キャッツ哀
川谷パルテノン
月がきれいで
どうして今日も猫に生まれ変われなかったのかを反省しながら寝床に就き、朝起きて歯を磨きながら尻尾の所在を確認する。伸びた髭を剃り落とすことがやめれず、押し迫る社会に対して頭を抱え、誰も見ていないところだけではニャアと鳴く。人が生きると書いて人生だ。
教員というのはじつにつまらない仕事である。僕はしがない大学のしがない教員でしがない大学生にしがない講義を開いていたわけである。大勢の生徒は僕の話を真面目に聴くものもあれば単位のためにそこにいるだけの輩もいる。僕はむしろ後者の君たちを正しい生き方であると褒めたい次第だ。僕が君たちの年頃には人の生き方を心得ていたわけで、そんな僕にしてみれば大学生など一端の大人なわけである。だから今さら教わることなどなかろうに真面目にこんな大人のつまらぬ話を聴くなどとは恥ずべきことと知ってほしい。とはいえ此方も仕事であるからそんな本音を口にはしない。タテマエは罪ではないから悪びれることもないわけだ。どうして今日も僕は猫ではないのだ。
講義終わりにひとりの女生徒が僕に言う。先生、今夜お暇はありますかと。暇と書いてイトマと声にする若者がえらく古風に感じられた。その口ぶりから品の良さが垣間見え、よほど育ちの良い家かと察するが、僕はぽりぽりと頭の後ろを掻きながらイエスともノーとも取れない返事をした。仕事をひととおり片した後に駐車場に足を運んでみれば彼女は律儀に待っていた。些か恐怖さえ覚える次第だ。彼女はただ空を一緒に眺めてほしいと言う。何を言ってるんだというのが正直なところだ。育ちが良すぎるせいか偏屈な方へと歩を進めたか。嘆かわしいことである。それはそれとして夜更けに車を挟んで教員と生徒の並びはじつに厄介と言える。こんな時勢と口にしかけるが時勢など関係ない。厄介はごめんなのだ。彼女は今日が何百年かに一度の皆既月食をきれいに見れる日なのだと言う。生憎僕は星に興味がない。そうなのと思うだけで今にも帰ってしまいたいが、とはいえこんな時間までただ月の満ち欠けが見たいと待っていた健気さだけは無下に出来なかった。
しばらく二人で月を見ていた。気まずい沈黙がある。
「夏目先生、月食はまだ始まりませんけれどそれでも綺麗な満月ですね」
「あ、うん。そうね」
「気のない返事。先生は漱石と姓が一緒ですよね。それも文学部」
「それが。どうかした。夏目なんてたいして珍しかないよ」
「ねえ先生、月で漱石といえば有名な言葉がありますよね」
僕は漱石についてしばらく考えた。しばらくというのはこの長い長い人生とやらの中ではほんの一瞬のことである。彼女は何か僕に漱石を問うわけだ。
「吾輩は猫である」
「先生、残念です」
「月食」
「え」
「始まってるよ。ほら」
その後は沈黙だけがあった。まじまじと月を見たのは遠い昔以来。そもそもそんな日があったかも定かでない。
「さて、もう遅いからね。気をつけて帰んなさい」
「ちょっと、送ってくださらないんですか」
「なんで」
「もういいです。帰ります」
「気をつけてね。じゃあまた明日」
翌日の講義にも彼女は顔を見せた。無事で何よりだ。少しだけ心配した。一安心した矢先でよぎる思いはただ一つ。どうして今日も猫でないのか。ただ昨晩はまやかしと言えど名乗ってみたわけでそこだけは彼女に感謝したい次第である。
キャッツ哀 川谷パルテノン @pefnk
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