剔抉


 善を急げと人は言うが、私から君に言えるのは、そんなことをさも人の本質であるかのように口にする輩を、信じてはいけないということだ。──いや、この街に限らず、古今東西、人というのは我が身大事、明日の金繰かなぐり、道に立つ娘の唇を眺めて、こずるい打算を積み重ねながら生活している。

 君、そんな生き物が愛だなんだと言ったって、さかしい御為倒おためごかしでしかない。今、そこのかわいらしい女給じょきゅうが我々にカッフェを運んできたのだって、君に惚れているからではないんだぜ。

 ──私が学生で、シチリアの両親と弟の四人で共に暮らしいていたとき、人を殺すということを初めてやった。思い出せば頭が重くなるほど、いやな殺しだ。

 友人と遊んでから帰るときの、青黒い空に地平の先で閉じ込められるような夜、家のオリーブ畑の前で喋る男たちを二、三見た。男の一人が畑に入っていくように見えて、──怖いもの見たさか、大事な作物を守ろうと思ってそうしたかは定かではないけれども──柵をまたいでそのまま畑を、おぼろげな男の影を目で追いながら、十数分ばかり彷徨っていた。

 胸のうちに秘めていた恐さというものがじわじわ広がって、肌の内膜に触れたような感覚を持った頃、暗闇の中から押し殺した人の声を聞いた。「兄さん」と言っていた。私はすぐに弟だとわかって、近くのオリーブのもとにうずくまる彼を見つけた。

 私が口を開く前に弟は「兄さん、静かに」と念を押したから、私も彼のように声を殺して「どうしたんだ」と訊いた。「助けてくれ、追われているんだ」と、弟は栓を抜いたように喋りはじめた。「どうしてお前が追われるんだ」と尋ねれば、「街で会ったかわいい娘に声をかけたんだ。稀に見る美人だったからちょっとしつこく誘ったら、連れの男がいてそいつがギャングだった──それまではいい、ぶっ飛ばされるぐらいで済んだだろうから」

 それで弟は、静かなまま語気を強めてこう言った。「俺は震え上がって必死に抵抗した挙げ句に、そのギャングを殴り殺したんだよ、兄さん」と。

 私は落胆の叫びをあげたいような衝動にかられながら、必死にそれを抑えた。ああ、この話を聞いたとき全て諦めるべきだったのに、あろうことか私はこの愚かな弟を助けねばと思索を巡らせたのだ。

 しかし、何か考えをまとめるような間もなく、男の影が輪郭をあらわにし始めた。弟は私の横で肩をぴったり木の幹につけて、石のようにじっとしており、それが私に一層彼を哀れがらせた。

 オリーブの細い幹が私達二人を隠すはずもなく、男の呼ぶ声を聞いて、弟は震え上がった。

 そして私は、突然妙案を思いついたような気づもりになって、それを頭で吟味することもなく、「大丈夫、俺に考えがある」と弟に吹き込んだ。その台詞を口にしてしまってから、私は底から湧き上がってくる焦燥しょうそうの念にかられた。何も、思いついてなどいなかったのだ。

 いや、俺は決して悪意ある嘘のつもりで言ったわけではない、ただ、この救いない弟の明日にわずかでも光を投げかけようと、その一心で口にしただけだと、御託ごたくを並べていたけれども、今思えば、私はあのとき既に気持ちを決めてしまっていたのかもしれない。

 弟は、教会で聖母の像を見上げる修道女がごとく敬虔けいけんで、純粋で、ささやかな安寧あんねいを伴った顔を私に向けた。あの、救済を信じる殉教者のような、無垢の表情! あの弟の顔が、私の心にかすかな正気を取り戻させたのだ。男が声を張って仲間を呼び出している間に、私は弟のことを必死に考えようとした。

 やがてもう二人ばかり男がそこにやってきて、彼らは弟の肩を抑え込み、お前には黙っていれば何もしないと言って私を傍らに事を進めた。

 一口二口言葉を交わしながら、弟を抑えている二人とは別の一人が彼の前まで歩いていき、懐からピストルを取り出したのを見て、私の気はいよいよはやりだした。



 弟にもその得物が見えたのか、半べそをかく声が暗闇の中で余計に色づいて聞こえた。壊れた管楽器のようにおののき喘ぐ弟の声が耳に入るたびに、私の思考は絡まって、まとまりがつかなくなっていき、やがて彼が「兄さん」と大声で呼ぶのが聞こえて、風が束縛するように自分の体が動かなくなった気がした。

 男たちは、またいくらか言葉を交わし始めた。

 人は、恐怖の縁に立つと、目の前の出来事を希望的に見始めるものであるようで──私はそのとき、勝手に胸をなでおろしていた。きっと、あまりに弟が怖気づいているから、こんなやつを殺さなくたって我々に危害を及ぼすことはなかろう、きっとギャングたちはそう言っているのだ。もう私が思考を巡らすまでもなく弟は助かるのだと男たちの会話を断じ、肩の力を抜いて星空を見上げた。

 ああ、今は一体どんな星座が見える季節だろうか、この実家の近くは本当に夜空がきれいに見えると考えていると、いつの間にか目の前にいた男が私の手にピストルをもたせた。男は私に「お前が撃て、撃てばいい」と言って、もう一丁の銃口を私に向けながら後退りした。

 わかった、撃てばいいんだなと応えて、少し前に訪ねた射撃訓練場を想起して、見ていろ、俺はお前たちの思っているよりずっと撃ち方がうまいんだぜなどと呟きながら銃身を弟に向けた。

 撃てばいいのだ。撃てば弟も私もこの場から解放されて、明日からはまたいつもどおり暮らせるのだ。その時の私はなぜか、そう実感していた。

 久々に指をかける引き金は冷たく、重かったが、それが私の心に与えるものは何もなかった。

 私は指に力を込めて弾を発射した。暗い中でも弟の頭から血が噴き出すのが見えたから、狙いは外れていなかったのだろう。

 男の一人に銃を返すと、彼らはオリーブ畑を覆う闇の中に消えた。静寂せいじゃくのうちから硝煙しょうえんの匂いが消え去った頃、体中がスポンジになったように思えるほど力が抜け、私はオリーブの幹に寄りかかった。

 そして私は初めて、自分のやった恐ろしいまでの殺人に気がついたのだ──あの純真な弟は、私の手にかけられて地に伏したのだと。 


 後になって思えば、私は、よりにもよって弟が早くギャングに始末されてしまうのを期待していた。弟にありもしない提案を吹き込んだのも、ピストルを渡されて迷わず撃ったことも、私が一刻も早く一日ごとの平穏を取り戻さなければならないと気を急いたからなのだ。そして弟を助けんとする私の思慮は、決して家族を助ける兄として務めを果たそうとしたのではなく、私自身が善を成す人間であるという自負を失いたくないがための、醜い利己の精神によるものに違いない。

 ならば、人の面皮めんぴがいかに厚く、白々しいものであることか! 人が隣人への愛を囁きながら、いつも己のことを一番にさくしているというのなら、他者を信じるということのいかに愚鈍ぐどんであることか!

 ああ、君、人を信じてはいけない。友達と二人、ピストルを一丁ずつ買ったら、先にそいつを撃たなくっちゃ死ぬのは自分なんだぜ。

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