グラスは割れた

「もう、旅は終わり?メビウス様の神殿をたずねる理由、まだある?」

R4-Bがうつむきながらたずねる。

平原の街の宿屋の部屋。真っ赤なじゅうたんにランプのオレンジ色の光が反射し、じゅうたんはシルクのようになめらかに見える。

しかし、その華やかな光景とは裏腹に、そこには重たい空気が流れている。

ロートヴァルは腰に手を当てながら、R4-Bを見やる。

「ああ、あるな」

「…あるの?」

R4-Bが物憂げに顔をあげる。ロートヴァルは、いつもの低い声で続ける。

「言っただろう?俺は最後のひとつまでメビウス神殿をまわると。お前とともにな」

「でも、もう思い出しているんでしょう?僕には話してくれないけどさ」

R4-Bはふい、とそっぽを向く。ロートヴァルは困ったように眉を八の字にして、R4-Bを見る。弟と喧嘩をしてしまい、何をどうしたらいいのかわからない、兄のような顔。

小さな炎が灯った、ランプの温かい明かり。それはふたりの上で、ゆらゆらと揺れている。優しい明かりの下で、しばらく彼らは押し黙る。

すると、今までベッドのはしっこにちょこんと座っていたジェイドが、静かに口を開き、ふたりに言い聞かせるようにゆっくりと話し出す。

「神殿をまわる理由は、まだありますでしょう?そうでありましょう?」

ジェイドは首を動かし、美しい翡翠の目でロートヴァルを見る。ロートヴァルは、思わず目をそらしてしまう。

「どういうこと?」

R4-Bが顔をあげて、ジェイドにたずねる。

「ロートヴァル様はまだ、己の真の記憶を封じ込めたままのようでございます」

「おのれの、まことの、記憶…?」

R4-Bは不思議そうに、ゆっくりとジェイドの言葉をくり返す。ジェイドはうなずく。

「さようでございます」

彼は再び首を動かしてロートヴァルを見る。もう、きしむ音はしない。

「…あなた様は、ご自分を誰かと間違えているようでございます」

「どういうことだ?」

ロートヴァルはただひとこと、低く問う。ジェイドはぱちりとまばたきをすると、ロートヴァルに向き直り、透きとおる声で語る。

「何かを恐れていらっしゃるようですね。恐れているのは過去か、それとも自分自身の本性か…」

「やめろ」

ロートヴァルは唸る野獣のような、ドスのきいた声で言う。

「いい加減にしないと、お前を壊す」

「やめて、ロートヴァル!」

R4-Bが慌ててふたりの間に入る。R4-Bはロートヴァルの方を向くと、きっ、と怒った顔で彼を睨みつける。

「ロートヴァル!ロートヴァルは最近、なんだかおかしいよ!僕に記憶のこと、ちっとも話してくれないし、いきなりジェイドを脅しつけるし」

ロートヴァルは目を背ける。

「こっちを見てよ!何がそんなに怖いの?」

「…やめろ」

R4-Bは厳しい表情を崩さぬまま、両手をこぶしにして、ぐっ、と握りしめる。

「いいや、やめない!」

ほんの少し迷ったのち、R4-Bは続ける。

「天使に隠し事なんて、無駄なんだから!」

ロートヴァルはため息をつき、しばらくうつむく。そっと目を閉じる。炎。…数秒後、静かに目を開けると、彼はR4-Bの目をまっすぐに見る。ひどく悲しそうな、苦しそうな目。

