帰宅 日和

 夕暮れの空のもと、わたしの影法師がアスファルトに伸びている。自転車を引きながら帰路についていた。

 とぼとぼとぼ、はあ……。

 とぼとぼとぼ、はあ……。

 三歩毎の、ため息。

 よりによってあんな状況で悪いくせが出てしまった。あれじゃあまるで、彼らがわたしをいじめていたみたいじゃないか。見えなかったけど彼らの困惑した気配は、はっきりと感じていた。

 今までで一番のため息が出た。


 自動ドアが開き、中に入って来たわたしに気づくと背を向けていたバイトの男の子が首だけ振り返り、気のない返事をしてすぐに手元にある揚げ物の袋詰めを再開した。夕刻を迎えた田舎のコンビニは、普段に比べ少し賑やかだ。フライドチキンや唐揚げなどの揚げ物類が豊富で、このコンビニでも多数取り揃えている。 

 そのため夕方になると主婦たちがそれらを買い求めにやって来るのだ。

 わたしは少し迷ってからA5サイズのノートとウーロン茶のペットボトルを選び、列に並んだ。


 コンビニを出たわたしの足は帰路より少し外れる。

 そこは引っ越してきた日の翌日、何気なく散歩をしていたときに見つけた小さな公園だった。公園といっても、ブランコとベンチと砂場くらいがあるだけの簡素なものだ。

 わたしはひとつのベンチに座るとカバンを開け、先程コンビニで買ったものを中に移し、かわりに手ぬぐいに包まれたものをカバンから取り出した。手ぬぐいの結び目を解くと中から卵形の弁当箱が現れる。弁当箱のゴムバンドをスライドさせ、手つかずのご飯とおかずをコンビニのビニール袋にあける。


 目を閉じて、呪文のように唱える。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 まるで髪の毛を飲み込んでいるような感覚。 

 喉に髪の毛がへばり付いてうまく飲み込めない。飲み込んでもまだへばり付いているように錯覚する。その言葉を口にするたび、意識から色彩が失われてゆく。

 口を結びゴミ箱に捨てたとき、ふいに胸がずきりと痛んで胸を抑え、体を折る。それはときどきわたしを襲う痛みだった。何度経験しても、その痛みに慣れることはない。痛みはなかなか引かない、ズグリッ、ズグリッ……執拗しつように、傷口を痛めつける。

 それでも唱え続ける。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 その言葉はどこにも行けない。ただわたしの周囲にまとわりつき、さいなみ、感覚と意識を鈍化させてゆくだけだった。


 自宅についたわたしは階段をのぼると突き当たりの自室に入った。薄暗い室内を窓から差し込む夕日の赤が照らしていた。

 カバンをベッドの近くに置くと窓を閉め、カーテンを引く。カーテンの影がゆらゆらと揺れ、しかしすぐにそれはシミのように動かなくなった。室内はひっそりと静まりかえっている。

 シュルリ――音がして、ブラウスのリボンが外される。それでようやく自宅に帰ったことを実感した。

 ほう、と息をつく。同時にどっと疲れが押し寄せてきた。スカートを脱ぐとそのままベッドに潜り込み、布団の中にある抱き枕を引き寄せた。抱き枕に鼻を寄せると太陽の匂いがした。

 今日は天気が良かったから、お母さんが日中に干してくれたのだろう。抱き枕も布団も、太陽の光を受け、ほかほかと温かだった。気持ちがいい。まるで昼食を終えた休日の午後、日だまりの中でひなたぼっこをしているみたい。

 ぼんやりとそんな光景を夢想しながら、わたしは小さな欠伸をして、いつの間にか眠りに落ちていった。


 小学3年生になったとき、両親はひとつの部屋をわたしに与えた。

「これからは、ひとりで眠りなさい」

 わたしは夜になるたび、お母さんへ泣きついた。怖かった。夜という黒に塗りつぶされた時間が。黒はすべてを飲み込んでしまう。お気に入りの人形も、きれいな洋服も、そしてお母さんも……。すべてを、視界から奪い去ってしまう。起きたとき、それらすべてのものが跡形あとかたもなく消え去り、わたしだけがぽつんとひとり、取り残されてしまうんじゃないか……そう思うと、怖くて仕方なかった。

 わたしが泣きつくたび、お母さんは何も言わずただ微笑み、部屋まで連れてゆき布団に入ったわたしが眠りにつくまで、何度も何度も頭を撫でてくれた。


 そんな日々が続いたある日、お母さんがわたしに買ってきてくれたのがこの抱き枕だった。

 大好きな猫がプリントされた抱き枕。

 うれしくて、わたしはお母さんに飛びついて喜んだのを覚えている。抱き枕はやわらかくて暖かく、抱きついているとお母さんと寝ているみたいでほっとできた。

 

 それから数ヵ月後、わたしはひとりで朝を迎えることができるようになっていた。

 

 目を開くと室内は紺色に包まれていた。布団に入ったまま壁に視線をやると帰宅から1時間ほど経過していた。

 わたし、寝ちゃったんだ。なんだか、遠い夢を見ていた気がする……。

 眠ったことで疲れが取れたのか、少し気持ちが落ち着いていた。

 枕を抱いたまま、今日起こった出来事を振り返ってみる。クラスメイトのキラリと光るガラス細工のような瞳、途切れることのない質問の嵐、そして同色に塗りつぶされた無機質な笑顔。期待も、不安も、気付いたときにはもう、恐怖という黒に塗りつぶされていた。それはさまざまな絵の具が混ざり合った末に、漆黒へと帰結するように……。

 

 昼になり、耐え切れずわたしは教室を飛び出した。

 そこで校則破りの司書、古河さんに会った。

 古河さんは大人のくせに、ぜんぜん大人っぽくない。人の名前を聞くなりいきなり『日

和ちゃん』と呼んできたときには驚いた。

 だって、たった今出会ったばかりの初対面の生徒に対し『ちゃん付け』をしたのだから。

 でも、その言葉にはなぜだか旧来の親友に相対あいたいするような親しみすら感じられた。

 そう思ったわたしは、ちょっと気恥ずかしくて、でも、ちょっとうれしかった。

「また、会いたいな」

 自然、微笑んでいる自分に気付いて体が軽くなった気がした。だからかもしれない。今日の6限目のとき、隣の子に話しかけられることができたのは。

 えっと……朝倉さん、だっけ。

 授業が始まって5分くらいで眠ってしまったのには、ほんと驚いた。けっこう迷ったけど、起こすことにした。まじめに授業を受けるつもりだったのに眠ってしまったのかもしれないから。午後の授業はわたしたち生徒にとって、なかなかの苦行なんだ。

 朝倉さんはその後しばらくぼーっとしてたけど、ノートを取り出したから、やっぱりまじめに授業を受けるつもりだったんだろう。

 ホッとした。彼女の役に立てたと思うと、やっぱりちょっと、うれしい。

 明日、わたしにあいさつをしてくれたら、ちょっと自分に自信が持てるかもしれない。


 布団から起き出すと電気をつけ、カバンの中からコンビニで購入したウーロン茶を取り出してひと口飲んだ。ひんやりと心地よい感覚が喉元を流れ落ちてゆく。

 深く息を吐き出すと気持ちはだいぶ落ち着いていた。

 とたんにお腹が鳴る。

 わたしって、けっこう現金な奴なのかも……でも、この感覚は、嫌いじゃない。

 階下からお母さんの呼ぶ声が聞こえた。

「日和~、夕飯できたわよ~っ!」

 一瞬目を見開き、しかしすぐにくすりと笑い、お母さんに返事をするとブラウスに手を

かけた。

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