初期作品集
辻井紀代彦
遅い春を、駆ける
ホテル看板に描かれたアラベスクを見上げながらなぞっていると、むずついた鼻から
フロントガラスより澄んだ空気が、肌を余計に冷たく撫でてきた。
こんなとき、夫ならタオルケットや自分の上着を渡してから出ていくのに、修治君は「忘れ物」とだけ言い捨ててホテルの入り口に消えた。
でも、彼のそういう薄情さで、肌の上に残る痩せぎすな腕の感触を思い起こしてしまう自分がいる。
車のドア特有の音が神経に触れて、運転席の方に目が向いた。ヨレヨレのTシャツに、ステテコをはいた体が椅子の上に滑り込む。
「あ、寒かったね」小銭入れをドリンクホルダーの中にねじ込みながら、彼は言った。
私は、微笑むのを意識しながら首を横に振った。いつもなら環境音に押しつぶされるトーンで喉元を通る「ううん」という言葉が、
そんな私を
「修治君、眠いの?」
「うん」
「風邪引くよ、こんな寒い中寝たら」
修治君は、おもむろにこちらに体を向けて、笑った。
「体力ないからさ、ああいうことするとクタクタになる」
修治君とは、受験生だった頃の予備校で出会った。少人数制の授業を行う教室の中で、チラチラと修治君を眺める私の目と、彼の視線は度々ぶつかった。
あのときも、顔が少し赤くなっていたんだろうか。
不意に、彼の瞳が私をまっすぐ見つめるのを感じた。私の視野はぐいぐいと絞られて、その
ラバーでコーティングされた
あらゆる言葉が、呼吸と一緒に喉に詰まった。チェック柄をしたスカートの裾を握りながら、床に膝をつく講師を食い入るように見ていた。
その傍らで、Yシャツを燃え上がるような紅に染めていながら、何も変わらぬ無機質さで
その光景を目にしてから、私の胸の中に真っ黒な火がチロチロと揺れながら巣食ったような気がして、翌日の朝、ニュースで報道された事件を目にしさめざめと泣いた。
両親が何か慌ててかけてきた言葉にひたすら「わからない」と答えながら、きっとその時、私は人生で一番のヒステリーを起こしていた。
そして今、彼のあの目が私の瞳の中を見据えている。
「やっぱり、千代ちゃんはかわいいな」修治君が、人体模型のように動かないまま言った。
私はしばらく、固まったまま何も答えられなかった。遠くで通り過ぎるタイヤと、茂みから聞こえる虫の音が、私を真っ黒な束縛から緩やかに解放してくれた。
「修治君はいつも、何を考えてるの」
「何を? 何をって……」
悩ましげに仰向けになった彼は、フロントガラスに映る星空ではなく、数センチメートル先の
「何だろうね」
私達は、また互いに黙りこんだ。その間に、修治君は私に背中を向けるように寝返りを打つ。胸の中の火がきゅっと小さくなったような感覚があって、思わず口を開いた。
「私は、ずっと修治君に会いたいって思ってた気がする。あのあと、あなた以外の人に何回か恋したけど、気づけばそれもみんな、あなたの模造品みたいな人ばかりだった」
修治君の方を見やる。彼は、相変わらず私に背中を向けて、ぴくりとも動かなかった。かすかな声で、彼が「あ、そう」と返事するまでは、寝ているような印象さえ受けた。
「市役所で会ったとき、嬉しかったよ。まさか同じ職場にいたなんて。もう二度と会えないと思ってたもの」
沈黙の残酷な鋭さが、私の心に居着いた
おもむろに体重をリクライニングシートに預けて、再びアラベスクの
「千代ちゃん」
足元の床が開いて、
「愛されるって、嬉しい?」「幸せになりたい?」「生きてたいと思う?」と立て続けに投げかける彼の問いに、私は
やがて修治君は体を起こして、また
「俺は死にたい」暗黒に満ち満ちた瞳が、私の体を、今までで一番きつく
修治君の目に、いつもと違う熱があった。あの彼の真っ暗な
血の
「修治君」
修治君の黒目に、ネオンの光が映った。
「千代ちゃんが、一緒に来てくれる気がしたから」
彼の目線は、もう束縛ではなかった。私達はただ、ホテルのネオンだけが照らす駐車場で、自分の胸にたぎる
「走らせてよ、この車」私は言った。体中で、血液が爆発しているような感じがした。
修治君は、口を一文字に引き結んだまま、車のエンジンをかける。家のハイブリッド車とは違う、勇ましいガソリンの音が私達を揺らした。
タイヤが小石を踏む音とともに、二人を捉えていたネオンの色彩が、太ももを撫でながら後部座席へ消えていく。
「ねえ、登って牧場の方に行く?」
「いや、街に」修治君は、フロントガラスの向こう側をまじろぎもせずに見て、目を離さない。「取りに行かなくちゃいけないものがあるから」
拳のように力強く握られたハンドルに
だって、今までだってずっと。この十数年間の間、ずっとだ。それは誰にも知られることはなかった。
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