第2話 こちら側
さて、システム復旧までどうするか?
僕は現実世界のリセとは面識がない。彼女と話すには、ReMageのメンテが終わるのを待たなくてはならない。
「腹、減ったな」
僕は腹を擦りながらつぶやいた。そういえば20時間近くLDRと繋がりっぱなしで、何も食べていない。LDR最大の欠点は、栄養補給機能がないことだ。
脳の味覚中枢と満腹中枢を刺激して、たたみ一畳分のシャトーブリアンステーキを食べたり、はちみつと生クリームのプールに溺れることはできるけど、胃袋の中にそれらが入るわけじゃない。
生きるためには定期的に現実世界へと戻り食事をとる必要がある。そしてこういうときに限って、買い置きのカップ麺や冷凍食品を切らしていた。デリバリーを頼もうとも考えたけど、ふとある事を思い出した。
「そうだ、コンビニ……」
平成の終わり頃に建てられたという6畳ワンルームの安アパートから歩いて五分のところにエヴリストアというコンビニがある。アパートとその店を結ぶ道が、僕の現実世界の全てだ。
超人気アーティストとその専属プロデューサーである僕たちは、ReMageの中で一生豪遊しても使い切れないだけの資産を持っている。スタジオがある場所はReMageでもっとも地価が高いと言われる地区だし、その他にもMV撮影用の森や海、さらには惑星も持っている。まさしくリセと僕の王国だ。
けどその資産を現実世界の為に使おうとは考えていなかった。僕にとってこちら側の世界とは、栄養摂取をするためだけの場所でしかない。本当は1秒だっていたくない。
過去の事は蒸し返したくないけど、こっちの世界には碌な記憶がない。高校までは家も学校も生き地獄だったし、卒業してからはずっとあの部屋に閉じこもって生活している。
いわゆるLDR廃人、社会不適合者ってやつだ。
噂では、LDRギアに水分と栄養剤の点滴がつき、仮想世界での食事に合わせてそれらを適量投与してくれる機材が存在するらしい。それは、電気信号による筋肉の衰えを防止する機能も付いており、仮想世界への完全な移住を可能にするものだという。
もしそれが商品化されたら、どれだけ高額でも購入しようと僕はかなり前から決意していた。
『いらっしゃいませ! エヴリストア特別広報部長の雨夜星リセです!』
コンビニの自動ドアをくぐった時、快活な、そして僕がよく知っている声が出迎えてくれた。店内にはそこかしこに、このコンビニの制服を着たリセのPOPが置かれている。お菓子コーナーや惣菜コーナーに目を向ければ、雨夜星リセとの限定コラボ商品が並べられている。
大手コンビニチェーンのエヴリストアは一昨日から、雨夜星リセとのコラボキャンペーンを開催しているのだ。せっかくなので期間中に一回は覗いておこうとは前々から考えていた。
『雨夜星リセ、エヴリストア占領作戦開催中! これから今しか食べられない限定メニューの紹介をしまーす♪』
僕のように人生の全てを仮想世界で暮らしたいと思っている人はまだまだ少数派だ。多くの人々は仮想と現実に均等に、あるいは現実に比重を大きくしたバランスで、2つの世界を生きている。そんな現実を生きる人達にリセの魅力を知ってもらうためのコラボ企画だった。
こういうのが得意な広告代理店からの誘いで、僕は乗り気じゃなかったけども、リセは大はしゃぎだった。
「リアル世界のコンビニなんて行くことないから、ちょっと憧れだったんだよね。そこがアタシの顔で埋めつくされるなんて最高!」
変なこと言うヤツだと思った。コンビニなんて、僕にとってはほぼ唯一の外出先だし、平均的な日本人でも一日一回は行くような所だろうに。お互いに現実世界のことを詮索しない、というのが僕とリセの間の暗黙のルールとなっていたけど、この時は少しだけ彼女の境遇に興味が湧いた。彼女の話を聞いて、大昔のラブコメ漫画に出てくる、ハンバーガーを食べたことのない箱入りお嬢様を連想した。実際、この歌姫の正体は、かなり特殊な育ちの人物なのかもしれない。
