仮想の世界にて、キミにサヨナラを

九十九髪茄子

第1話 卒業宣言

「ねえテオ。アタシさぁ、そろそろ卒業しようと思うんだよね。芸能活動」


 新曲の制作をしている最中、雨夜星あまよぼしリセはそう言い放った。最初僕はその二文字が何を意味するか理解できなかった。あまりにも自然に言うもんだから、いつもの世間話のように聞き流し、しばらく話が進んでからようやく事の重大さに気づいた。


「卒業って、辞めるってことか……?」

「だからそう言ってんじゃん。さっきから」


 雨夜星リセは呆れたような口ぶりで返してきた。


「無茶言うなよ! 今作ってるこの曲はどうなる?」


 僕は、彼女の姿を縮小したCGが飛び回りながら歌っている立体映像を指差す。今、僕が編集中の最新MVだ。仮想世界「ReMageリマージュ」で人気ナンバーワンの歌姫、雨夜星リセ。

 「プリズムの歌姫」という二つ名で呼ばれる彼女が、来月リリースする新曲は、すでにリリースライブやタイアップ企業が決定している。

 それを、この仮想世界のユーザー数億人が心待ちにしている。公開24時間でMV再生数は5000万回を超えるという試算も出ている。


「やだなぁテオ。別にアタシも、今日明日引退するって言ってるワケじゃないって。その曲はちゃんと歌うしライブだってやるよ? でも、そうだね……」


 リセは少し考えた後に続けた。


「7月いっぱいくらいで卒業ってことになるかな」


 今日の日付を思い出す。5月12日だ。


「あと3ヶ月もないじゃないか!? なんでそんな……聞いてないぞ?」

「だって言ってないもん。これを知ったのはテオ、プロデューサーのキミが世界で最初」


 リセは光の加減で七色に輝くプラチナブロンドをかきあげながら、僕にいたずらっぽい眼差しを向けた。予想外の言動で周りの人を混乱させるのは、彼女の悪い癖だった。

 自由奔放で何にも縛られない歌姫というのがリセのパブリックイメージだけど、要するに気まぐれ気分屋で周りを振り回してばかりってことだ。


「君は今やトップシンガーだ。5年前とは違う。スポンサーや出資者の同意なしに引退なんてできるわけ……」

「だからさ、テオにお願いしたいの。アタシのこれまでのライブやイベントの記録からさ、アタシの影武者になるBOT-MANボットマンを作ってよ!」

「は?」


 BOT-MANとは、人間が操作していないアバターのことだ。AI制御によって、一般ユーザーと同じように行動する、ゲームで言うところのNPCノンプレイヤーキャラクターのような存在、あるいはこの仮想世界で動く自立型ロボットといったところか。


「テオなら、そのくらいどうってことないでしょ? バーチャルシンガー雨夜星リセの余命は、あと80日。その先はキミがアタシそっくりに作ったBOT-MANが、リセを引き継ぐの。そうすればスポンサーだって文句は言わないでしょ?」


「待ってくれ。本気で言って……」


 リセの提案に戸惑いながら問い返そうとした時、リセを含めた周りの空間が突如ゆがんだ。


「なっ?」

「どうしたの、テオ?」


 ぐにゃりと歪んだリセの顔が僕を覗き込む。彼女は異変を関知していない。僕だけに起きてる現象? そう思った次の瞬間に世界は七色にスパークし、直後漆黒の闇が世界のすべてを包んだ。そして視線の先に白い文字列が浮かび上がる。


『ERROR-332 緊急ログアウトします』


 332番のエラーコードは、ReMageのシステムに何らかの異常が発生し、ユーザーを現実世界に退避させるときに表示されるものだ。頭を包み込む薄い膜が、パチンと音を立てて弾けるような感覚。LDRルシッドドリームリアリティからログアウトするときの特有のこの感じが、僕は好きじゃなかった。現実に戻されるという不愉快な状況に、必ずセットで着いてくる感覚だ。好きになれるはずない。


「ったく何だよ……」


 僕は毒づくと、ヘッドギアを外してベッドから上半身を起こした。携帯端末の画面を確認する。ReMageの運営から、緊急メンテのお知らせが配信されている。しばらくは再アクセスは無理そうだ。そしてもう1件メッセージ。仮想空間から転送されてきたリセの伝言だ。


『通信トラブル? 復旧したらさっきの話の続きね!』


 可愛らしい絵文字でデコレーションされまくった文字列。どうやらリセは、仮想の世界から追放されずに済んだらしい。


「それにしても大変なことになったぞ……」


 もちろん緊急メンテの話じゃない。雨夜星リセが、辞める……? 本気なら、仮想世界ReMageをゆるがす大事件だ。途方も無い数の人々が悲しむし、途方も無い額のお金が失われる。今や雨夜星リセは、中の人本人であっても勝手に終わらせる事ができるような存在ではない。


「ま、アイツの気まぐれだろ、きっと。うん……そうに、決まってる」


 自分に言い聞かせるために、口に出す。もう長いこと、こっちの世界では喋っていない。だから少し舌が重たく、もつれるような感覚がある。僕はそれだけ長く仮想世界Remageに居て、その時間のほとんど全てを雨夜星リセのサポートに捧げてきた。


 ReMageは、いわゆる第7世代メタバースの代表的アプリだ。2020年代から普及し始めた、インターネット上のもう一つの世界・メタバースは、LDRルシッドドリームリアリティの普及によって一つの完成を見た。

 それは人の思考と感覚をそのまま仮想世界に反映させる技術だ。ゴーグル型ディスプレイや体感スーツと言ったデバイスを使って、人の五感に擬似的な体験をさせる、それまでのVRバーチャルリアリティとは異なり、LDRは脳に直接刺激を与える。脳の視覚情報を司る部位に信号を流して、架空の世界の景色や匂い、風や気温を再現するのだ。そしてその世界を歩きたいと考えれば、脳が発信する電気信号を読み取って仮想世界のアバターの足を動かすことができる。さながら脳が半覚醒状態のときに見る、自分の意志で体を動かせる夢、明晰夢ルシッドドリームに似た体験であることから、この名が付けられた。


 脳機能の解析が進むことによって登場した、夢のデバイスに全世界の人々が夢中になった。今や地球人口の40%がReMageのユーザーだと言われる。そんな全く新しい仮想世界でも、シンガーやアーティストと呼ばれる存在は不動の人気を誇るコンテンツだ。いつの時代も、人は美少女やイケメンが表情豊かに話したり歌ったり踊ったりするのを見るのが、大好きなのだ。


 そして現在、そのトップに立っているのが、雨夜星リセだった。


 そのリセが、辞めると言い出した。いつもの気まぐれだ、すぐに撤回する。あるいは僕をからかってるだけだろう。何度も自分に言い聞かせる。けど繰り返せば繰り返すほど、それが気まぐれでも冗談でもないと気がしてくる。いくら気まぐれ屋でも、雨夜星リセはなんの理由もなしに辞めるなんていうヤツじゃなかった。

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