第9話 エゴバーフロー

「妹は、長くないんです」


 病室を出たあと、僕ら二人以外は誰もいない談話室で、姫堂氏は言った。


「もともと、医師からは治る見込みはないと宣告されていました。昏睡状態のまま、二度と目をさますことはなく、人生の幕引きまでベッドから起き上がることはないだろうと……5歳のときです」

「5歳……」

「その時、私達の両親は賭けに出ました。妹を、当時研究段階だったLDRギアの被験者に選んだのです」


 どうしても自分の境遇と比べてしまう。リセの場合、なんとしても娘を救いたいという、両親の愛情の形としてLDRと巡り合ったのだといえる。

 僕の場合、荒みきった家に居場所がなかった。怒声や叫び声が渦巻き、下手したら身の危険すらある家に帰るわけにはいかなかった。だから年齢を偽ってネットカフェに入った。それが、LDRギアとの出会いだ。

 別に、羨んでいるわけではない。色々な家があるというだけだ。そして色々な家があったから、僕とリセは出会えた。


「想像以上の結果でした。二度と歩くことも笑うことも出来ないはずの妹は、仮想空間でそれらを全て実現させました」


 その時から、彼女の第二の人生が始まったという。

 勉強も遊びも全て仮想空間で行いながら成長していった。やがて「雨夜星リセ」というもう一つの名前を自らに名付け、歌とダンスを学び、シンガーとして自分の声を世界に届けることを望んだ。

 彼女の兄は、とつとつと妹の半生を語り続ける。


「そしてあなたと出会い、大きな夢を持った。あなたと共にその道を登り続け、誰もが知るトップアーティストに……。あなたにはいくらお礼をしても、足りません」


 姫堂氏は、僕に向かって深々と頭を下げた。

 僕は戸惑う、自分に頭を下げる人に対して掛ける言葉を僕は知らない。そもそもお礼を言いたいのは僕の方なのに……。

 どうにもならないような行き止まりしかない人生に、光を当ててくれたのは間違いなくリセだ。リセと出会わなければ、僕の方こそどうなっていたかわからない。


「病気は少しずつ、けど確実に進行しています。今はまだ向こうの世界で元気に活動できるくらい、大脳は機能している。けど、限界を超えてしまう時は近いでしょう。そしてその時には彼女の命も……」

「具体的には……あと、どのくらい時間があるのですか?」


 やや長めの沈黙の後、抑揚のない平坦な口調が返ってくる。


「長くて、ひと月半。主治医からはそう聞いています」


 そうか。そういう事だったのか。僕は目を伏せた。彼女が突然引退を表明した理由がはっきり分かった。

 なんだよリセ、飽きたなんてやっぱり嘘じゃないか……。


「お察しはついているかと思いますが、妹ももう知っています。彼女は残り少ない時間を有意義に使おうとしている」

「はい」


 僕はうなずく。そうだ、その通りだ。彼女は、自分の後継者たるAIを遺そうとし、そのためのデータを僕に取らせるために、人生最後のツアーを行おうとしている。


「私たち家族は、理沙のReMageでの活動を密かに見守り続けてきました。願わくば、最後まで好きにさせてあげたい。けど……」


 また沈黙。今度はさっきよりも長い。姫堂氏はその先の言葉を口にすることを明らかに戸惑っている。


「姫堂さん、どうしました?」

「けど……私たちは、その時が来る前に、彼女をLDRから切り離さなくてはなりません」

「え?」


 思ってもいない言葉が出てきた。切り離す?


「どういう事ですか?」

「そのままの意味です。あの部屋のLDRデバイスを停止させ、彼女をReMageから追放する。彼女の脳が役目を終える前に、です」

「ちよ、ちょっと待ってください!」


 僕は思わず立ち上がった。椅子が大きく傾き、音を立てて倒れる。

 訳がわからない。何でだ? 病室にいたあの少女が、わずかな命の炎を燃やし尽くそうとするなら、せめてその最後の光を大切にすべきだ。

 最後の最後まで雨夜星リセであることを貫かせる。そしてそれを見守り、見届ける。それが周りの人たちのなすべき事じゃないのか?


「寺島さん、あなたが言いたいことはよくわかります。私たちもそうさせてあげたい。……けど駄目なんです」

「どうして!?」


 現実世界の僕の喉は、まだこんな大きな音を出せたのか。何故だか、冷静にそんなことに気付ける僕がいた。


「エゴバーフローという仮想世界の災害をご存知ですか?」

「エゴバー……フロー……?」


 聞いたことはあった。Ego Overflow自我あふれ、を略した造語だ。

 確か、LDRデバイスが装着者の脳が発するイメージ信号を処理しきれず、仮想世界そのものに干渉を起こしてしまう事故……だったか。

 けどそれは、理論上ありうるけども、発生条件が揃う可能性は極めてい低いトラブルだったはずだ。


「ここ半年ほど、エゴバーフローによる事故が世界各地で頻発しています。あなたもつい最近、味わったはずです。原因不明のトラブルで強制ログオフがかかったでしょう?」


  あれか。はっきり覚えている。ひと月前、リセに初めて引退話を打ち明けられた日、謎の現象が発生したかと思うとReMageから切断されたことがあった。


「最近になって発覚したんです。初期型のギアと接続している、グレイ・ゾーン患者が、死の間際にこの災害を引き起こすことが」

「そんな……」


 悪い冗談にも程があるだろう。天文学的な確率でしか起きないと言われていた現象に、再現性が見つかった。

 このやせ細った少女の境遇が、そっくりそのまま発生条件だというのか?


「エゴバーフローの規模は、発生要因となったユーザーの、LDR世界内への影響度に相関することも判明しました。これまで発生したエゴバーフローは、皆ごく狭い交友範囲で仮想世界を生きてきた人たちが引き起こしたものでした。けど妹は……」


 どう低めに見積もっても「ごく狭い」などという形容は出来ない。

 ReMageのユーザーの大多数は彼女の名前と顔を知っている。あの世界への影響度が最も大きい人物の一人だ。


「妹がエゴバーフローを起こしたときに、どれだけの被害が発生するか想像も付きません。だから、脳が活動を停止する兆しを見せたら、即座にReMageから切り離すしかないのです」


 そういう事か。それでセキュリティチームは僕らのステージを見張っていたのか。いや、今日のステージだけじゃない、きっともっと前から、僕たちは監視されていたのだろう。起こるかもしれない未曾有の大災害に備えて。


「テオさん」


 姫同氏は、僕を向こうの世界の名で呼んだ。


「すぐには受け入れられないかも知れません。ですが、あなたにだけは真実を伝えねばと思い、ここに来ていただきました。その時が来たら、私は妹をあの世界から引き離します。その行為を軽蔑しても構いません。ですが……どうかご理解いただきたく……」


 懇願にも似た兄の説明に対して、僕は返す言葉を見つけられなかった。

 彼もきっと、僕の言葉を期待していたわけではなく、沈黙が談話室を支配した。

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