第4話 彼女の晴れぬキモチ
マックスは侍女に温かなお湯の入った桶と、化粧落とし用の液体の入った瓶を持ってこさせた。それが届くまでに、ドレスを脱いで、いつもの動きやすい稽古着に着替えた。
靴も、ハイヒールなんてもっての他。靴底のしっかりした物に履き替えて、兄の待つ外に出てきた。この土地は春先でもなかなか暖かくならず、辺りの木々が硬いつぼみを、冷たい風に揺らしている。
「お、来た来た。今日はランニング三キロコースでいいか? 日の入まで、時間がないからな」
屈伸運動で体を温めながら、兄が聞いてきた。妹がサロンよりも運動している方が好きなのを知っていて、さぞ体が疼いているだろうと気遣ってのことだった。
マックスも、庭師の作業着のように動きやすい稽古着は好きだった。兄とともに準備運動を済ませる。他の兄らもやってきて、父もやってきて、みんなで走りだした。
「どうした、ペースが上がらないな。いつも誰かに抜かれそうになると、ムキになって追い抜き返そうとするじゃないか」
「はい……」
マックスは走りに集中できず、どんどん追い抜かされて、最後尾に。少しペースを落とした父と並走したので、マックスはようやく、打ち明けた。王女が父王から理不尽な命令を受けて困惑していたこと、そして、なにやら魔術師の詰め所で問題が生じていたことを。
「ほう。その魔術師たちの名前は、わかるかい?」
「いえ……どこの誰かも、聞きそびれてしまいました。我が領の人間でもなさそうです。あんな雰囲気の男たちは、初めて見ましたので」
「ふうん……国王が魔術師を集め始めたのは、ただの興味本位からだと聞いたことがあるよ。本当は戦争で有利になるように、兵士として使えるかどうか、確かめているだけだとは思うけど、今のところ、薬草を煮詰めたり、小さな火や風を起こしたりと、些細な自然を操る程度らしくて、がっかりしてるみたいだ」
「その話は、どなたから?」
「国王からだ。王は私の十歳離れた兄上だからね、サロンがある日は、たまに別室で長く話しこむんだ。おもに政治関連の愚痴だけどね」
「あ、そうでした。王女と私は従姉妹ですから、父上と陛下もご兄弟なんでしたね」
どうにも忘れてしまうのは、父と国王がそれぞれ母親似の異母兄弟なため、まっっったく容姿が似ていないせいだった。
「父上、私から王女様へお手紙をお送りしたいのです。もしも悲しんでおられたら、お慰めして差し上げたいのです」
「こらこら、貴族の女は手紙を交換してはならない決まりだぞ。過去に反逆を企てた女たちは、普段から手紙をやり取りするほど仲良しだったそうだからね」
「私は、反逆など!」
「これは決まりなんだよ、マックス。王女様は元気いっぱいでお強い人だ、きっともう立ち直って、いつも通りに暮らしていらっしゃるよ」
父王と執事としか話せなくなった王女が、いつも通りに過ごせているわけがないと、マックスは抗議したかった。だが、父にあっさりと追い抜かされて、そのまま距離を引き離されてしまった。
どんどん遠ざかる、父と兄たちの背中。
自分だけが置いていかれてゆく気がした。心も、体も。
(手紙を出すだけで、反逆を疑われるだなんて。どうりで私だけ、レターセットを貰えなかったわけだ……)
先に一周走り終えた兄が、二周目に入ってマックスの後ろを追ってきた。
「よお! 今日はずいぶんと足が遅いんだな」
従者も共に走っているとはいえ、今マックスのすぐ隣に並んでいるのは、この兄一人だけ。マックスは、思い切って書類のことを相談してみようと――
「サロンじゃ、いろいろな男がいっぱい来ただろう。誰か、気になるやつはいたか?」
「え?」
「ハハ、なんてな。お前が色恋に興味が出たなんて、そんな噂、屋敷のどこからも聞こえない。お前は理想が高いんだな。父上が全部決めてやらないと、行き遅れてしまう」
「……」
「わあ、おい! 急にペースを上げるなよ! アハハハハ!」
マックスの抱くモヤモヤは、むしゃくしゃへと変化し、夕食後は手の空いている兄たちに頼んで、稽古場で模擬刀での打ち合いを申し込んだ。兄たちが屋敷に一同に集っているのは、もうすぐ父の誕生日だから。すでに妻子のいる上の兄三人も、ここへ集まっていた。
