第8話 虹と夕焼け、ラベンダー
リセの兄を名乗る男は、僕を車に乗せて海岸沿いの道路を走っていた。後部座席の窓から外の景色を眺める。現実世界ではしとしとと雨が降り続けている。そういえば少し前に梅雨入り宣言したみたいな話を聞いた気がする。
「姫堂ホールディングス?」
社名だけではピンと来なかったけど、渡された名刺にプリントされているいくつかの企業ロゴは知っていた。
LDR世界内にも支店を出している小売店舗チェーンや、オンラインコンテンツ配信サービス。姫堂家は、それらを統括する企業グループの経営者一族らしい。
「我々はLDRデバイスの開発にも出資しています」
彼が口にしたブランド名の中には、僕が使用しているLDRギアのものも含まれていた。
「LDRの開発は、医療目的の研究から始まりました」
聞いたことがある。十数年前、脳医学の発展と、脳機能の解析が進んだことにより、会話や身振り手振りを伴わないコミュニケーション手段が模索が始まった。
その答えの一つが、今日LDRと言われている仮想現実システムの原型なのだ。
「何らかの原因で脳機能の一部が損なわれ、身体が不自由となった人たちを補佐するために。例えば私の妹のような……」
「つまりリセは……」
言葉が続かない。重病人の身内にどんな言葉遣いをすればいいのか、僕は知らない。
自ら望んで拒み続けてきたとは言え、こちらの世界で積むべき経験を積んで来なかった自分が嫌になる。
「見えてきました、あの病院に妹はいます」
雨でけぶる視界の奥、海岸を臨む丘の上にうっすらと建物の影が見えてきた。
姫堂氏の運転する車は、病院の名前が掲げられた門扉を潜ると、スロープを下って地下駐車場へと吸い込まれていった。
自動運転システムで滑り込むようにエレベータ横の駐車スペースに車を停めると、リセの兄は僕を病院内へと案内した。
「美沙の部屋です」
そう言いながら姫堂氏は自分の携帯端末を、扉の横のリーダーにかざした。音も立てずに扉が滑るようにスライドし、僕たちは病室に入る。
面積はあるけど、広々というより空虚な印象の方が強い個室だった。その窓際に一台のベッドがあり、その上に人影が横たわっていた。
「これって……LDRギア?」
ただの病院のベッドじゃない。
いくつかの液晶パネルが側面に付いており、何本ものケーブルが壁の配線盤へと繋がっている。枕元からは太いアームが伸びていてその先には半球状のヘッドギアが付いていて、ベッドに怠和る人物の頭を覆っている。
そのヘッドギアは僕が家で使用しているものによく似ている。これは、ベッドそのものがLDRのデバイスなのだ。
「妹は十数年間、目を覚ましていません。幼い頃の病で、大脳の働きは停止こそしていませんが、昏睡状態から回復することもない。いわゆるグレイ・ゾーンと呼ばれる状態です」
ヘッドギアに覆われた顔が女性のものだということはわかった。年齢は見かけだけではわからない。
18歳という設定のリセと同じくらいか、或いは少し幼いようにも見える。布団がかけられていない上半身は、健康的でスタイルの良い雨夜星リセのシルエットとは違い、あまりにもか弱々しかった。
やせ細った腕からは数本の管が伸び、点滴パックへと繋がっている。それを見て僕はあの噂を思い出す。
LDRギアに水分と栄養剤の点滴がつき、仮想世界での食事に合わせてそれらを適量投与してくれる機材が存在しているらしい。それは、電気信号による筋肉の衰えを防止する機能も付いており、仮想世界への完全な移住を可能にするものだという。
多分これの事だ。僕がどれだけ高額でも買おうと決めていた、現実世界と訣別するための機械。
雨夜星リセは、もう何年も前からその機械と繋がっていたのだ。
「しばらく二人にさせてもらえますか?」
「……わかりました。外でお待ちしてます」
姫堂氏は廊下へと出ていき、だだっ広い個室に僕とその少女だけが取り残された。
「ゴメンな。君のリアルの姿なんて見るつもり無かったんだ。本当にゴメン」
