不可視の涙

山の町の宿屋にて。簡素だが掃除の行き届いた、綺麗な部屋。つるつるの黒い木の床、黒くて太い木の柱に梁、部屋の真ん中には赤く染まる炭の置かれた、温かな囲炉裏。小さな赤い熱が部屋を静かに照らし、部屋の中はぬくもりで満ちる。ベッドは無く、布団を直接、床に敷く。かたいかと思いきや、布団は分厚くふかふかで、床のかたさなどこれっぽっちも気にならない。

山の神殿をあとにし、坂を下って宿屋にやって来たR4-Bたちは早速、綺麗に敷かれた布団の上に座り込んで、足を休める。そして真面目な面持ちで、ロートヴァルに話を聞く。

「メビウス様が憎いって…どういうこと?」

R4-Bは戸惑いを隠せない。

誰もが知る、美しく優しい命の神・メビウス。彼女が憎いなどという発想が頭に浮かぶことは、まず無い。悪いのは、堕ちた天使たち。そう思っていた。否、今もR4-Bはそう思っている。それゆえに、ロートヴァルの発言は不可解なものであり、驚きと怒りさえも浮かぶものだった。

たずねられたロートヴァルは、眉間にしわを寄せて、黙りこくっている。うつむいて、なかなか口を開かない。R4-Bはじれったくなるが、落ち着くよう自分に言い聞かせ、ロートヴァルが話し出すのをじっと待つ。囲炉裏の火がはぜる、パチパチという音。カチ、カチ、カチ…時計の針の走る音。数分間の、重い重い沈黙。鉛の空気。そうしてしばらく経った頃、ようやくロートヴァルが口を開く。

「言葉の通りだ。俺は…メビウスが憎い」

ロートヴァルは、ひと言ひと言を絞り出すように言う。怒りと困惑、そして嫌悪。これらが染みるロートヴァルの声は低く、まるで毛を逆立てた野獣のよう。わけがわからないR4-Bは、途方に暮れる。ロートヴァルは低く続ける。

「俺は…そうだ、メビウスが憎い。何もしなかった、何もできなかった、無力なメビウスが。天使を説得することも、ゼロを守ることもせず、ただ泣くだけだったメビウスが」

「それは…ゼロの記憶?ゼロの思い?ゼロはメビウスを憎んでいたってこと?そうだよね…?」

R4-Bは冷や汗を流しながらたずねる。そうであってほしいと思いながら。しかしロートヴァルは、それを否定する。

「ちがう。ゼロはそんなこと、これっぽっちも思っていなかった。これは…これは俺の思いだ。俺は、メビウスが憎い」

「いったい…どうして?」

ロートヴァルは再び沈黙する。うつむいたまま、静かに目を閉じる。苦しそうな表情。

そこにあるのは、息の詰まる空気。濁った水の中にいるような空気。そう、鉛の空気。

R4-Bもうつむく。いったい、何があったというの?どうして…?R4-Bには何もわからない。彼には、ロートヴァルがもう一度口を開くのを、ただ待つことしかできない。

いったい、どれほどの時間が経ったのか。R4-Bにはもう、わからなくなってしまった。そんな頃に、もう一度、ロートヴァルは静かに口を開く。怒りのこもった、低い声。

「メビウスは、無力だった。すべての始まりは、天使を生み出したときだ。生まれた天使たちは喜んでメビウスの周りを舞ったが、すぐに死の神たるゼロを見つけた。そして、当然の如く怒り出した。しかしメビウスは、彼らを説得できなかった。死がどんなに大切なものか、いくら説いても、天使たちは納得しなかった。戦争になったとき、メビウスはただ泣き崩れているだけだった。天使たちを殺してけじめをつけることも、愛するゼロを守ることもしなかった。ゼロがその炎で世界を焼いても、メビウスは嘆くだけだった。俺は…だから俺は、メビウスが憎い」

ロートヴァルは苦しそうに目を閉じる。心を蝕むどす黒い感情。R4-Bは慌てて言う。

「そんな!メビウス様は頑張ったんだよ?自分の光で精いっぱいゼロを照らして、死の力が天使たちの方へ来ないようにしたって聞いたし、結果的には失敗だったけれど、説得だって必死にしたはず。天使たちを殺せなかったのは、メビウス様が優しい神様だったからだよ。メビウス様は悪くない。憎いだなんて、そんな…そんなこと、言わないでよ!」

R4-Bは必死でメビウスをかばう。しかし、ロートヴァルの表情は変わらない。怒りと苦しみ、そして、ひとさじの悲しみ。ロートヴァルは両手で顔を覆う。焦げた炭のように、真っ黒い手。R4-Bの手など、すっぽりと覆ってしまうほど大きな手。これ以上ないほどに、強く、優しい手。…R4-Bは気づく。ロートヴァルは、泣いているんだ。顔や声に出さなくても、僕にはわかる。途端、怒りや焦り、戸惑いが、すっ、と消えていく。美しい凪。そこにあるのは、この優しい大男を助けたいという、純粋な気持ち。R4-Bは立ち上がり、足音をたてずに静かに歩いて、ロートヴァルの横に行く。そっと座る。彼をなだめるように、R4-Bは優しく言う。

「ねぇ、ロートヴァル。ここの近くに、綺麗なお花畑があるんだって。行ってみない?」

ロートヴァルは両手をどけて、顔を上げる。漆黒の穴のような、虚ろな目。R4-Bはサファイアの大きな瞳で見つめ返す。やがて、ロートヴァルは静かにうなずく。ふたりは、ジェイドに留守番を頼んで、山のふもとの花畑へと足を運ぶ。


赤い、赤い花。空と同じ色の花。

R4-Bは花を踏んづけないようにしながら、花畑の中へと分け入っていく。その姿は、赤く染まる夕闇の海に入っていくように、ロートヴァルの目にはうつる。…恐ろしい。彼はぼんやりと、遠のいていくR4-Bの後ろ姿を見つめる。細く、弱々しい花に触れることは、ロートヴァルにはできない。

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