第29話

 夜に訪れたマンションは昼に見上げたそれとはまた違った顔を見せていた。

 一帯が闇に包まれていることはもちろんのこと、廊下やエントランスを照らす電球の光がやけに心細く見えるほどには不気味な雰囲気が漂っていたのだ。


「どういうことだい?気分が悪くなってきた、以前夜に訪れた時はそうではなかったのに……おじさんがびびりすぎなのかな?」

「朝倉さんのその感性は正常です。霊力による感覚が成長しているのでしょう。むしろ他の住民がこれで平気なのが信じられませんね」

「神耶さん、恐らくテリトリーを広げたタイミングが最近なのかもしれません。このままでは住民の体調異常が出てくる可能性が」

「ええ、決行日を今日にして正解でした。朝倉さん、いつものヤツです。肌身離さず持っていてくださいね」

「ありがとう、いつも助かるよ」


 尚斗が朝倉に渡した御守りを見て美詞がハッと気づき目を見張った。

 以前学園で袴塚から預かった御守りにとても似たものであったからだ。

 やはりこれも尚斗が作ったのだろうか、そうなると効果はやはり……。


「簡易結界ですか?」

「そうです。単純な結界だけを付与したものなので、以前美詞君が持っていたものより大分グレードダウンしたものですけどね」

「袴塚先生から聞いてましたがやっぱり神耶さんが準備してくださった物だったんですね。ありがとうございました、あの御守りには助けられました」

「時間がなかったので急拵えでしたが、助けになったのなら準備した甲斐があったというものですよ」


 笑顔でどういたしましてと答える尚斗に美詞の心が温かくなった。

 あの時は尚斗が作成した既製品の御守りを渡されたと思っていた。

 不思議にも思ってなかったが尚斗の「急拵え」という言葉はそうではなかったと思い至る……美詞の霊力に合わせて事前にカスタマイズされた霊具等自分のことをよく知る尚斗ぐらいしか準備できるようなものではない。

 昔から尚斗には守ってもらってばかりなことに改めて気づかされる。

 

「さて、乗り込みましょうか。除霊のお時間です」


 その言葉にほわほわしていた意識を強引に切り替えた美詞は二人を追い、意を決したようにマンションの中へと入っていった。

 昨日は朝倉が部屋の鍵を開けたが今回は朝倉から鍵を預かり尚斗が鍵穴を回す。

 ガチャリという開錠の音は昼間に比べやけに静まり返った夜に響いた。

 他の住民もいるはずなのにマンション全体がやけに静まり返っているように思える。 

 前回は入口のドアを開けっぱなしにしていたが今回はその逆で閉じてしまったことに朝倉が疑問を声を漏らす。


「いいのかい?」

「ええ、むしろ今回は対象を逃がさないために結界を張ります。昨日はこういう事例もあると教えるために開けっ放しにしましたが……ぶっちゃけますと私も美詞君も力技でどうとでもできてしまうんですよね」

「……ハハハ」


 朝倉の乾いた笑い声を他所に、尚斗は扉の裏側にお札を貼ると刀印を切った。

 たったそれだけのアクションで結界が発動しお札がほんのり輝く。


「さ、いきましょう」


 フローリングを歩く際に鳴るギシッという音もこの暗い中だと恐怖心を煽るスパイスにしかならない。

 静寂を保っている部屋の状態は昨日置いた機材もそのままで特に変わりが見られなかった。

 水が出ていたシンクもすでに乾いているみたいでその痕跡はない。

 電気はつけていないので東から顔を覗かせてる月明りだけがなんとか部屋を照らしてくれていた。


「やはり暗くないとだめなのかい?おじさんこの場の雰囲気ですでにいっぱいいっぱいなんだが」

「ええ、夜を選んだ訳も電気をつけない訳もちゃんとあるのですが、確かに暗すぎても困りますもんね、ということでこれを持ってきてます。最小限ですが明かりをつけましょう」


