頂上までの距離はけっこうあるため、結果、正門に辿り着くまでにはけっこうな汗をかくこととなる。 

 この高校は夏の帰宅時に正門に立つとちょうど夕陽が山々の稜線りょうせんに没していく様を見ながら帰路につくことができる。

 それはここに通う私のささやかな楽しみでもある。つまるところ、私はこのガッコウが結構気に入っていた。

 

 正門を抜けたとき、前方を歩く人物に気付き立ち止まった。立ち止まってから、内心舌打ちした。

 まだたった2日しか経ってないけど、前方を歩く人物が誰なのかはすぐにわかった。

 転校生が両手で自転車のサドルを掴み、俯きながらとぼとぼ歩き、ときどきため息。

 あれは当分友達なんかできないな。転校したてで余裕がないのはわかるけどさ、それを考慮したって、ちょっとあれはない。

 私たちだって、別に積極的に新しい友達が欲しいと思っているわけじゃない。見ているだけでこちらの気分が沈んでしまいそうな子とは一緒にいたくない。

 私は自転車を引きながら足早に彼女の脇を通過した。転校生が顔を上げ、何かつぶやいた気がしたけど、私は知らんふりしてさっさと昇降口を目指した。


 教室に入るといつもの日常がそこにあった。

「あ、ともちゃんおはよー」

「おはよ、ともっち!」

「はよー、とも!」

 それぞれにあいさつを返しながら今日の時間割に合わせて机の中を整理する。

 机の中に折れ目のない新品同様の「数学I」を突っ込んでいると教室の戸が引かれ、視界の片隅に転校生が映った。

 クラスはいつもの賑やかさを保ったままだ。クラスメイトたちの会話はとうとうと流れてゆく。それでも目を閉じ、耳をすませば聞こえてくる。

 誰か声かけてあげなよ、かわいそうじゃん。

 私? 私はちょっと……。だってさ、また泣かれたら嫌だし、もっと気まずくなるじゃん。そうなったら、本当にどうしようもないじゃん――そんな声が聞こえてくる。

 担任には言わない、黙ってる。高校生にもなってそんなバカはいない。それに担任はきっと気付いている。でもあえて何も言わない。自分たちの問題は自分たちで解決しろ。きっと、そう思ってる。

 そういうスタイルを想うとき、私は「ああ、この人は大人なんだな」と思う。

 それくらいさっぱりした生き方には憧れるけど、反面、ちょっとムカツク。教師らしいとか教師らしくないとか、そんなんじゃない。ただ、何かがムカツクのだ。いつかは私も担任みたいな『大人』になるんだろうか。なりたいような気もするし、なりたくないような気もする。

 ふらり…ふらり……私のこころは右に行ったり、左に行ったり。

「うむ、じゃあ、はじめるかのぅ」

 軟体動物さながらに身体をくねらせるストレッチ運動の後、数学教師山根の授業が始まった。

 今日は授業の最後の10分間で小テストをすると言ってた気もするが、今日の私はすこぶる快調だった。カップラーメンが食べ頃になるより迅速に、意識は密林地帯の底なし沼へとダイブしていた。

 どうせ成績にはカンケーないし、起きてたってわからない。

 まじめに授業を受ければわからないことなんでない。中学校の頃にいた熱血数学教師の戯れ言を信じたこともあった。

 でもそんな私は1ヶ月後にその教師の試験で散々な点数をとり、空手有段者の母親に正拳突きを食らった瞬間、跡形もなく消え失せた。

 つーわけで、惰眠だみんをむさぼることにする――つもりだった私をまたしても妨げる奴がいた。

「……」

 無言で相手を睨みつける私。

「……」

 教科書から覗く赤い耳の人物。

「ちっ」

 更に追い打ちをかけるべく舌打ちする私。

「……」

 震え出す相手。

「……」

 頬杖ついて半眼な私。

「……っ!」

 耐えきれず教科書を落とす相手。

 ああ、瞳がうるんでる潤んでる。

 チワワの如く潤んでいらっしゃる。

 このままいったら泣くかな? 泣きそう。

 それはちょっとかわいそうか。

 わたしが視線を外すと隣から微かな吐息が聞こえてきた。

「んで、私になんか用?」

 まあいいたいことはだいたいわかるけどね。

「......」

 しばしの沈黙。もちろん想定内。きっと話す内容を考えたり、こころの準備をしたり、その他もろもろ必要なんだろう。

「あの…その…えっと……」

 そういって転校生が口をつぐむ。

 話す内容考えてなかったのか。いや、彼女は話を切り出すときに必ず一呼吸おかないとダメなのかも。俯いた転校生の手がスカートのポケットに突っ込まれる。そういえば、前に話しかけてるときにもスカートのポケットに手を突っ込んでいた気がする。一体何が入ってるんだろう。

