ことばの日

「ことばの日」


※この記事は5月18日に執筆しています。


今日5月18日は「ことばの日」です。5・18で「5108」と語呂合わせできるからだそう。本エッセイも18話目とキリ良いですね(?)。狙ってやった訳ではありません。


さて、ことばの日であるからには「言葉に関するあれこれをゆるいエッセイで本音トーク」の作品の趣旨に立ち返り、言葉にまつわる個人的な名物エピソード的なものにちょっと触れようかなと思います。


これは小学6年生の頃の話になります。友達と休み時間にやり取りする中でふと、チラシを取る/取らないの話題になりました。ええ、新聞などに挟まれるスーパーの特売やセールなどをお知らせするあの折り込み広告のことですね。


その折り込み広告について、友人との間で「これは“チラシ”だ」、「いやこれは“広告”だ」という水掛け論のような論争に発展しました。


本質的にはそのどちらも正しいことは常識的に考えてわかるでしょうが、小学生だった子どもにそんな常識が通じる訳もなく、我が張って両者主張1歩も譲らず状態になってしまいました。


ちなみに自分は「チラシ」派でした。主張内容としては「“広告”だとチラシでないものにも言えてしまい、チラシを取って欲しいときになんのことかわからない」というものです。相手の主張はなんだったのか正直覚えていないので端折りますが、「商品とかが載ってるもの」が「広告」だ、と定義を主張していたように思います。


この時の自分はどちらかと言うと機能的に言葉を捉えており、文脈から自ずと選択されうる最適な言葉について主張していたのだと思います。


すなわち「“チラシ”は“取る”と言うことができるけども、“広告”を“取る”とは言いづらい」ということです。もちろん、の感慨であり当時そこまで考えて主張していた訳ではありません。というか逆にそこまで考えてたら怖いですね。


そういう訳で、結局結論がどうなったのかすら覚えていないこの論争経験は、ここで改めて語るように自分の言葉論に強烈な印象を植え付けたエピソードになりました。たったひとつの言葉の用い方について他者と論争に発展するなんて、慎重に言葉を用いなければならない大人になってからではなかなか経験できないことでもありますからね。


しかし、書く者としてはなあなあで済ませたくない領分はいまだにあります。


もしくは言葉ひとつで論争に発展するようなことが、書く者同士としては大いにあるべき、とも。


日常会話をする分なら「どちらでもいいな」という気はしますが、書く分にはやはりまだ言葉の機能性を重視している節はありますし、無責任な言葉が氾濫する昨今においてはますます機能性を重視しなければならないのかもしれない、とも思います。

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