僕はうなぎ

「僕はうなぎ」


上の「」内の文章は「うなぎ文」といって、が省略された文法を指します。「僕はうなぎ」をより詳細に書くと「僕はうなぎを注文します」となります。


自分も、例えばラーメン屋さんでネギ味噌チャーシューネギトッピングを注文するときは、「注文します」という動作を省略し「自分はネギ味噌チャーシューネギトッピングで」などと言います。


ですから「僕はうなぎ」は、①その場の状況、②文脈の理解度、によってその意味の捉え方が全く異なってくる言葉と言えます。


「僕はうなぎ」に関連して、電化製品のスイッチを切ることをしばしば「消す」と言います。


ふつう「消す」というのは存在や勢いに対して使われる言葉です。「電気を消す」「火を消す」「気配を消す」。さすがに「人を消す」とか「コインを消す」「ハトを消す」などの具体的な対象物の話になるとなんだか超常的なマジックやイリュージョンになってしまいますね。


だけどみなさんこうも言ったりしませんか。「エアコンを消す」「ストーブを消す」「コンロを消す」など。これってそれぞれに付随するものを省略した表現なんですよね。エアコンなら「電気」、ストーブとコンロなら「火」と。つまりより具体的に言うと「エアコンの電気を消す」とか「ストーブの火を消す」とかがより丁寧な表現になってきます。


とはいえ例えば最近はストーブも電気式のものが多く、一概に「ストーブの火を消す」とは言えないものもあります。火を使うか電気を使うかを問わず「ストーブを消す」は汎用性が高いと言えます。それゆえに曖昧となる世界観も存在します。


日常会話ならいざ知らず、創作の世界でもしばしばこうした省略表現が用いられます。それは書き手がその世界あるいは人物を文章で表現したいからではなく、①その場の状況、②文脈の理解度、を元に無意識に手癖としてその世界に用いてしまっている部分が大きいと思います。


書き言葉による創作物が話し言葉中心にシフトしてから久しいですが、なんだかそれによって「書かれたもの」の世界から失われているものもありそうです。


もちろん日常的に触れている我々の言葉の8~9割は話し言葉であり、そうして書かれた作品の方が直感的に読みやすいのは当然であります(このエッセイも話し言葉ですね)。でもそれはあくまで、①その場の状況、②文脈の理解度、に大きく寄りかかった表現であることを忘れてはいけないと思うんです。つまり、①と②を共有しない者にとっては途端に支離滅裂で筋の通らないものになってしまう。


言葉による表現に何を求めるかは人によって千差万別ですが、少なくとも自分は、読むのが小難しくなろうと読みづらかろうと、なるべく丁寧に表現したいと思います。書いているあいだは、書くことがいちばん楽しいのですから。

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