初期作品集

辻井紀代彦

遅い春を、駆ける



 ホテル看板に描かれたアラベスクを見上げながらなぞっていると、むずついた鼻から一際ひときわ大きなくしゃみが出た。ネオンの反射に慣れきった目を夜空に滑らせても、一等星いっとうせいが瞬くのははっきりと見える。

 フロントガラスより澄んだ空気が、肌を余計に冷たく撫でてきた。

 こんなとき、夫ならタオルケットや自分の上着を渡してから出ていくのに、修治君は「忘れ物」とだけ言い捨ててホテルの入り口に消えた。

 でも、彼のそういう薄情さで、肌の上に残る痩せぎすな腕の感触を思い起こしてしまう自分がいる。

 をてらっている様子でもないのに、いつも他人とは違う──というよりむしろ、彼は正反対のところに身をえている、そんな彼らしさに、初恋をしたのが私だった。

 車のドア特有の音が神経に触れて、運転席の方に目が向いた。ヨレヨレのTシャツに、ステテコをはいた体が椅子の上に滑り込む。

「あ、寒かったね」小銭入れをドリンクホルダーの中にねじ込みながら、彼は言った。

 私は、微笑むのを意識しながら首を横に振った。いつもなら環境音に押しつぶされるトーンで喉元を通る「ううん」という言葉が、静謐せいひつな空気の中でははっきりと聞こえる。

 そんな私を一瞥いちべつして、彼はリクライニングシートを倒した。

「修治君、眠いの?」

「うん」

「風邪引くよ、こんな寒い中寝たら」

 修治君は、おもむろにこちらに体を向けて、笑った。

「体力ないからさ、ああいうことするとクタクタになる」

 相槌あいづちを打ちながら、失笑と呼ぶにしてはほのかに頬の熱くなるような笑いが、こぼれ落ちた。

 修治君とは、受験生だった頃の予備校で出会った。少人数制の授業を行う教室の中で、チラチラと修治君を眺める私の目と、彼の視線は度々ぶつかった。

 あのときも、顔が少し赤くなっていたんだろうか。

 不意に、彼の瞳が私をまっすぐ見つめるのを感じた。私の視野はぐいぐいと絞られて、そのうつろな眼差しから目を離せなくなった。どす黒い虹彩こうさいの中から、鮮やかに赤い血の記憶が、脳裏をよぎっていく。