「また弟たちと打ち合いができるなんて。マックスも良い提案をする」
壁際で、大きな椅子に背を預けながら、兄二人が談笑している。妹と弟が、激しく木刀を打ち合う姿を眺めながら。
そこへ、自分たちと同じく稽古着を身にまとった父が入ってきたものだから、兄弟たちは皆立ち上がった。
「父上、長旅でお疲れでしょうに」
「なーに、まだまだ現役さ! 私だけ仲間外れだなんて、寂しいじゃないか」
事務仕事と談合ばかりで、父も退屈していたのだろうと、兄弟たちは顔を見合わせた。
父の飛び入り参加で一時休戦した稽古試合は、すぐに再開された。
今日は剣の振りに、ことさらに力が入るマックスだった。理由は、王女への心配事と、あの男の書類のことだった。
(まだあの男が盗んだと、決まったわけではないし……)
この打ち合いも今日で最後になるかも、結婚したら辞めるようにと、ついさっき兄たちから言われてしまい、それも利き腕に力がこもる原因となった。
いつもより動きが硬い妹を傍らで眺めながら、壁際の家族が談笑している。
「マックスもずいぶんと大人しくなってくれたものだ。昔はダメだと言われたら、ナゼですかと食ってかかってきたものだが」
「父上が剣をお許しになったときは、こんな調子でちゃんとした女に育つのかと、ひどく心配したものですよ」
マックスは、兄たちの声が聞こえなくなるくらい、大きく模擬刀を打ち付けた。
王女に手紙を出せないまま、二日目の夜が明けた。
貴族の女性が手紙を出すには、父親か長男が持っているシーリングセットを借りる必要がある……お茶の時間に老執事がこぼしたのを聞き逃さなかったマックスは、さっそく父の執務室の扉を叩いた。
「んー? シーリングセット? 我が家の家紋付きの封蝋を、どうするんだい?」
王宮での魔術師の詰所で不正が行われたかもしれないという目撃情報を、手紙に記したい。王女のことも書き足すつもりだ。王女はその立場上、大勢の人間に囲まれて暮らすのに、女性としかしゃべることを許されないなんて、社交界で亀裂が生じてしまう懸念がある。今現在は王から許されているのか、それともまだ罰が続いているのか、もしも続いているようなら、どうか許して差し上げてほしい旨を、国王陛下宛ての手紙に書きたいと、父に話した。
執務室で書き物をしていた父が、体をバキバキ鳴らしながら背伸びした。
「マックス、私と王様は確かに兄弟だが、相手には相手の家庭があるんだよ。王位を引き継いだ者だけが、守らねばならない決まりもあるんだ。私たちが横槍を入れるものじゃないさ」
「でも」
「心配しなくても、悪いようにはならないよ。どこの親も、娘を愛さずにはいられない。そして、どこへ嫁に出しても恥ずかしくない娘として、教育したいと思うのは、貴族としては当然のことさ。何も心配しなくていい、きっと良い縁談がお前たちにやってくるさ」
「縁談ではなくて、王女様の、現在を心配しているのです」
「さっきも言っただろう、よそはよそ、うちはうちだ。我が家のように、自由奔放に暮らしている貴族は、
「……」
マックスは、なおも抗議しようとしたが、父に優しく諭されながら押し返されるのが目に見えて、毎度毎度、いつもそうやって引き下がってきたことを悔しく思いながら、一礼して部屋を後にした。
(ああ、まただ……私一人では、何一つ事が進められない。全部私一人で何もかもを実行するには、どうしても限界が出る。そもそも、私が手紙だの意見だの、いくら訴えたところで、あの頭の固い国王陛下が考えを改めてくれるとは、考えにくいよな……。ああ、せめて姫様が少しでも気楽に、暮らせていますように)
マックスには、空を見上げながら祈ることしか、できなくなってしまった。何か解決方法があるのならば、今すぐに取り掛かりたい、そんな強い思いを胸に、唇を噛み締めながら、王女の心身の安泰を祈った。
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