 尚斗が手に持っていたのはキャンプ用のLEDランタン、それを点灯しリビングの真ん中に光量を調整しておいた。


「神耶さん、本格的な『陰』の時間まではまだまだですが出てくるでしょうか?」

「ええ、来ますとも……ほら」


 カリ……カリ……カリ


 かすかに聞こえてくるその音には覚えがある、今日ここに来る前パソコンで聞いた壁を引っ掻く音だ。

 ただ耳に入ってくる音はまだ頼りなく少しくぐもっているようにも思える。


「ひっ……どこからだいっ」


 ビクッと肩を跳ねさせた朝倉が音の発生源を尋ねた。


「まぁ……隣の部屋でしょうね」


 変わりが見られない?いや昨日来た時と比べて変化がある。

 昨日帰る前には開けっ放しにしていたリビングと隣の部屋を隔てる扉、それが……閉じられていた。


 カリ……カリ……カリカリ


 音は映像と同じで恐らく扉の向こうから聞こえてきているのだろう。

 一度意識するとその音が耳から離れない。

 閉じられたドアから一番近いのは美詞だ。

 その美詞が尚斗のほうを向き目で合図を出してくる。


「おや、美詞君がいくのかい?」

「はい、私のための授業……ですもんね」


 そういうとドアに近づき躊躇いなくドアレバーを握りしめた。

 その様子に朝倉は美詞に尊敬の念を送る、なんて剛毅な……学生とは言えさすが退魔師すごい!と。

 しかし思い出してほしい。

 宝条学園の生徒がみな美詞みたいに肝が据わっているわけではない、大多数の生徒はポルターガイストひとつで黄色い悲鳴を上げパニックになっていたのだ。

 朝倉は宝条学園の生徒に対する認識の齟齬が致命的になる前に一度現実を見ないといけないのかもしれない。


「あけますね」


 確認の声をあげグッとレバーに力を入れ扉を勢いよく押す。

 ぶわっと扉が空気を押しのける音と共に開け放たれた。

 まだ部屋の中を確認もしていないのにたちまち変化が訪れる。


「な、なんだ……これは。悪寒が……いや、これ物理的に寒くなっているのか!?」


 朝倉が驚いたように部屋の中から冷気がいっきに流れ出してきたのだ。

 明確な温度差では済まされないレベルの、まるで冷凍庫の扉を開けたような冷気が三人を襲った。


「気温の低下は代表的な霊障です。ここまでくると既に顕在化が始まっていますね。朝倉さんはドアの前で見ててください、美詞君行こうか」


 扉が開けられたことにより先ほどまで聞こえていた音もまた大きくなって耳に届いていた。


 カリカリ……ガリカリガリガリ


 二人して部屋の中に入るとすぐに尚斗がぽつりと声を漏らした。


「……そうか、これは助けを求めるものだったか……」

「悲しそうな思念が流れてきています、人を呪う怨念よりもそちらのほうが大きいようですが」

「こうやって現場で聞くとはっきりわかる……壁の向こう側ですね」


 ひんやりとした部屋の中から響いてくる断続的な引っ掻き音がゆっくりゆっくりと静まっていくと


「きますよ」


 月の光があたっていない暗がりから闇を更に暗く塗りつぶしたようなシルエットが浮かび上がってくる。

 壁から滲みだしてきたそれは恐らく顔なのだろうが、なにぶん長い髪に埋もれてしまっているため髪を垂らした塊が宙に浮いているようにしか見えない。

 尚斗の背後でひゅっという咄嗟に出てきそうな声を我慢した朝倉の息が聞こえた、きっと両手で口を押えていることだろう。

 ぼんやりとしたシルエットはいつの間にか形を作り一人の女性が座り込んだ姿勢を浮かび上がらせるも暗がりのためよく見えない。

 ただそこに「ナニカがいる」ということだけははっきりわかる。


「もしかすればと思いましたが……残念ながらやはり怨霊に転化していますね。ん?……美詞君どうしました?」


 隣に控える美詞の様子が少しおかしいことに気づき声をかける。


「神耶さん……思念波です。あれが出てきてからずっと私になにかを訴えてきています。大量の思念が混同してますが『苦しい』『憎い』という感情を読み取れます。そして……『出して』とも」