「もうやめろ。やめてくれ。演技も、嘘も。俺は苦しくてたまらない…」

「…演技?嘘?」

一呼吸おいたのち、R4-Bはぞくりとする。顔からさぁ、と血の気が引いていくのがわかる。背中を冷や汗が伝う。まさか、まさか…

「お前の言う通り、俺は…思い出したんだ。自分のことも、お前の一族のことも、なにもかも」

R4-Bの世界から、すっ、と色が消えていく。モノクロの世界。寒い、寒い、寒い。冷や汗が止まらない。手足と翼ががくがくと震えて、うまく立っていられない。

「わかっ…てたの…?」

自分のかすれた声が、どこか遠くから聞こえてくる。

「ああ」

ロートヴァルはなおも、R4-Bから目を背けない。漆黒と真紅の瞳。そして、小さな悪魔の、サファイアの瞳。

「いつ、から…?」

「この街で火事を目撃したあとだ」

R4-Bの中に、言葉はただの声として、音として入ってくる。意味を掴むことはできない。言いたい言葉は頭の中にうるさいほど湧いて出てくるのに、ちっとも声に出せない。絶対零度の冷や汗。視界はもう、真っ白になっている。ばれていたんだ。あんなに前から…

「どうして…」

その言葉を口にしたとたん、目から涙が溢れてくる。それは滝のように、止めどもなく流れ落ちる。R4-Bは、もう自分を制御できない。さっきまでなかなか震えなかったのどから、からからに渇いた口から、勝手に言葉が流れ出てくる。怒り、嘆き、そして謝罪。崩折れる。座り込む。わんわんと、絶望にさいなまれながら彼は泣く。親を亡くした子どものように。大切な宝物を壊された子どものように。

ロートヴァルは静かに目を閉じる。

「すまない…」

苦しそうに下を向く。

「どうすればよかったのか、わからないんだ。お前が悲しみを押し殺して笑っているのを見て…言えなかった。すまない」

R4-Bは言葉にならない悲痛な声をあげて、泣き続ける。

ロートヴァルは、言葉を紡ぐ。

「俺のせいで、お前は大人になれなくなった。あのとき、火事で俺が倒れたとき、お前は泣いたから。俺はその呪いを知っている。お前の名前の意味も。俺はもっと早くに、お前に本当のことを伝えるべきだった。感謝も謝罪も言うべきだった。しかし、できなかったんだ…」

ロートヴァルは両手で顔を覆う。そして、深手を負った獣のような唸り声をあげながら、黒く鋭い爪で、己の顔をゆっくりとひっかく。皮膚が裂ける。血が滲む。血がたれる。ひび割れたコップから溢れる赤い苦しみ。

ジェイドは無表情で、ふたりを見ている。

「俺は…俺にはなんの覚悟もなかったんだ。お前の嘘に、苦しみに、気づかぬふりをして、すべてをうまくやり過ごそうとした。俺はとんだ卑怯者だ」

ロートヴァルは唸る。

「すまない、すまない…」

彼は謝り続ける。

…そこで突然、沈黙を守っていたジェイドが口を開く。静かに彼をなだめ始める。

「落ち着いてくださいませ。あなた様のするべきことは、ただ謝ることではありません」

ロートヴァルが血まみれの顔をあげる。

冷静な口調で、ジェイドは続ける。

「あなた様には覚悟がなかった?違いますでしょう?」

彼は、ロートヴァルの美しいオッドアイを見つめる。

「それが嘘にまみれていたとしても、真実に支えられていたとしても。あなた様は何があっても、この子に寄り添うと決めた。だから前も、今も、ここにいるのでありましょう?」

ロートヴァルの苦痛に満ちた顔。それはやがて、ひどく悲しそうな、とても大切なものをなくした幼い子供のような表情になる。

「ならば、あなた様はただ寄り添えば良いのではありませんか?嘘でも真実でも、ありのままを受け入れると、そう告げればよいのではありませんか?」

ジェイドはロートヴァルに語り聞かせる。

「ただ、そばにいればよいのです」

静かなオレンジ色の光の中。一粒のダイヤモンドが、真紅の瞳からこぼれ落ちる。その結晶は美しく三人をうつしだし、音を立てずに儚く、床に染み込む。

ロートヴァルは、雪の降りしきる純白の世界のように、静かに泣く。

「俺はそれでも…アル、お前のそばにいたかったんだ」

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