 転校生は一拍置いて口を開いた。

「今日数学小テスト…だから、受けたほうが、えっと……」

 そういった声はさっきより気持ち、落ち着いている気がする。

「はあぁ~っ!」

 わざと声に出してため息をついた。

 転校生が肩をびくりとさせ、黙り込む。

 このままじゃ毎回起こされかねないな。

 私は嘆息し、話を切り出した。

「私、数学の授業って基本居眠りすることにしてんだよね。だから放っといてくれる?」

 一気にそうまくしたて、転校生を横目でうかがう。

 転校生が目を見開きでもすぐに我に返り俯いてしまう。

 ちょっときつかったかな。ま、こういうことはハッキリ言っとかないとね。

「じゃ、そーゆーことだから」

 そうして眠ろうとしたとき――

「んん~? なんだぁ、朝倉ぁ~、起きてたんか~?」

 山根が立つようにで示し、まるで珍しいものでも見るようにしげしげと見つめてくる。

 いや、まあ確かに珍しいだろうけど。

 授業に退屈していた生徒がここぞとばかりにチラチラとこちらを振り返る。

 由花が手を振っている。なんか、嬉しそうだ。旭はスマホを取り出し写真で私を撮ってやがる。

 くっ、人を見せ物みたいに。

 まあ、わたしだって同じ状況だったらやっぱり同じことをしてるだろうけど、内心の嫌味に舌打ちしながら返答した。

「も、もちろんですよ~」

 だからわたしを指名するなよ~。

「ほうか~?」

 山根がわざと呆けた口調でしゃべり、にやりとする。

「はい!」

 半ばヤケ気味に大きな返事をする。

「ほうか、ほうか、ふうむ」

 山根がわざとらしく顎髭あごひげ撫でさする。むう、ついてない。確か山根は授業中に問題を指名した生徒が解けない場合、別の問題をさせて、正解するまで授業中ずっと座らせてくれないんだよな。以前由花にそう聞いた気がする。

 つまり、私にとっては「授業が終わるまで座るな!」と命じているようなもんだ。

 私は教科書に視線を落とすふりをしてスマホの待ち受け画面を見る。授業が始まってからまだ10分くらいしか経っていない。

 ということは、今指名されたらあと四十分も立ち続けるのか。はは、ぞっとしない。

「ほうしたら……」

 そういって顎の辺りを抑え、首をやや傾げ気味にして入れ歯の位置の調整をする。

  眉間に寄った深いシワが放射状に広がり、 こころなしか唇がタコチュー。

 くうっ! だ、だめだ。今笑ったら確実に指名される! ていうか、わざとだろ絶対っ!

 私以外、ほとんどの生徒が声を潜め笑っている。旭はすかさずスマホの、おそらくはムービー機能を使って撮っている。

 彼女と目が合うと、にやり。私の笑いを堪えている顔をパシャリッ!

 くそぅっ、あ、旭~っ!!

 と、山根の近くに座っているおバカな男子が 「ぶふううっ」と吹き出した。合掌。

 山根がすぐにそちらに振り向こうとして入れ歯の最終チェックを行い、振り向いた。

「誰じゃ、今、笑ったんわっ!」

 し~ん。クラスメイト全員が息を潜める。 異様な緊張感がクラスを支配している。

 私としては、他の笑いを堪えている顔を写メに収めてやりたかったが、撮るときに音がしてしまうので諦めた。

 翁の面のように細められた山根の瞳がクラスの全生徒に走り――「お前じゃなっ!!」

 漫画だったらずびしぃぃっ!という擬音がしそうな勢いで教壇最前列の女子生徒を指差した。ただ、猫背の上に片手を背中にまわしているため威厳もへったくれもない。

 指名されたのはやはり、期待を裏切らない。 我が校きっての不運な最前列の女子高生だった。山根の耳が悪いからか、彼女が不運なためか、それは誰も知らない。

 とにかく、彼女の不運に感謝!

 狼狽ろうばいしているその背中をわたしが拝んでいると肩を誰かがつついた。見ると転校生が私にノートを差し出してくる。不思議に思い、私がたずねようとしたとき「朝倉ぁ~、 な~に座っとるかぁ」

 山根が私を呼んだ。

「はい?」

 呆けた返答のまま黒板を見ると、山根が黒板をチョークで叩いた。

 黒板には問(1) (2) とある。(1)の問題を彼女が必死にチョークを走らせている。

 問題はふたつあったのだ。私は驚いて転校生に視線だけ向ける。

 転校生は顔を背け、無言で頷く。

 どうやら私を助けてくれるらしい。

 本当、変な奴。

 人の顔を見て話すことが出来ず、顔を背けながらぼそぼそと途切れ途切れにしか話ができないくせに。見つめられただけで耳を赤くし、身体を震わせながら瞳を潤ませるくせに。

 それくらい、人と接するのが苦手なくせに。

 どうして、私にお節介をやくのよ。私、あんたの名前覚えてないよ。聞いたけど、半日もしないで忘れたよ。話しかけるのが面倒臭くてほとんど無視してたし。さっき授業中に起こすのウザイって言ったじゃん。あんたが何考えてんのか、私わかんないよ。

 転校生が俯いて肩を震わせるのに気付き、前を向く。

 黒板を見ると日陰がちょうど問題を解き終え席に着くところだった。

 山根が「早くしろ」というように私を見ながら黒板に顎をしゃくる。

 私はひとつ頷くと視線をそのままにいった。

「…ありがと…」

 転校生はきっとさっきの私みたいに呆けた顔をしてるんだろうな。

 そんなことを思いながら、私はノートを手に黒板へと向かった。

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