「その男」

久芝

第1話

その男の噂はすぐに広まった。

私の家の裏には広大な森が広がっている。

手入れがされている森なので荒れ果てている鬱蒼とした森ではなく、人の手が加わった温かい森と表現できるかもしれない。

森の奥には小さな湖がある。地図には決して載らないほどの小さな湖である。沼の間違いでは?と第三者から思われるかもしれないが、水が半端なく綺麗で透明で、ずっと見ていると水の底に吸い込まれてしまう錯覚に陥る、それくらい綺麗な湖である。この町に住んでいる人なら共感してくれるかもしれない。あの美しさは経験した方が良いと同時に、もしかしたら「死」を思い起こさせてしまう良くない綺麗さなのかもしれない。

その男は森の奥、湖近くの小屋付近で見かけられた。小屋は何十年も前からそこにあり持ち主は分かっていないらしい。誰が所有しているかも分からなく勝手に壊すことは出来ないそうだ。

その小屋の話を聞いているうちに昔のことを思い出した。

私はその小屋にかつて入ろうとしたことがあった。もう何十年も前、おそらく小学5年生くらいのことだったと思う。

私は友達3人といつものように森で遊んでいた。テレビゲームも面白いのだが、うちらは森で遊ぶ方がなぜかテンションが高くなる。高くなる理由はいくつかあり、その中でも圧倒的にこの理由だった。

「妖精」

他の人にこの類の話をすると「幻覚」「作り話」「そんなくだらないことはいいから勉強しろ」と言われるが、自分たちは何度も「妖精」を見ている。ちゃんと見たのかと言われると断言は出来ないが、妖精の住処らしきところは何となくわかっている。

例の小屋だ。

小屋から出入りしているところを何度も見ている。それは日中よりも深夜に頻繁に行動していると言える。3人で夜通し監視をしたこともあった。その時に小屋の中が明るくなっていた。電気を点けている明るさではなく、ぼんやりと明るい感じ、それは夢の中で出てくるような淡い明るさが小屋全体を包んでいるような優しい光に包まれている小屋から蛍のような物体が夜空を飛び回っていた。

監視をしていたのが夏の夜ということもあったので最初は蛍かと思っていたが、見たらすぐに違うのがわかる。大きさは小人くらいなので蛍ではなさそうだった。

蚊に喰われながら監視して、早朝にみんなでその小屋に近づいたが、特段何も変わらない普通の小屋だった。

丸ノブがついた戸を押したり引いたりしてみた。鍵が掛かっているようで開かなかった。不法侵入するつもりはなかったが、みんなアレが気になっていたのでどうしても部屋に入りたかったが、結局入れなかった。窓を割るのは流石に気が進まなかったので、また別の日に作戦を立てて実行しようと思っていた。

その翌日も監視をした。でも、あの明るさを見ることは出来なかった。

その翌日も監視をしたが見ることが出来なかった。もしかしたら監視をしていることがバレたのかもしれない。少し日を置いてから改めてそこを訪れようと3人で話していたが、なぜかその日を境に私たちの関心は急に薄れていった。

あれから数十年が経過した。私はこの町に戻ってきた。このタイミングでそんな噂話を聞いたので、あの頃の謎と何か関係があるのではと、過去の記憶を箱の中から引っ張り出してきた。

久しく森に入ってなかったので森に入ってみることにした。きっと懐かしい感情が湧くだろうしそれが楽しみでもある。

やはりあの頃とは違うと思ったのは一瞬だけで、すぐにいつもの森だと感じた。あの頃と違うと言えば森も歳を取ったということだろうか。どこか渋みを帯び深く呼吸をしているような感じを森の中を歩きながら感じていた。森自体の呼吸が深いから良い空気を吸えているような気がした。

太陽の光が森に差し込む光景は何ともいえず、それはあの頃から変わっていないことに少しだけ安心した。

少し肌寒いが湖の方に向かってしばらく歩いていく。

数分後、湖に到着した。相変わらず小さいけれど綺麗であることは変わっていなくて、また安心した。

湖の対岸に例の小屋があり、その周辺に例の男がいる。小屋の所有者であれば、過去に見た話を説明して中に入れてもらうことも出来るかもしれないが、見られてはいけない、知られてはいけないことであれば、何も教えてくれないだろう。最悪自分の身が危険に晒されるかもしれない。