「美詞君、思念波には耐えられそうですか?死者との思念接触は精神を削りますよ?」

「大丈夫です、霊力を練ってフィルターにしてますので」

「しっかり身を守る方法は学んできたようですね。ではどういたしましょうか?除霊方法は美詞君に任せますよ?」


 美詞には気にかかることがあった。

 なぜこの怨霊は自分にだけ思念を飛ばしてくるのか、攻撃もしてこずただ伝えてくるだけ。

 苦しい憎いはわかるが出してとはなんなのか。

 それらに蓋をしたまま除霊を行使してしまうということに戸惑いが生まれてしまう。


「神耶さん、怨念だけを浄化してみてもいいでしょうか?」

「思念の内容が気になりましたか?あまり移入しすぎますと“引っ張られ”ますよ?」

「……大丈夫です、負けません」

「……あの頃から言ったら聞かないところは変わりませんね……使うのは【六根清浄】で?」

「はい、【六根清浄大祓詞】を調整して穢れだけを祓ってみます」

「……大丈夫でしょう、分かりました。いざとなれば私がフォローしますのでやってみましょう」

「はい!」


 返事と共に素早くカバンから術具を取り出すと、もう必要がないとばかりにカバンを後ろに放り投げた。

 フローリングを打つ音が聞こえないことから後方の中年が見事キャッチしたのだろう。

 少し猪突猛進なところがあるのかもしれない……鞘を投げ捨てる武者ではないのだ、なにもカバンを投げなくてもいいのにと思ってしまった尚斗である。


 シャリンッ


 右手に持った鈴を水平に切り音を鳴らす。

 三番叟の鈴、巫女鈴、呼び方は多々あるがこの方が馴染みはあるだろうか ― 「神楽鈴」と呼ばれるそれは巫女にとって祭事だけではなく怪異との戦闘でも威力を発揮する術具である。

 美詞も例に漏れず巫女としてこの鈴の扱いを桜井に叩き込まれ霊具として使用していた。

 舞うようにシャリンシャリンと鳴らす姿は堂に入っており、巫女神楽の一つでも舞わせた時には人々を大いに魅了することだろう。

 しかし今は除霊の刻、対峙するは怨霊、奏でるは神楽の雅な調べではなく退魔の詞なのだ。


「あまてらしますすめおおかみの のたまはく ひとはすなわち あめがしたの みたまものなり すべからく しずめ ―」

 

 美詞が祝詞をゆっくり奏上しだすと怨霊と思える塊がうめき声を上げ始める。

 尚斗は祝詞が順調に唱えられていくのを見やりつつ後方にいる朝倉に声をかけた。


「朝倉さん、昨日お話ししましたよね……行方不明の女性の事」

「あ、あぁ。たしか過去恋人関係だった……かもしれない女性だね?」

「恐らく当たりかもしれません。美詞君の術がうまくいきますと怨霊から怨念は取り除かれ浮遊霊へと戻ります。そうなれば情報が引き出せるかと思いますがどこまで自我が残ってるやら……」

「ならこの霊は……いや、この女性は最初の被害者『大村秀和(おおむら ひでかず)』に殺されたと?」

「彼女はこの部屋に地縛されています。私の勘ですが……死体はまだここにある」

「そんなどこに……っ!そうか、あの引っ掻く音、壁の外!」

「恐らくは。躯体と石膏ボードの間かと。まぁそれも除霊の後ですね」

「なんてこった……殺人事件が隠れていたとは」


 尚斗と朝倉の会話の終わりを待っていたかのように美詞の祝詞が完成しようとしていた。

 怨霊はその場に縫い付けられたようにうめき声をあげ蹲っている。


「― なすところの ねがいとして じょうじゅせずといふことなし むじょうれいほう しんとうかじ」


 祝詞を最後まで奏上し終わるのと併せて一際大きく鳴らされた鈴の音が部屋を包み込んでいく。

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