6時限目 智香

 最後の授業は私が最も苦手とする教科の数学だった。

 金星人の頭をお持ちの数学教諭、山根が頬袋を膨らませたハムスターみたいに口をもごもごさせながら私に子守唄を捧げる。  

 ものの5分とかからずに私の意識は暖かな泥の中に埋めてゆく。

 そうして授業終了のチャイムすら聞くことなく由花の優しい呼び声で目を覚ます、筈だった。


 肩を揺さぶる感覚に目を覚ました。

 う………ん。 あれ、授業終わったんだ。サンキュ、ゆっこ。

 顔を上げ、伸びをしながら由花の立っているであろう方向を見上げたが、そこに彼女の姿はなかった。

 あれ?

 由花はまだ自分の席についている。机に肘をついて、両手を頬に当て、斜め四十五度辺りを見据え、妄想まっしぐら。今日の由花のノートにはさぞかしメルヒェンなイラストがぽんぽん創造されていることだろう…って、え? ノート?

 がばりと顔を上げた。

 黒板の前には未だ金星人がミステリーサークルの前に立ちべらべらと謎の呪文を詠唱している。授業はまだ続いている。時計を見ると始業ベルから15分しか経っていない。

  いや、それより、誰が私を起こしたんだ?

 私の席は廊下側の一番後ろだ。 授業中に私を起こすことができる人物は限られている。  

 前の席にいる男女2名、それに左とその前の席にいる男2子名のうち誰かということがすぐに推測される。

 前の男女2名とはほとんど話をしたことがない。というか、今まで一度だって話をした

記憶はない。

 …?  こんな子いたっけ? とにかく、即却下。

 次いで左側にいる男子2名だが、隣の男子は先ほどのわたし同様、ドリームランドに現実逃避中、うらやましい限りだ。その前にいる男子については、一生わたしとは縁がないであろう生徒で、ガリ勉! 瓶底メガネ!  坊ちゃん刈り! という時代錯誤も甚だしい三種の神器を備えた男子、通称『 偽ノビタ』だった。

 名前は……偽ノビタは、偽ノビタだよ。そう自分にいい聞かせる。それじゃあ一体誰が?

 と、隣から視線を感じた気がする。

 この気配は、確か転校生の――転校生は、転校生だよ。再度自分に言い聞かせる。

 さっと隣に視線を走らせる。

 転校生は意外にも俊敏な動きを見せ、教科書を盾に横顔を隠す。が、おしい。

『頭隠して尻隠さず』とはきっとこういうことを言うのだろう。ショートカットの髪の間からのぞく耳は、微かに赤味が差していた。

 さて、これからが本番だ。

 彼女が私の視線に耐え、諦めた私が二度寝をするか、彼女が耐えきれずにこちらにやめてくれと訴えてくるか。

 時計をちらりと見る。始業ベルより20分が経過していた。今日の授業、少しは楽しめそうだ。


「で、私になんか用?」

 私は教科書とノートにより即席バリアーを築くと机に両手を交差させ、頭を落ち着け、転校生を見た。

 始業ベルより20分。

 私と転校生の根比べは1分を待たずして勝敗を決していた。

 わたしが見つめていると10秒足らずで転校生の肩が震え出し、それは頭、腕、指先へと伝播でんぱしていった。

 やがて観念した転校生は教科書から顔を上げ、おびえた子犬のような瞳をこちらに向けてきた。その間、CM二本弱。

 私にならい教科書を立てた転校生は左手をポケットに突っ込み、目を閉じ、ひとつ息を吐き出してからこちらを見つめ……ようとして、やはり俯き、前方に顔を向けながら再

度上気し始めた頬で口を開いた。

 まったく、忙しい子だ。

「あの…その…えっと……」

 ここまでで既に20秒。その間、私のため息が2回。

 眉を伏せた彼女がスカートの上で両手を強く握る。噛まれた下唇には、握られたスカート同様、暗色の影が落ちる。

 無表情にそれを見つめ、欠伸をかみ殺した。

 苛立ちは、無い。あるのはただ、ため息。

 ああ、やっぱり、疲れる。

 次に欠伸が出そうになったとき、耳元で蚊が鳴いた。ぱっと顔を上げ、周囲に神経を尖らせる。

 ……気のせいかな?

 ほう、と息を吐き、二度寝しようと目を閉じかけたとき、何かを聞いた。

「え?」

 私は転校生に視線をやる。

 スカートの上にあった掌はいつの間にか机の上にあり、祈りを捧げるみたいに両の指先同士を絡めている。前方を見上げるその頬と耳は、赤いりんごのよう。

 無風の中、眉を弱々しく震わせた転校生がぽつりぽつりと、言葉をつむぐ。

「その……授業、受けたほうがえっと、いいと思う……」

 そのまま彼女は俯き、再度左手をポケットに突っ込み、教科書とノートを倒すと顔が赤いのも構わず、黒板の板所された内容をノートに写し始めた。

 呆けた顔で彼女を見つめていると耳が再び上気し、肩が震える。

 ……変な奴。

 私は前に向き直り教科書とノートを倒し、ひとつ息を吐くとペンケースからシャーペンや消しゴムを取り出した。右手にシャーペンを持ち、回転させ、ノックを押した。



 カチッという、何かのスイッチみたいな音が耳元で響いた。

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