小屋に向かって歩み始める。対岸という響きからえらく離れているイメージがあるが10分ほど歩けば着く。

今日は風がないので湖面は穏やかで寝ているかのように静かである。

湖面の縁を歩きながらその男について考えてみた。きっとみんなの勘違いでもあり勘違いでもないのかもしれない。要するに会って確認してみないと何とも言えない。

ただ、あの時の妖精の光に関してはおそらく何か知っているのではないかと根拠のない自信だけはあった。

色々考えている間に小屋の前に到着した。

遠目からでも分かっていたが近くで見ると古さを余計に感じる。

全体的に木が腐っていそうでこの中で人が暮らすのには無理があるように思った。屋根や壁から雨漏りや隙間風が入っていそうだ。

農業の工具や機具を保管するにはこんな感じでも問題はないかと思う。

入り口の前に立ち「トントントン」と3回ノックをした。

反応はなかった。

もう一度3回ノックをした。

反応はなかった。

あたりを見渡した。向こうの森ほど木は多くなく、開けた空間が多いので全体的に明るい。

少し周辺を散策してみようと、そこから離れた。

あまり対岸の方は詳しくなかったので良い機会かもしれない。

思ったよりも何もない気がする。何かはあるのだけれども、物足りない感じがする。

向こうの森は盛り沢山だからそう感じるのかもしれない。

人は誰もいない。

例の男は誰かの見間違いかもしれない。

夕方になりかけていていた。

夕日が湖面に反射し、その光がちょうど小屋を照らしていた。

綺麗な景色を見ながら帰路につこうとしていた時、「あの、」と突然後ろから声をかけられた。

人の気配が全く感じられなかったので心臓の鼓動は激しく連打していた。

「はい?」と振り向くと、おじさんぽい人が立っていた。

みすぼらしい格好ではなくオーダーメイドのようなスーツで生地も良い仕立て屋が選んだであろう、そう思わせるスーツだった。

背丈は私よりも少しだけ高く黒縁の四角い眼鏡をかけ顎髭は殆どが白髪だが品がある風貌だった。

「さっき小屋に来ていたみたいだけど何か用事でもありましたか?」と、低い声で問いかけられた。

「え、ええ。あの」と、色々話をすると、「とりあえず中へどうぞ」と小屋へ案内された。

彼はドアノブを回して入り口を開けた。どうやら鍵はかかってなかったようだ。

知らない人の家に入るのは大人になっても緊張した。

少しだけ心臓の鼓動が早まりながらも冷静を装い部屋に入っていく。

想像とは全く違う世界がそこにはあった。

古びてかび臭い部屋を想像していたが、部屋にはほとんど何もなかった。

部屋の真ん中にリクライニングがあり、その奥にローテーブルと革張りソファーがあった。

キッチンらしき場所もあり冷蔵庫もある。

一人で暮らすには最低限の設備が整っており、秘密基地のような雰囲気がある。

ソファーに案内され腰を下ろした。

「コーヒーでいいかな?」

「はい」

コーヒーが来るまで数分だったはずなのに、数時間待っているかのような気持ちだった。

コーヒーを2つトレイに乗せて持ってきた彼は私と自分の分のカップをテーブルに置き対面のソファーに座った。

「どうぞ。冷めないうちに」

「いただきます」

普通のコーヒーのはずなのにすごく美味しく感じた。

部屋の中を改めて見渡してみた。やはり殺風景だった。

2口飲んだところで聞いてみた。

「あの、ここは?」

「あっ、ココアの方が良かったかな?」

「いえ、コーヒーで大丈夫です」

「この小屋はもう30年以上も前から私が所有していて、時々手入れをしに来るんだよ」

「そうだったんですね」

謎はもう解決されてしまったような気がして力が抜けた。結局人の持ち物でそこに勝手に侵入しようとしてたとは、いい大人が恥ずかしいと今になってやってしまったなと思った。

「何か私に用事があったのでは?」

彼はコーヒーを飲みながら足を組み替えた。その所作がちょっとした威圧感と緊張感を生んだ。

「いえ、この小屋昔からあったのは知っていたんですが、どなたか住んでるのかなと思って、ちょっと訪ねてみたんです。今更ですけど」

「そうでしたか」

「ええ。あと、これを言っても信じてもらえないかと思うんですが、20年以上前になるんですが、実はここを訪れたことがあるんです」

「そうですか」

「その時に実は変なモノ?変なことが起こりまして。夜中の2時過ぎくらいにここの小屋が光っていたんです。そして小屋の周りを最初は蛍でも飛んでるのかと。ちょうど夏でしたし。でも、近くでみてみると、何というかテレビでみた事あるような、いわゆる妖精ですかね、それが何十人と飛んでいたので」