そんなわけで、リセはこのコラボに並々ならぬ情熱をかけていた。コラボ商品は全て彼女が発案し、ReMage内のレストランを借り切って、味を再現したものを何度も試食していた。POPのデザインや店内モニターで流す映像のアイデアも彼女が出し、店内での配置も彼女の指示で行われた。その働きぶりは、正真正銘「エヴリストア特別広報部長」だった。名前だけ貸して、細かいことは相手企業に丸投げするようなアーティストやアイドルも多いけど、リセはこの時期エヴリストア社員顔負けの仕事をこなしていたのだ。
『あ、そのサンドイッチ美味しいよ! 頑張って作ったからね!』
『ほほう。それを選ぶとはお目が高いねー。あとで感想聞かせてね♪』
『ええー! 一度取ったのに戻しちゃうの? ……もう、まぁいいか。すでに色々買ってくれてるみたいだし、また今度、ね?』
コラボ商品を手に取ったり、棚に戻したりするたびに、携帯端末からリセの言葉が再生される。今回のコラボの目玉で、商品のパッケージに仕込まれたチップと客の持っている携帯端末をリンクさせているのだ。これが「リセと一緒に買い物してる気分になれる」とファンの間では好評だった。
「あの、すみません」
背後から声をかけられたのは、僕が会計を済ませ、商品の入った袋を手に店を出ようとした時だった。最初、それは僕に向かってかけられた言葉だとは思わなかった。この街に顔見知りなんかいない。このコンビニでバイトしている店員なら顔に見覚えがあるかもしれないけど、会計後にわざわざ声をかけるようなことはしないだろう。けど……
「テオさん、ですよね? 雨夜星リセのプロデューサーの」
瞬間的に身体がこわばり、固まった。ReMage内で遊べるアクションゲームで敵ロボットの冷凍光線や巨大クラゲの麻痺触手を食らった時のような思いだった。
なんで? 何でこっち側の世界にその名前で呼ぶ奴がいるんだ?
僕は恐る恐る、振り返った。
長身の男が僕を見下ろしている。歳は僕より少し上くらいか?
素人目にもオーダーメイドの高級品とわかるスーツをかっちりと着こなした、ビジネスマン風の男だった。
「いや、失礼。こちらでは
男がそう言った瞬間、僕は店を飛び出した。レジ袋からリセの顔がプリントされた菓子パンがこぼれ落ちた。けど構ってる場合じゃない。気力を振り絞って手足を動かす。何だあいつは? 仮想世界での名前「テオ」だけでなく、僕の本名を知っていた。一体どうやって知ったのか? 何で声をかけてきたのか? 疑問符が頭の中を乱舞する。
「はあっはあっ……げふっ!」
数年ぶりの全力疾走は僕の身体全体をきしませた。心肺機能は即座に限界に達し、肺は酸素供給を拒否する。胃の奥からせり上がる酸味を帯びた不快感。重力の反動が靴底にぶつかり、痛みとなって脚を襲う。
アパートまでは数百メートル程度だけど、まっすぐ帰るわけにはいかない。あのスーツ男が跡を追ってきたら、部屋の場所を知られてしまう。
わざと角を曲がり、路地を抜ける。近所ではあるけど、あのコンビニとの往復以外で外を歩かないから、ここが何処かもわからない。それでも、とうに限界を超えた手足を動かす。
小さな児童公園があった。誰も遊んでいない、滑り台とアスレチックが一体となったような遊具が目に飛び込む。僕はその影に突っ伏した。
「これだから、はぁっはぁっ……現実、は……嫌なんだ」
息を整えながら毒づく。LDRならばこんな目には遭わない。思考が具現化するあの世界なら、AIが求める情報をしっかりとイメージできればそれが現実となる。
100メートル5秒台の俊足で逃げることも、空へと飛翔して撹乱することも……いや魔法や剣、あるいはレーザーライフルや大型ロボットを操ってあのスーツ男を撃退することだって可能だ。
なのに現実ではどうだ? 身体が悲鳴をあげるまで逃げ続け、こうして無様に物陰に隠れるしかできない。早くあの世界に帰りたい!
数分間、深呼吸を続けた後に僕は恐る恐る遊具から顔を出した。人影は無い。携帯端末の地図アプリを起動させ、現在地を確認する。
どこをどう走ったのか全く覚えてないけど、現在地はアパートから歩いて10分くらいの場所だった。僕は警戒は解かず、あえて遠回りをしつつアパートを目指した。
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