 ラバーでコーティングされた教壇きょうだんの上を、鮮やかな血溜まりがゆっくりとむさぼる――その光景は、帰り支度をする私達の目線を一瞬で教卓へと叩きつけた。

 あらゆる言葉が、呼吸と一緒に喉に詰まった。チェック柄をしたスカートの裾を握りながら、床に膝をつく講師を食い入るように見ていた。

 その傍らで、Yシャツを燃え上がるような紅に染めていながら、何も変わらぬ無機質さで佇立ちょりつする彼が、底なしのような黒い瞳を私に向けている。

 その光景を目にしてから、私の胸の中に真っ黒な火がチロチロと揺れながら巣食ったような気がして、翌日の朝、ニュースで報道された事件を目にしさめざめと泣いた。

 両親が何か慌ててかけてきた言葉にひたすら「わからない」と答えながら、きっとその時、私は人生で一番のヒステリーを起こしていた。


 そして今、彼のあの目が私の瞳の中を見据えている。

「やっぱり、千代ちゃんはかわいいな」修治君が、人体模型のように動かないまま言った。

 私はしばらく、固まったまま何も答えられなかった。遠くで通り過ぎるタイヤと、茂みから聞こえる虫の音が、私を真っ黒な束縛から緩やかに解放してくれた。

「修治君はいつも、何を考えてるの」

「何を? 何をって……」

 悩ましげに仰向けになった彼は、フロントガラスに映る星空ではなく、数センチメートル先の虚空こくうを見ているようだった。その中で一瞬、黒い瞳が揺れた気がした。

「何だろうね」

 私達は、また互いに黙りこんだ。その間に、修治君は私に背中を向けるように寝返りを打つ。胸の中の火がきゅっと小さくなったような感覚があって、思わず口を開いた。

「私は、ずっと修治君に会いたいって思ってた気がする。あのあと、あなた以外の人に何回か恋したけど、気づけばそれもみんな、あなたの模造品みたいな人ばかりだった」

 修治君の方を見やる。彼は、相変わらず私に背中を向けて、ぴくりとも動かなかった。かすかな声で、彼が「あ、そう」と返事するまでは、寝ているような印象さえ受けた。

「市役所で会ったとき、嬉しかったよ。まさか同じ職場にいたなんて。もう二度と会えないと思ってたもの」

 沈黙の残酷な鋭さが、私の心に居着いた火種ひだね丹念たんねんいて炎をしずめていく。修治君を忘れきれないまま、初めて男に抱かれたときの心持ちに似ていた。

 おもむろに体重をリクライニングシートに預けて、再びアラベスクの輪郭りんかくをなぞる。四年前に、役所でキーボードを叩く彼が目に入った瞬間の、焼けつくような胸の高鳴りがほしい――。

「千代ちゃん」車中しゃちゅうの気圧に押し出されたような声が、唐突に耳へと飛び込んだ。「みんな、永宮ながみや先生のこと大好きだったよね」

 足元の床が開いて、無窮むきゅうの底に放り込まれたような、掴みどころのない言葉だった。私は講師が教壇で膝を屈する光景を想起しながら、うまく喉笛のどぶえをすり抜けない声で「うん」と応えた。

 「愛されるって、嬉しい?」「幸せになりたい?」「生きてたいと思う?」と立て続けに投げかける彼の問いに、私は曖昧あいまいな答えしか返せない。

 やがて修治君は体を起こして、またうつろな眼差しを無へと注ぐ。私の目尻も、自然と彼の横顔に引っ張られた。

「俺は死にたい」暗黒に満ち満ちた瞳が、私の体を、今までで一番きつく抱擁ほうようした。「千代ちゃんも、そう思わない?」

 修治君の目に、いつもと違う熱があった。あの彼の真っ暗な網膜もうまく網膜の中に、轟々ごうごうと音をあげて盛んに立ち上ろうとする炎が、シルエットも朧気おぼろげに浮かび上がった。

 血のしたたる教壇の上から、18歳の修治君が歩いてきて、今そこにいるような実感が、噴石ふんせきのように飛び出してくる。

「修治君」心筋しんきんが私の乳房を叩く勢いで脈打っている。彼と初めてキスをしたときよりずっと、体中が熱かった。「なんで、あのとき私を見ていたの」

 修治君の黒目に、ネオンの光が映った。

「千代ちゃんが、一緒に来てくれる気がしたから」

 彼の目線は、もう束縛ではなかった。私達はただ、ホテルのネオンだけが照らす駐車場で、自分の胸にたぎる火勢かせいに身をゆだね、さらけ出された互いの中身を凝視ぎょうししているだけだった。

「走らせてよ、この車」私は言った。体中で、血液が爆発しているような感じがした。

 修治君は、口を一文字に引き結んだまま、車のエンジンをかける。家のハイブリッド車とは違う、勇ましいガソリンの音が私達を揺らした。

 タイヤが小石を踏む音とともに、二人を捉えていたネオンの色彩が、太ももを撫でながら後部座席へ消えていく。

「ねえ、登って牧場の方に行く?」

「いや、街に」修治君は、フロントガラスの向こう側をまじろぎもせずに見て、目を離さない。「取りに行かなくちゃいけないものがあるから」

 拳のように力強く握られたハンドルに見惚みとれながら、あの街には夫や子供がいる、という口上は飲み込んでしまった。誰も気づきやしないんだ。私と彼の間にみなぎり弾ける、真っ黒な火の粉のことなど。

 だって、今までだってずっと。この十数年間の間、ずっとだ。それは誰にも知られることはなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る