「なるほど。それをみたのはあなたお1人ですか?」

「いえ。私の他にあと2人友達が見ています。うちら3人は最低でもみています」

彼はコーヒーカップをテーブルに置き腕組みをしながら目蓋を閉じた。急に眠気がきたのではなく、深く思考を巡らせているような雰囲気が出ていた。

「いいでしょう」

「はい?」

彼が唐突に話し始めたと思ったらいきなり立ってキッチンの方に向かって何かを探している。

「あの?」

「ありました」

ジャラジャラと鍵の束のようなモノを携えていた。

「では、参りましょうか?」

「ど、どこに?」

彼は奥の方に行ってしまうので、慌てて私もその後についていく。外観からは分からなかったが家の中は部屋が思ったよりもある。廊下を出て奥の部屋の鍵を彼は開けている。自分の家の部屋の鍵を閉めておくのは人を入れたくない何かがある時で、今開けるということはどういう事だろうか。

部屋の中に入る。

薄暗い部屋の中は書棚が隙間なく置かれている。どうやら書斎のようだ。分厚い辞典や偉人たちのコレクションがあり、1つのアンティークにも見える。

「あなたはすごいタイミングでそれをみましたね」

彼は書棚から分厚い本をとりページパラパラと捲っている。

途中のページで動作が止まりしおりのようなものを挟み本を元に戻すと、突然地鳴りのような音が聞こえた。結構大きい地震かもしれないと身構えていると本棚が左右に動き入り口が現れた。

その入り口の前に彼は立ち、振り返った。

「ここから先は無理にとは言いません。あなたが決めれば良い事ですが、もし覚悟が決まりましたらこの中へご案内します。どうですか?」

覚悟を示せといきなり言われてもそういうつもりで来たわけではなないので、そもそもこの入り口奥には一体何があるのだろうか。覚悟よりも興味の方が強い。

「この奥には何が?」

「それはあなたが行ってみて確認すれば良い事です。一つ言えることは、覚悟が必要かもしれません」

生憎、今日はそんなつもりはなかったので少し返答に困った。

「別に今日どうこうではありません。ただ、こういう事があるというのを見てもらいたかったので、今案内しました。あなたに2週間時間を与えます。その中で覚悟が出来ればこちらにまた来てください」

「もう1度聞きますが、ここには一体なにが?」

「それは、あなたが自分の目で確かめるのが1番だと私は思うのです。それが私から言える事です」

小屋から帰る途中何気なく小屋の方を振り返ってみると、あの時見た柔らかい光が小屋を包みその周りを何かが飛び回っているのが見えた。その数はあの頃見た時よりも多く感じた。

いずれにしてもあの先を進むのかここで止めるのか判断しなければならない。優柔不断な性格の自分にとっては悩ましいい問題と向き合ってしまったなと思っているが、本当の所はもう決まっているのかもしれない。

2週間はあっという間に経過した。

いつ行くとか何時頃行くとかの連絡は特段していなかったが、何となく今日が良いかなと思い家を後にした。

気のせいかもしれないが今日の森はいつにも増して緑色が深く、森の中に差し込む光が多い気がしていた。

湖面は今日も穏やかで綺麗だった。

対岸まですぐに着くと思っていたが今日は時間が遅く流れている気がしている。気がしているだけなのだろうけど。

小屋の前に到着して3回ノックをした。

2、3分後入り口が開いた。

「どうぞ。今日、来ると思ってました。さあ、中へ」

少し緊張しながら部屋の中へ入りあの部屋へ歩いていく。

まだ入り口は開かれていなかったので、入り口を開けてもらうように話した。

「今日きたということはそういうことでよろしいですよね」

「はい。そのつもりで」

彼は本を取り出しそこにしおりを挟んでまた本棚に戻した。

両サイドの本棚が開き入り口が現れた。

「では、私はここでお別れです」

「あの、本当にこの先って」

「意外と心配性なんですね。ええ。大丈夫。あなたが信じれば」

「信じれば」

今目の前には暗い入り口がある。そこから先に何があるかわ分からないが進まないと何も分からない。1歩そっちの方へ歩み出そうとした時に「これをお持ちください」と、1つの鍵を渡された。

なんの鍵か聞こうとしたが、やめておいた。

また1歩暗い中に入っていく。

もしかしたら良いことが待っているかもしれないし、やっぱり悪いことが待っているかもしれない。でも、知りたいと思う気持ちがそれらを凌駕していれば結果はどうあれ良いんじゃないかと思う。

そして私はこの道を永遠に進んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「その男」 久芝 @hide5812

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る