その言葉はリセの耳には届いていない。そもそも僕がここにいることすら彼女は理解できていないと思う。それでも、言わずにはいられなかった。
「こっちの世界の僕はこんな感じだ。冴えない引きこもりのオタク野郎、多分君の想像通りだよ」
わざとおどけた感じに言いながら、彼女の枕元へと近づいた。LDRギアと一体化したベッドには、小物や時計を置くための小さな棚が付いている。そこに雨夜星リセの顔がプリントされた小さなパッケージが置かれているのに気づいた。
「お兄さんが飼ってくれたのかな、君のために」
パッケージには「ラヴェンダーのアロマケーキ」と書かれている。この前のコンビニとのコラボ企画のときに販売していたお菓子だ。
「ラヴェンダー」はリセのディスコグラフィーの中でも特に人気の一曲で、ライブでもよく歌われる。その曲にちなんだお菓子として、リセが提案した商品だった。
「でもお兄さんもダメだな。コレは飾ってるだけじゃ意味ない。そうだろ? 香りが重要なんだから」
アロマケーキの開発についてリセがこだわり、製造元に何度も念を押していたのが、その香りだった。
パッケージを開けた瞬間に、一面のラベンダー畑にいるくらいのはっきりと香り、それでいて食べるときにケーキの味を邪魔しないようにしたい。
リセはそんな無茶振りをしていたのだ。提携先となったお菓子メーカーに、リセの大ファンがいたおかげでそのリクエストは達成された。特許出願中の独自製法を駆使し、まさしく開封した途端に豊かな芳香が漂うケーキが誕生したのだ。
これはコラボ商品の中でも一番人気となり、メーカーもただのコラボで終わらせるのではなく自社製品として継続的にラインナップに入れたいとまで言っていた。
「ほら、どうだ?」
僕はそんな傑作商品を開封した。病室がにわかにラヴェンダーの香りに包まれた。それは、LDR内での打ち合わせのときに、僕とリセが一緒に体験したシミュレーションサンプルと同じ匂いだった。
「 安心しなよ。キミのこだわりはリアル世界のお客さんにしっかり届いたから!」
当然、少女は何の反応もない。彼女の脳にきっとこの香りは届いていない。
LDRの外に興味のない僕は、現実世界の商品の仕様に全く興味がなかった。だからメーカーの担当者に語る彼女の熱意も、正直理解できなかった。
ただ、今ここに横たわる女の子の姿を見ると……残酷なくらいにそれが理解できてしまう。
「あ……」
ふと窓の外を見て、僕は息を呑む。
いつの間にか雨は上がり、太陽光が世界を照らしていた。もう夕暮れの時刻だ。その光は海の上の雲を山吹色に照らしていた。そして雲のさらに上には……。
「リセ、すごいよ。虹が出てる……!」
プリズムのアーチが、夕日に染められた東の空を貫き、輝きを放っていた。
綺麗だな。リアル世界で初めてそう思ったかもしれない。
これより美しい光景は、ReMage世界にはいくらでもあるけど、今ほどの高揚感は得られない気がした。
なんでそんなこと思ったんだろう? LDRは脳内のイメージを鮮やかに具現化してくれる。それは視覚だけでなく、五感のすべてが対象だ。だから現実世界と全く同じ感動を体験できるはずなんだ。
それなのにこれに勝る体験を、僕は仮想世界の中では絶対に得られないんじゃないか。これまでの自分を否定するようなその思いに、僕は戸惑う。けど、何故かそ確信を払拭することは出来なかった。
「見せてあげたい。君のことだから、この景色にインスパイアされたらすごいことになるのに……」
きっと彼女の豊かな感性は、素敵な詞やライブ演出を生み出すだろう。リセは僕の隣にいるのに、この景色を共有できない。それが無性に悔しかった。
しばらく彼女の横で窓の外を眺めていた。七色の橋はしばらくすると消え、山吹色の雲は深い朱色へと変わっていった。それもやがて色彩を失い、海の景色は闇へと包まれていく。
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